第8話 神の存在 

「映画なんてさ、ネットで見ればよくない?」


 マンションを出たとき、不意に万願寺がそんなことを言ってきた。


「盗み聞きか?」

「聞こえただけだし! それにリビングでも言ってたじゃん!」


 外に出ると、日が沈んだせいか空気がひんやりしていた。濡れた街の水分が熱を吸収したせいもあるのだろう。季節は春なのに、感じられるはずの温かさはまだ遠い。


 万願寺の意見は最もだった。


「桜はパソコンを持ってないんだ」

「なんで買ってあげないの? 便利なのに」

「ネットは便利だが、あれは見なくていいものまで見せたりするだろ? 桜にそんなもの見せる必要はない」


 そう断言してみせたものの、万願寺は、ふぅんと鼻を鳴らす。


「最円くんはパソコン持ってるの?」


 そして切り替えしてきた質問に、俺は一瞬言い淀んだ。


「……まあ、持ってはいる」

「お兄ちゃんはパソコン持ってるけど、妹さんには与えないんだ?」


 持っていると答えた時点で、そういう責め方をされることは容易に想像できた。だが、実際にされると腹立つな……。


「桜にはまだ早い」

「早くなくない? 今どき小学生でもネットくらい使いこなしてるけど?」


 執拗に桜の味方をする万願寺に思わずため息。


 足を止めると、並んで歩いていた彼女がそれに気づいて体ごと振り返ってきた。それでもなお、探るような視線が俺につきまとう。


 彼女は、何かに気づいているのかもしれない。



 だとしたら、隠すことのほうが無意味に感じられた。



「桜は……不幸を見過ごせないんだ。ネットだけじゃない。テレビのニュースなんかでも、悲しい事故や事件を見ると精神的に落ち込んでしまうんだ」


 それを言いたくなかったのは、桜に同情して欲しくなかったからだった。


 可哀想なんて思われたくない。そう思ってしまうのは、相手が自分より優れているという優越感に浸れるからだ。

 要は、桜を下に見られたくなかった。



「――やっぱ、そうなんだ?」



 だが、万願寺の口から出てきたのは、俺が嫌悪する返しじゃなかった。


「わかるよ。そういうの。うちもそうだから」


 同情でも憐れみでもない。かといって、共感してくれるような優しい口調ですらない。


「生きづらいんだよね。そういう人種ってさ」


 射抜くような視線に背筋が凍りついたのは、気温のせいだろうか。彼女が吐いた「人種」という言葉には、差別的な冷遇が入り混じっているように感じる。表情は無で、そこから感情を読み取ることはできない。


「うちらみたいなのはさ、一生誰かの顔色を窺っていかなきゃいけないんだと思う。じゃないと耐えられないから。たぶん、人間的に脆いんだよ」


 自虐的なセリフは、あまりにも平然と吐かれた。もはやそこに悲壮感はない。あったのは、諦めて現実を受け入れた、悲しい結果だけ。


「そうやって自滅して、みんなの足並みを乱して迷惑かけて、またそれで落ち込む。どこまでいっても地獄なんだよ。ならさ――いっそのこと消えたほうがよくない?」


 そんな結果から導き出された結末エンドを、万願寺は淡々と語った。


 まるで、それこそが在るべき正しい世界なのだと言わんばかりに。


「だから、宗教勧誘者なんて怪しい奴を演じてるのか」

「……」


 万願寺は答えなかった。つまりは、そういうことなのだろう。


「消えたほうがいいのなら、なんで今お前は生きてる? 死にたくないから生きてるんじゃないのか?」


 消えたほうがいいなんて本心じゃないはずだ。それが本心なら、彼女はとっくに死んでいるはず。


 そう思って反論したのだが、


「うちは別に、死にたいなんて言ってないけど。今死んだら、親が悲しむじゃん」

「た、たしかに……」


 なんか逆に論破されてしまった。


「うちはさ、誰からも求められず、誰にも覚えてもらうこともなく、まるで忘れられたように消えたいの。それなら誰も悲しまないじゃん?」


 人が逝去して悲しむのは、彼らがその人と共に生きた経験を共有しているからだろう。そう考えれば、万願寺のやり方はひどく合理的に思える。胡散臭いセリフで宗教勧誘をしていれば、誰かが近づいてくることはない。むしろ遠ざかっていき、共に生きることもないだろうから。


「それが、お前の言う『幸せになる方法』なのか」

「そう。誰も悲しむことのないハッピーエンド」


 それを彼女はハッピーエンドと断言した。


 果たして……本当にそうだろうか?


 んなわけねぇだろ。


「言いたいことはわかった。だがな、万願寺。消えたいのなら生きる場所を間違えてるぞ」

「生きる場所?」


 彼女のオウム返しに、俺は確信を持って頷いた。



 ◆ 


 

「お前は神を信じるか?」


 その質問に、万願寺は眉根を寄せた。


「突然なに? 別に、信じてないけど」


 まあ、そうだろう。宗教勧誘は演技なのだから、彼女はそもそも信者ですらない。神を信じてなくてもおかしくなんてない。


「神はいるぞ」

「は? 何言ってんの? もしかして最円くんのほうが怪しい組織に入ってたとかいうオチ?」


 だから、俺が神を肯定してやったら秒で呆れられた……。あの、仮にも宗教勧誘してた方ですよね?


「そうじゃない。正確に言えば、神様は居てもいいし、居なくてもいいんだ。なぜなら、俺たちが生きてるここは神のつくった世界じゃなく、人がつくった社会だからな」


 彼女の訝しげな視線が鋭くなったのを感じた。


「考えてもみろ。世界をつくった神が、社会なんていうコミュニティを勝手につくった人間にわざわざ関与してくるか? 答えはNOだ。神様はいないんじゃない。社会においてその地位にあるのが人様なだけだ」


 神は死んだ、というのはニーチェだったか。社会において幸せを与えてくれるのは人でしかない。現代脳科学ですら、幸せを感じるのは他人と関わったときだと証明してしまっている。人はひとりじゃ幸せを得られない。神がいるかどうかなんてのは、もはや着目すべき問題じゃなかった。 


「生きる場所が違うっていうのはどういう意味?」

「万願寺が今やってるのは、生け贄を捧げて多くを生かそうとする行為と同じだ。別にそれはおかしなことじゃない。実際に、捕食動物に自らを捧げて群れを逃がそうとするヤギだっている。だから、万願寺が生きるべきは、社会じゃなく世界のほうなんだよ。人様は誰かの犠牲のうえに成り立つ平穏をハッピーエンドとは呼ばないからな」


 もしも、種の存続なんかが幸せにおける概念だとしたら、それは確かに幸せになる方法と言えるだろう。最低限の犠牲で誰かを生かす――自己犠牲は立派な手段だ。


「要は、世離れして人がいない場所で暮らせってことだ。そうすれば誰にも覚えてもらうことはないし、ひっそりと消えることもできる。無人島なんかピッタリじゃないか?」


 個人的にはイーハトーブをオススメしたい。あそこは自己犠牲の理想郷だからな。まあ、実際に行ったらただの岩手なんだけど。


 そんな俺の提案に、万願寺は怒気を孕んだ目で睨みつけてきた。言いたいことはわかる。


「そんなの――」

「できるわけない、よな。俺たちはまだ大人たちの保護下にある何もできない十代なんだから」


 先回りして答えたら、さらにきつく睨みつけられてしまった。だが、怖くはない。


「神はいるかもしれないが、崇拝するなら人にしとけ。俺たちはまだ社会ここで生きるしかないんだから」


 俺も万願寺にも自由なんてない。勝手に死ぬことすら許されちゃいない。死ねないのは死が恐ろしいことも理由にあるだろうが、その先で誰かが悲しむことを予期できているからだ。



 万願寺はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。



「妹さんにもそう教えてるの? だから……あんなコスプレさせてるわけ?」


 それを聞いた瞬間、咳き込みそうになった。


「そんなわけあるか! あれはたまたまだ」

「そうなの? 今の口ぶりからすると、妹さんに最円くんを崇拝させてるように聞こえたけど……」


 なんでそんな発想になるんだよ……それだと怖すぎるだろ俺。


 だが、よくよく考えてみればあながち間違いというわけでもなかった。


「逆だ。桜が俺を崇拝してるんじゃない。俺が桜を崇拝してるんだよ」


 桜は、紛うことなき神ではあったから。神というか天使。うむ。


「え、ごめん。きも……」


 そしたら、万願寺に辛辣を洩らされた。謝ってからきもいとか言うなよ……ガチ感でるだろ。


「なんか、傷つけてごめん。顔がガチきしょかったから」

「おい、二度目はもう確信犯だろうが」


 それはさすがの俺でもわかる。指摘をしたら、万願寺は口元をひくつかせたあと、やがて吹き出すように笑いだした。


「ごめんごめん。最円くんめっちゃ真面目なこと言ってた気がするのに、最後ただのシスコンだったからさ」

「別にシスコンでもいいだろ。要は単数じゃなければいいんだから」

「なに? 単数って?」

「結婚も友達も仲間も家族もぜんぶ複数だ。個人の幸せなんて人それぞれだろうが、共通してるのは一人じゃないってことだ」

「一人ぼっちじゃ、幸せになれないってこと?」

「社会における幸せとは違うんじゃないか?」

「でもさ、孤独死を幸せに思う人もいるくない?」


 その質問に、俺はやはりため息を吐かざるを得ない。


「何言ってんだ。他人がそれを聞いて幸せだと思えなければ、ハッピーエンドなわけないだろ」


 どうやら、万願寺はまだわかっていないらしい。だから、理解できるよう直接的に言うしかなかった。


「万願寺だけが幸せじゃ意味がない。俺が見る万願寺も幸せじゃなければハッピーエンドじゃないんだ。お前が消えたら、少なくとも俺はそれを悲しいと思う」


 万願寺の目が大きく見開かれた。まつ毛にかかった前髪すら気にならないほど、彼女は凝視を続ける。アホみたく半端に開かれた口はしばらくそのままで、その表情が自我を取り戻すと同時に視線がさがる。


「そっか……なら、最円くんにこの話をしたの失敗だったかも」

「かもな? お前がそのまま宗教勧誘者を演じていれば、そんなこと思いもしなかったはずだ」


 彼女はそれに、はははと空笑いをした。


「まあ、そう落ち込むことないぞ。お前の宗教勧誘があまりに定型じみていたことを俺は不審に感じていたし、それがなければお前を助けようなんて思わなかっただろうからな」



 遅かれ早かれ彼女の嘘はバレていたように思う。なんというか……万願寺は演技が下手くそだ。逆に今までバレてなかったのが不思議とすら思えるほど。


 慰めの言葉ではあったが、言わないよりはマシだろう。


 そしたら万願寺は、再びアホ面で俺を見つめていた。


「あー……そういえばさ! 最円くんよくあの二人に勝てたよね!? 武術とか習ってた?」 

「え?」


 急な話題の切り替えしについていけず、ぽかんとしてしまう。


 それ今質問する流れだったか……?


「……いや、習ってはないが、身体の使いかたは親父から教わってたからな? その遺産だ」

「お父さんが武術家?」

「親父はスタントマンだったんだ」

「そうなんだ!? それすごくない? あ! てか、お母さんが女優ってそういうこと?」

「どういうことなのか知らないが、出会いは撮影現場だったらしい」

「へぇー、なんか良いね!」

「いいか……?」

「うん! 二人で映画つくってる感じがして!」



 声のトーンがさっきとは明らかに違う。やはり万願寺は演技が下手くそだ。


 だが、別にそこを問いただす必要はないだろう。


「まあ、そうなのかもな」


 俺と彼女がすべき議論はすでに終わっていたから。


 万願寺がその時なにを思ったのかなんて、もはや神がいるかどうかくらい些細なことだった。

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