サンタ・クロースの贈り物
美池蘭十郎
第1話
会議室に呼び出された萌依は兄の航大が「本日付けを持って代表取締役社長を解任します」と告げられて、怒りで身体を震わせていた。
鷹司萌依は、今年短大を卒業したばかりの二〇歳だが、名家として知られる鷹司家の令嬢で誰もが目を見張るほどの美人だ。優雅な身の熟しにも気品があり、一目見て只者ではない雰囲気が漂っていた。
萌依の兄の航大は、二五歳にして、一大コンツェルンの鷹司産業グループのオーナーだ。航大は、高学歴、高身長、高収入の三高で、若手経営者として業界周辺のみならず、広くその名が知られていた。姿勢が良く、細マッチョな彼は、いつもブランド物のスーツをスタイリッシュに着熟していた。
取締役会の解任理由は、会社法三百三十九条三の――当該取締役の経営能力の不足により客観的な状況から判断して将来的に会社に損害を与える可能性が高い場合――に該当するとの論拠だ。
主だった役員は――社長の航大が……、新会社設立起案を提出後、強引かつ無謀に事業を進めている。鷹司産業を中心としたグループの経営基盤を揺るがす重大な事態に発展しかねない――と糾弾した。
萌依は、気を取り直し、会議の席上で解任決議に反論し、社長の立場を支持した。さらに、社長派の役員たちが決起し、必死の抗弁で解任の取り消しを求めたため、十日後に取締役会が再開される運びとなった。
会議室を退室直前に、叔父で会長の鷹司力哉が航大に近づき声をかけた。
「おまえは、大事な会議に何度も遅刻している。商談も大事やけど……。次回の会議は遅れるなよ……。分かっているやろな」
「今まで、会議に遅刻したのは、指折り数えて七回だけですわ。それも、最大四十分ですやろ。退屈な報告・連絡だけの会議に出席だけするのは時間の無駄やと思います。今度の取締役会は、正念場やから開始時刻までに着席します。まあ、安心しといてください」
萌依は、綺麗な歯並びの白い歯を見せて微笑むと、大きくて優しさを感じさせる目元を細めて「大丈夫よ。私が、何とかするから……」と、航大を勇気づけた。萌依は今年短大を卒業して四月に入社したばかりの新入社員だが、航大の窮地を何度も救ってきた。
航大は、取締役会は、海外出張の翌々日だが、商談が二日も延びるほど、困難な案件だとは考えていない様子だった。
※
取締役会が再開される当日となった。海外出張から戻り、関西国際空港に着いた航大は岐路に立たされていた。萌依が確認したところ、商談が難航したため、帰国が取締役会当日になっていた。
萌依は、空港駐車場に停車していたクルマに飛び乗ると、アクセルを強く踏み先を急いだ。このままだと、会議に遅れるかどうか微妙なタイミングだ。クルマは、ポルシェ911ターボSで、座席は本革張り、最高時速三百三十キロのスポーツ・カーだった。ポルシェは洗車していて、ワックスもかけたばかりなので、ボディーは眩く、輝いていた。萌依がキーを回すと、水平対向六気筒エンジンの軽快な音が響いた。
混雑する国道をポルシェのハンドルを握り、萌依は、まっしぐらに京都市内にある自社ビルに向かって疾走させた。夜来の雨で路面は濡れており、先行車両は苛立つほど、のろのろと道路を走っていた。ハンドル操作で縫うように追い抜くと、萌依はアクセルを踏み込みスピードを上げた。
しばらくして、後ろからつけてきたパトカーに呼び掛けられ、路肩に停車するよう指示を受けた。九千円の反則金を徴収されただけではなく、警官は、二人を見ながら説教を始めた。
「鷹司さん、あなたは……、スピード違反が道路交通法の法定速度違反にあたり、行政処分と刑事処分を受ける違法行為やと分かっていましたか?」
「おぼろげには、分かっていたつもりです。急ぎの用があって、仕方なかったのです」
「スピードが三十キロもオーバーしはったら、赤切符を切らなあかん重大犯罪でっせ。スピード違反で、前科がつくものもおるぐらいや」
萌依には、警官の言葉や態度が尊大に見えていた。さらに、今の状況で長話ほど憎むべき敵はいないと感じていた。さらに――こんなアクシデントで遅れると、自分が迎えに来たのが無駄になる――と考えていた。
航大の腹心の部下たちは、仕事ができるうえ、人間性にも優れた者たちだが、誰一人弁の立つ者がいなかった。航大の人間性重視の登用方針が危急の今のタイミングでは、徒になりそうな雲行きだ。
二十分後に、警察署を再びポルシェのハンドルを握り、萌依は先を急いだ。
ビルの駐車場でクルマから降りた二人は、エレベーター・ホールに慌てて駆け出した。午後二時から始まっている会議に出席するために、ひたすら突っ走った。
自社ビルの三十五階と三十六階のフロアにまたがる大きなオフィス。中には、デスクと椅子が数多く並べられている。この場所を訪れた者が見るのは、日本を代表する企業の眩いばかりの光景だ。
萌依は、子どもの時分からずっと、一年の内でクリスマスがもっともワクワクする日だ。幼稚園の卒園文集に「大人になったら、サンタ・クロースと一緒に仕事をしたい」と、望みを語っていた。時々、当時の自分を思い出すと気持ちが浮き立ち、微笑ましく思えた。
ある者は、クリスマスの派手な装飾を「熾烈なクリスマス商戦に勝つための……、虚飾に満ちた演出に過ぎない」と冷笑する。萌依は――ニヒルにそう語る者たちには、分からない魅力があると、二〇歳の今でも考えていた。
望みは実現してこそ、他人が認める価値を持ち始める――萌依は、大人の訳知り顔のシラケたムードを憎み、子どもたちの語る夢想の方に、何十倍もの可愛気を感じていた。
※
航大は、四十五分遅刻すると会議室の自席近くに立ち、遅れて申し訳ないと謝った後で「今日、この場に集まってもらったのは他でもありません。重大な発表があるからなのですわ」と、大きな声で告げた。社長の解任決議は保留になり、今回の会議の動向次第となっていた、
会議室では、先に席に着いていた役員たちの中に冷ややかな視線で迎えるものが何人もいた。彼らは、若社長の航大を軽んじているかに見えた。
航大が遅刻するのは取引先を第一に考えていたからで、会議中に居眠りするのは、夜遅くまで飲み明かす日が多くなったのと、ベッドの中で寝付けないのが原因だ。一時期は「会議中に居眠りする奴があるかい」「それでも、大企業の経営者なのかね」と、会社役員たちは猛烈に非難したが、今では只々、呆れ顔を見せていた。
社長の航大が居眠りする原因も、取引先との間の接待疲れが、退屈な会議の時間になって、どっと出ていたのだ。――国事を預かる国会議員でも、退屈のあまり議事堂で居眠りをする――それに比べれば、些末な取り決めにあくびを我慢しながら、話を聞いているふりをするよりも、萌依には航大がよほど自分に正直に思えていた。
今回の議題は「新会社設立について」である。航大が調べさせたマーケティングなどの資料は、膨大なもので事業の成功を裏付けるのに十分なものに見えた。航大は自らが説明に当たり、会社役員たちの質問に答えた。
取締役会には、萌依も事務局の担当者として出席した。
「サンタ・クロースやトナカイと、一緒に仕事をしたいという、子どもの頃の念願を実現するために、俺は新会社をつくりたいのです。黒猫にも、ペリカンにも飛脚にも負けない宅配会社にするのや。そのために、センスの良い妹の萌依に社長に就任させ、陣頭指揮に立ってもらいます。社員の人選は後日、発表します。俺は本気や。俺を信用して欲しいのです」
スライドを映写するスクリーンの前に立つと、航大は力のこもった声で伝えた。
それは、萌依にとっても長い間、航大と二人で育んできた願いだった。
役員たちは、会議資料を前に目を白黒させていた。会長派の役員には、資料に出てくるサンタ・クロースやトナカイのイラストを単なるイメージ画像だ――と、軽んじてでもいる様子で、舌打ちする者も見受けられた。
だが、会社を代表する航大は、冗談半分にではなく相当本気の構えで強弁していた。萌依は、役員たちに航大の主張が戯言に聞こえなければ良いが――と、思った。航大はまるで、現実と虚構との区別も出来ない子どもなのか――それが意味する展開に、役員たちは恐怖すら感じているかに見えた。
「鷹司社長、今一つイメージが湧きません。もうちょいと、分かり易い言葉で、説明してもらえませんのやろか?」
「あとで、資料に目を通してもらうとして……。わが社は、子どもの夢を叶えるクリスマス商戦に宅配事業で参入する。まあ、そうや、そんな感じかな」
「つまり、サンタ・コスプレで玩具を配達する宅配会社をつくるのですか?」
「そうや。うまいこと言うなあ」
「今ひとつ、意味が分かりませんわ」
「実はなあ、トナカイは、輸入する予定にしている」
「へっ、どういうおつもりで?」
鷹司産業では、やり手で知られる専務だが、――理解の範囲を超越しているためなのか――、萌依には、気の抜けた声を発しているかに思えた。
「本格的にやらないと、子どもでも騙されん。多少の出費は止むを得ん」
「トナカイまで輸入せんでも、なんぼでも、誤魔化しようがあるでしょうが……」
「専務、そんな生ぬるいやり方はあかんよ。やる時は、徹底してやるんや」
「そんな横暴は、許さんからな。航大、おまえはいくつになっても、夢物語のような無茶ばかり言う。勝手な真似はあかん。わしが、断固阻止する」
鷹司産業では、会長の力哉が非難した。
力哉は、周囲の者には――甥の航大にグループ代表や、中核企業の鷹司産業社長の地位を譲ったのは、単に航大が前途有望な甥だからであって、実力では自分の方が優れている――と、臆面もなく主張した。
力哉は、重大な決定事項では、今回に限らず反対したケースがあった。萌依の目には――社長の地位は、甥に禅譲したものの、重大な案件は譲れない――と、意気込んでいるかに見えていた。
「社長、あなたの生ぬるい、こんな事業計画が通用するとでも思っているのですか?」
会長派の役員の一人である青野泰輔常務は、「サンタ・クロース株式会社の設立案」を見て、論外だと切り捨てた。
青野はいつも、病気で喉を傷めたような聞き苦しいガラガラ声で話すが、何が影響しているのか分からないが、今日は特に、聞きづらかった。萌依には悪だくみをする策謀家の声のように思えていた。
ある者は畏怖心から、ほかの者は鬱陶しさから、青野に近づくのを避けていた。それは、会長派の管理職であっても同様だった。それに反して、青野は創業者の相談役や力哉には受けが良く、株主の評判も上々だった。上には諂い、下には厳しい典型的な野心家タイプだ。
青野は、知的な広い額や、精力的な光の宿った野心的な目つきが、この男が侮れない人物であるのを証拠づけていた。萌依は、青野こそがもっとも警戒すべき人物だと考えていた。
航大の事業収支計画書では、宅配事業は十年で黒字転換し、後は順調に軌道に乗る予定で組み立てられていた。荷物の送付先は、子どものいる家庭だが、依頼主はデパートやスーパー、家電店などのおもちゃを扱う企業である。萌依は、大がかりな販路の構築に時間がかかると見ていた。会長の力哉には、図星を突かれた。
「一年で、黒字転換できる事業計画を立案すれば認める。今の計画やと、ただの皮算用や。話にも何も、ならへんやろ」
「俺は社運をかけてでも、やりとげたい事業なんや。何が何でも、この案を通しますよ」
「何べんも言うけど、そんな無謀は許さんぞ」
鬼の形相で力哉に詰め寄られ、航大は第一回目の会議では役員たちの賛同を得られなかった。航大の強引で無謀な事業計画が、現在の窮地につながっていた。
人は、体験のない出来事には身構え、消極的な姿勢をとる。さらに、間違った想像を膨らませ、否定的になる。だが、改革への冒険心がなければ進歩など望めない。萌依はこれまで、力哉が建設的な意見を述べるのを耳にした例がなかった。
取締役会には、航大と仲が良い顧問弁護士が出席し「解任手続きに不備があるうえ、新会社設立起案以外に、解任に当たるような重大な非行が見当たらない」と、意見を申し述べたため、何とか社長は留任できた。
サンタ・クロース株式会社(通称サンタ・クロース・カンパニー)を設立し、宅配事業を展開するにあたって予想される難点はいくつもあった。次回以降は、意地の悪い役員たちに、そこを突かれるのが予見できた。航大の案では、トナカイを大量に輸入し、橇を引かせて車道を走り、クリスマス・イブの夜に、大きな靴下に入れたプレゼントを手渡す計画だ。
役員たちは、トナカイが輸入可能かどうか疑問ですが――と、異論をはさむだけで口が重くなる者、首を傾げる者、抽象的に批判する者が目立ち、積極的に賛意を示す者は皆無だった。
毎年……、クリスマスが近づくと、街は活気を取り戻し、サンタ・クロースやトナカイの人形、金ぴかのギフト・ボックスや、レンガ調の煙突などが商店街には溢れ出し『クリスマス・キャロル』が流れると、寒々とした師走の街並みを輝いた世界に一変した。
デパートのホールに入ると、大きなクリスマス・ツリーにつけられた赤や青や緑に明滅する電飾やオーナメントが、買い物客の目を引く。子どもたちは、サンタ・クロースや妖精トントゥの活躍するファンタジーの世界の住人のように、目を輝かせた。萌依は、そんな光景を今まで何度も目にしてきた。
「何事も、中途半端は駄目や。子どもに夢を与えるために、リアリティーを徹底的に追及するんや」と、航大は主張していた。
航大に味方する冬村直人取締役や、理解者たちは計画の見直しを強いられた。それにもかかわらず、航大は「俺の立案した計画にそって、全部実現せなあかん。子どもたちの夢がかかっている。それぐらい分かるやろ」の一点張りだ。
鷹司産業の社長室は堂々としたもので、美人秘書や執事が身の回りの世話をしていた。
「自信に根拠などいらん。自信は後からついてくるものや」が、航大の口癖だ。
「社長の最大の敵は、会長の力哉さんではなく、あなた自身のプライドの高さではないですか」冬村は、若社長の自信の先にある冷淡なまでの現実の厳しさに、怖れを感じて告げた。事実、航大のプライドの高い京都人気質が裏目に出るケースがあった。
冬村の調査では、トナカイは絶滅危惧種に指定されているため、輸入ルートが構築できない。航大が、トナカイによく似たヘラジカを調べさせたところ、――ヘラジカならワシントン条約の規定に反しないものの、近年は偶蹄目の検疫が厳しくなったため、輸入ルートの構築は困難が予想される――との報告を受けた。
一般道路をトナカイなどの動物が引く橇を走らせるのは、道路交通法では――軽車両=自転車、荷車その他人若しくは動物の力により、又は他の車両に牽引され、かつ、レールによらないで運転する車(そり及び牛馬を含む)――に該当する。だが……、万一交通渋滞の原因になり、トラブルが発生すると、企業の風評悪化を招きかねなかった。
「法的に問題がなくても、運用上の障害がありまっせ」と、冬村は強く主張した。
博識で、機知に富む冬村は、江戸時代の儒学者の末裔で何人もの先祖が学者だと主張しているが、萌依は彼の空想によるものと見做していた。だが、鼈甲フレームの眼鏡をかけた冬村が、思索の深そうな表情をすると、誰よりも知的で魅力的に見えた。顔を覆う髭さえあれば、白髪の冬村はサンタ・クロースにもっともよく似ていた。
萌依だけではなく、誰もが……、航大のそばで意見を語る冬村を黒田官兵衛のような智謀にたけた人物だと信じて疑わなかった。
「社長、お考えを改めて、別計画で推進できませんか? 何なら、私が叩き台を用意いたしますが……。どないですやろか?」
「冬村さん、あんたの言う話は、よう分かります。そやけど、そんな弱腰で臨んでも、ええ結果には、つながらんやろ。最初から、そんな調子ではあかんな。細かい手順は後回しでいい。俺が立てた……、初めの計画通り、行きましょうや」
萌依には、運用上の難点の解決よりも、短時日で販路を構築し、役員会議の席で幹部の同意を得るのが、当面の最重要課題に思えていた。
航大は、鷹司産業では精鋭の営業部員を集めて告げた。「新会社のプロジェクト・チームを発足する。事業を軌道に乗せるために、しばらく君らの力を借りるつもりや。ええな」
「そこまで社長に言われたら、しょうがないですな」
「はっきりと答えてくれや。出陣式の前や。意気込みを示せ」
「わかりました。何とかします」営業部員の一人は、航大に促され大きな声で答えた。
「ほな、販路構築のためのリスト作りから始めます。いつごろから動き、何人の人員を投入できるか来週には、報告できます」
南郷大吾営業部長は、航大の意向を理解して「社長、あなたの期待に沿うよう努力します。まあ、見ていてください」と、自信ありげに告げた。
大企業の経営者として名高い航大には、上を目指す他に道はなかった。
デフレ不況が続く中で、経営者として新機軸を見出し、収益性の向上を図るのは必須事項だ。持ちこたえられずに経営破綻する企業は、数多く存在した。穴の開いた船のように沈没し、所在が分からない経営者もいる。
経営者には、守りを固めるばかりで、人員整理を実行しては、古参の有能な社員を何人も退職に追いやり恨みを買う者もいれば、経営再建に乗り出し積極策を打ち出す者もいた。不況下の日本では、あらゆる経営者に過酷な試練を課していた。
一度、企業経営を始めたら、利害得失に無関心でいられる者は皆無だ。企業利益の亡霊に追いかけられて、計算高い人間になる。生々しいが、現実の有様である。
萌依には、航大が新会社に――子どもたちに夢を与える他に、人員整理を避けて社員の家庭を守る――希望を託す考えでいるのが理解できた
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