東雲の言葉
花楠彾生
茜
他人が泣いた作品で泣けない。悲愴も感動も、確かにそこにあるのに涙が出ない。何で、どうして涙が出ないのかも分からない。
卒業式。友人との別れ。無論、映画やドラマ、小説などでも、涙を流した覚えなど無い。
そんな様子を見て、友人である彼はこう言う。
「感情無いの?」
案の定、笑いを含み言われた。悪意は無い。そんな事直ぐに分かった。ジョークであると。
僕がそれを理解して笑いながら肯定すると、彼は続けた。
「てかお前いつもそうだよな。感情無さすぎっつーかなんつーか?人とうまくやって行きたいんだったらもっと感受性豊かにでもなったら?」
こんな事を言われるのも分かっていた。分かっていたけど、覚悟はしていたけれど、やはりその言葉は深く胸を抉った。僕らの間に一瞬沈黙が流れた。
数秒経って僕の口から零れ落ちたのは、当然嫌われるような台詞だった。
「お前に何が分かる」
僕はそう呟き彼に背を向け歩き出した。大股で。早足で。遂には走り出した。行く宛ても無くただ。
行き着く先なんてどうでも良かった。好きなところで路を折れ、好きなところで少し立ち止まる。好きな路を行く。それだけで良かった。空は茜色に染まり、薄い月を映し出した。
空に月が輝き出した頃、僕は立ち止まった。ここはどこだろうか。分からない。しかしそれで良い。分からないのが良い。
僕は近くにあったベンチに腰を下ろした。ボーッと、真っ直ぐ前を見つめていた。
僕は彼に言われたことを頭の中で反芻する。すると、何か気味の悪い感情が胸の中で渦巻いた。それを言葉にしようと、僕は鞄から小さな手帳とペンを取り出した。
最初のうちは筆が進まなかった。分からないのだ。これが何なのか。分からないから考えた。今までの人生を振り返ってみた。
筆が進んだ。無我夢中で手帳に言葉を綴った。それは僕も予想をしていなかった言葉の羅列だった。
涙が何だ!笑顔が何だ!
僕は怒りを感じている!
悲愴を感じている!
僕は紛れもない純粋な感情を抱いて生きてる!
それなのになんなんだ!
同じところで同じ様に笑って、泣いて、怒っているお前らはただの複製だ!
複製如きに僕の何が分かる?
そう意味も無く書き殴る。冷静になって見ると、小さく笑いが漏れた。
そこでふと冷たいものが頬を伝った。次にペンを持った右手に。そして手帳へと降ちた。
顔を上げる。
いつの間にか月は純黒の雲に覆われ、光は消え去っていた。
雨音が耳を突く。僕の身体は次第に冷たくなって行った。手帳の文字も滲んだ。
その滲んだ字に、僕は美しさを憶えた。
ああ、普通は悲しむのだろうか。寒いと。何をしてくれているのだと、雨を恨むのだろうか。早く家に帰ろうと思うのだろうか。普通なら。普通ならどんな感情を抱くのだろうか。
「普通なら……」
口から溢れ出た言葉。それが僕の人生だった。
普通が嫌なのに普通を考える。普通の人間を演じる。普通だと言い張る。普通なら、と。自分を俯瞰する。普通が嫌なのに、普通に憧れる。
そんな人生だ。
唐突に、本当に唐突に、消えたくなった。
普通を考える度にズレを実感した。……違う。周りとズレている事なんてとっくのとうに分かっていた。それを認識するのが怖くて、でも逃げてる自分が一番嫌いなんだ。
きっと僕は透明人間見たいなモノ。
同じ感情に染まった大勢の人間の中で、ただ一人その感情に染まれなかった透明人間。何の色も無い人間だ。
透明人間が消えたところで何も変わらない。悲しむ人も居ない。世界が変わることも無い。
ならば、ならば僕の利益になる事を。
ならば多少の僕の我儘も、全て許されるのではないだろうか。
そうして僕は死ぬ理由を必死に探している。生きる事よりも大切であるかの様に。馬鹿馬鹿しい。そんな事を思うと、また死にたくなった。
僕はまた手帳に視線を落とした。複雑な文字は潰れ、滲み、白かった手帳を黒に染めようとしている。時間をかければ辛うじて読める文字列。しかし、その悲惨な姿は読むにも値しない。僕はそのページを破り丸め、ポケットに入れた。
「これ、どうしよう」
そこで僕の意識は暗闇に落ちた。
目が覚めた。
風は凪ぎ、雨音も止んでいる。月は沈み、太陽が顔を出そうとしていた。
僕の目に映し出された光景は、とても美しいものだった。
僕の最後の言葉はここに残そう。
そう思い、ポケットから丸めた紙を取り出した。もう日の目を見る事も無い文字列だ。せめて僕の中にこれを閉じ込めておこう。
たっぷりの皮肉を混ぜ、僕はそれを細かく千切りながら飲み込んで行く。噎せた。涙が滲んだ。しかしそれも直ぐに止まった。
「透明人間になんて成りたくなかった」
少年の目には何が写っただろうか。澄んだ海が陽の光を反射し、東雲に染まっていく瞬間であるか。はたまたそれは空であるか。
彼はきっと、最期まで他人に迷惑をかけ続けた。
東雲の言葉 花楠彾生 @kananr
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