第15話 破魔矢

 不意に呼び鈴が鳴った。

 引き戸が開く音がする。 

 まだ炬燵を出していて、おみかんを手に取ったところでその気配がしたので、席を立って玄関先に向かっていく。

「いらっしゃぁい」

「久しぶりね、直接ここに来るのは」

 そう言って六花姉はサイクルウェアの肩からディパックを下ろした。

「あの史華本体はどうなの?」と彼女は本体と影という用語を使う。

 その素っ気ない冷たい口調がいかにも雪女の性質だと思う。

「まだ眠っているわ」

 彼女を案内して居間に入ると、一緒に炬燵に入っていた史華姉が、ボクがそうしてるだろう動作でおみかん剥いて、ひと房を口に放り込んで笑みを向けてきた。それから「いらっしゃぁい」とそっくりな口調で真似ていた。

「この影の調子はどうなの?」

「そうねえ、ボクがやろって思ってたことをそのままするのよ。真似でもないのだけど、木霊が返ってくるような意識の反射があるのだと思う」

「まだ自我はないのよね」

「そうね。あれこれをやっといてね、意識を切り分けしてと頼んでおくとできるけど。例えば夕食をお願いってゆうことは、火を使うし怖くて出来ないわ」

「見た目はお姉さんだけど、まるで幼児を扱うようね。色葉はこの身体と同時に行動はできないの?」

「同時に2体を操るのは、うーん、できないことはないけど、複雑なことはできないわ。それこそ他愛ない幼児がふたり・・・」

「私の意識をこの肉体に埋め込むことは出来るのかしら?」

「どうだろう?」と小首を傾けたけど、きっとできると思う。しかし彼女の負担が重すぎる。史華姉の肉体に憑依しても雪女の能力が使えるとは限らない。

 強敵の現れた今、そんなリスクは犯せない。

「あ。そうそうあの黒い羽衣ね、手がかりみたいなものを聞いたわ。巨大な烏というか翼竜サイズのデカいのが飛んでいるそうよ」

「場所はどのあたりなの」

「ウチの高校のさ、脇に犀川が流れてるでしょ。その河岸をランニングしてた先輩がね、見たんだって。大峰の方から巨大な翼を持った烏のようなの。それがあの六花姉が言ってた黒い羽衣と思うんだけど」

「あの辺にさ、確かパラグライダーの離陸場があったでしょ」

「よく知ってるね。そんなの興味ないと思ってた」

「安全祈願のお祓いをしたのよ」

「そっか。でもパラグライダーではないそうよ。もう離陸は出来ない夕暮れ時だったし、ちゃんと羽ばたいていたんだって」

「じゃあ、有り得るわね」

 六花姉は整った小顔に右の人差し指を当てて考えていた。その指先で頬が窪んでいる。細い柳眉を曇らせて考え事をしている。

「そうね、調べてみるわ」と答えてじっと見返してきた。

「私が影を使おうと思ったのはね、甘利助教からの伝言があったのよ。色葉さあ、月曜日にはこの影の姿で信州大に行かないと」

「え、どして?」

「今年の選択科目の履修登録が必要だそうよ。本人登録で、もうすぐ締切りになるんだって」

「え?でもボク、大学の科目なんて解んないよ。それに史華姉の履修したい学科とか想像もつかない」

「そこはね。助教がそれなりに選んでくれているわ。まあ彼女が意識を取り戻してお好みに召すかはわからないけど」


 夕食は六花姉と史華姉と3人で摂った。

 父は例大祭の準備で会合に出ていて不在だった。

「ねえ、今日は泊まって行かない?ここんとこボクはお風呂でさあ、史華妹のお世話で大変だったの。六花姉によしよしされたいよお」と甘えた。

「ええ、いいわ」

 彼女の樽沢の庵までは急坂を登って行かないといけない。電動アシスト付きのマウンテンバイクだというけど、深夜だと厳しい。戸籍のない彼女には免許が持てない。だって生年月日ですら戦国時代のあたりで、全くの年齢不詳なんだもの。

「湯浴みは久しぶりだわ」と言って六花姉がお湯で掛かり湯をする。

「普段は滝で打たれてそのままにしているから」

 彼女の体質ではそれで構わないのだろうな、と思った。先に湯船に浸かって彼女が黒い髪を梳っているのをただみてる。小ぶりながら整った形の乳房が、ツンと果実を朱く尖らせている。

 笑みを含んでこちらを見て「さあ、色葉。こっちにおいで、洗ってあげる」といった。素直にそれに従って座る。まだあれほどに実ってはいない。でも史華妹を洗っていて、それよりは蓄えているけど。彼女に記憶と人格が戻って同期した時は、一気に成長するのだと思う。

「昔を思い出すわね」

 そう。小学生に上がる前によく一緒にお風呂に入っていた。その時から六花姉の肌は水滴を弾き返して、微塵も変化がない。それは数世紀を経てもそうだ。

 想い出す。

 まだ自意識がよく持てなかった頃、シャワーを使っている六花姉の脚にまとわりついていた。ぺたんと浴室の床に座ってね。

 彼女の白い柔肌に、つうって流れるものがあった。

 鉄の匂いがする、赤い液体が掠れながら滴っていた。その時の彼女は生理中だったのだと、今でこそわかる。稚気に溢れた当時は切り傷かと思った。

 治してあげないと、と彼女の太腿を抱きしめながら、その血を舐めて見た。

 電流が奔った気がした。

 幻惑の扉を開いた瞬間。

 妖しに棲む兆しだった。

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