第20話 破魔矢

 破魔矢にはきっさきがない。

 神事に用いるもので、およそ武器ではない。

 獲物を射抜くための矢ではないので、尖っている理由はない。先端には丈夫な布地のポンポンがついている。

 破魔矢は妖気を祓い、鬼や邪を破呪するものだ。

 それを射つ弓は梓弓という。

 梓川の周辺で採れる、梓を使って作られる弓。

 古くは古事記にその記録があると、弓を習うように勧めてくれたお婆ぁが言ってた。防人が使ってたものも正倉院にあるという。

 その弦は麻糸を用いられ、梓巫女は弦を弾き鳴らして霊の口寄せや厄落としなどをする。現代では彼女らはイタコと呼ばれている。


 梓弓 おして春雨 今朝降りぬ 明日さえ降れば 落ち葉つみてふ


 とは古今和歌集に納められてる句で、詠みひと知らずになっている。かつての巫女が詠んだものかもしれない。

 競技用は身長に合わせて三寸詰めの七尺の弓を、ボクは使っている。

 けれどお婆ぁから受け継いだコレは並寸の七尺三寸もある。けれど今夜は遠射になる。いつもの道場の近的用じゃない。頼もしいとは思うけど、この弓を実際には使ったことはない。

 まして。

 この身体も借り物だ。

 史華姉の影に憑依したままで、自らの技が使えるのかはわかんない。


 山の端に日が隠れようとしていた。

 滝の轟轟とした重量感のあるどよもしの音がする。

 薄暗くなると、それが際立ってきた気がする。

 そこは樽沢の庵から登って、滝が降り落ちる頂を望める場所だった。

 猫の額ほどの展望台がある。

 その位置からは滝から滝壺までが一眼で見渡せる。10人とは並んで滝を堪能出来ない場所だと思う。

 木造りのデッキはみしみしとか細い音を立てて、産毛が総毛立つ。

 六花姉はてきぱきとそこに結界を張っていく。

 安全ポールや樹木を利用して、四方に縄を張って紙垂れを下げていく。簡易的ながらそこに結界をつくっているの。

 その光景を甘利助教と、求厭が離れた場所から窺っている。どう見てもストーカーにしか見えないね。

 まだボクたちは、求厭に信頼は置けない。

 お味方しようとは言ってはいても。

「あれは魍魎でも、かつてひとであったこともないわ」と六花姉は言っていた。

 そんな得体の知れないものに、彼に知らせるわけにはいかない。

 このボクの正体なんて。

 里宮からここに登る前に、一旦自分の身体に戻っておトイレを済ませて、井戸を使ってみそぎをした。

 まだ水が冷たくて震え上がってしまった。それを微笑みながら、六花姉が眺めていた。雪女じゃなくて、コッチは生身なの!

 それで里宮の本堂の結界の中に、お布団を敷いて寝かしつけてきた。

 このお祓いにどれだけの時間を要するかもわかんないので、念のために紙おむつを履いておいた。屈辱だわ。後始末はしたくないなあ。

 とはいえ、それが六花姉でも他の人に任せるのは、もっと嫌。

 さあて。

 彼の言によれば、あの黒い羽衣は鬼叢雲おにむらくもというらしい。

 飛翔する鬼叢雲を捉えるのは難しい。

「罠を張るんですよ」と彼は言った。

「罠には餌がいるわ」と姉は返した。

「史華の本体か」と助教が口を滑らせた。

 彼って迂闊なんだもん。

 さあて。

 結界の中央には寝袋で昏睡中の、史華姉の本体が横たわっている。

 そのあどけない寝顔は年上には思えない。

 青い寝袋に包まれた彼女は、蓑虫みのむしのように無防備に見える。

 そこに。

 明らかにサイズの違うオトナな身体に、自分の胴衣を纏っているのは違和感がある。弓道の胴衣なので、調整は襟と袴で何とかなるけど。

 胸当てを当てると、胸が邪魔!

「ほうほう」と奇矯な声を上げて求厭が歩いてくる。

「よいですな。もうじき鬼叢雲が降りて来るでしょう。肉体の器を求めてね」

「当てていいのね」と訊く。

「その意気や、軒昂ですな」

 ちょっとムッとしちゃう。

 鈴がちりんと涼やかな音を立てる。

 六花姉は巫女装束で、右手に小太刀を左手に鈴のついた緋扇を持って舞い始めた。彼女の巫女舞の儀を、こんな間近で見るのも久しぶり。

 朗々と祝詞を歌い始めると。

 空気が一際、清浄になった。

 凛と響く細い音が、海嘯にも似た轟きを切り裂いて鳴る。

 祝詞の艶やかな詠唱が、結界の内部を清浄に染めてゆく。

 清冽な音と響きが、絡み合う。

 緋袴が踊り、とんと床を踏む。

 紅の唇が、艶めかしく唄詠う。

 ざあっと木立が呼応し始めた。

 山奥の深淵が叫び始めている。

「来ましたな」と求厭が呟いた。

 黒々と聳そびえ立つ山容に削り取られて。視界が前方にしかない。

 その正面の空が割れた。

 遠くから飛翔して来たのではない。

 文字通りに空間が引き裂かれて、そこに物体が現れた。

 くさむらのような塊が高みに湧いていた。

 翼を持つ生き物でなく、不定形の物体が絡まりながら蠢いている。それは群生する不条理な蟲のようにも見えた。

 鬼叢雲、確かに何かが群がっている。

 それが月を隠している。

 中天に昇りかけた月が蝕われているように、歪に齧られている。

 一歩を踏み出して。

 梓弓を取って矢筒から破魔矢をつがえた。

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