第14話


 天道の情報が、検児から寄せられていた。フィクサーの疎狂が、目立った動きをし始めていた。僕らには、加藤邸と呼ばれる難攻不落の城塞があった。この場所で、奴らを迎え撃つ予感が働いた。

 加藤邸では、菖蒲の様子が、以前にも増して妙な具合だった。

「動いちゃだめよ」と、指示しながら、僕の方に顔を近づけて来た。菖蒲は、僕に抵抗する隙を与えずに、チュッと下唇に、自分の唇を押しあてた。

 野江は、涙目になっていた。僕の目の色を読むような表情をすると「私は気にしていないわ」と強がった。

 男にとって、愛する相手とのキスは、性行為のプロセスに過ぎないが、女にとっては、キスとセックスは愛情の証として、同じ意味を持っていた。

 僕は、股間のプロテクターがずれていないか、たびたび確認するのがクセになっていた。動きが、卑猥に見えるのか、旋律に「おいおい、紛らわしい仕草をするなよな。そんな仕草をしたって、女は、喜ばない」と、注意される始末だった。

 メイドの中にも、露骨に挑発してくる娘がいた。

 実家が山の上でレストランを運営しているメイドは「家の近くの草原を抜けた所に、鍾乳洞がある観光名所なの」と、談笑した後で、僕を誘った。

 二つの山や谷間が眩しく、可憐な茂みや、洞穴を想像した。

 僕がメイドに「中まで、しっとり潤い、歳月を感じさせる滑らかな美しい鍾乳洞は、見事だよね」と会話していると、野江は、誤解したのか赤面し「そんな話、私の前ではやめてね」と、口をとがらせた。

 冷静沈着、博覧強記な野江が、どこか変質していた。野江の心の中では、嫉妬心が膨らみ、傷ついていた。そう思うと、同時に「僕は野江一筋だからさ。浮気だか浮輪だか、不倫だか、風鈴だか分からないけど、そんな気持ちは、微塵もないよ。僕にとっては、君が最も美しいよ」

 思いを込めて伝えたからなのか、野江の気持ちも落ち着いた様子だった。

       ※

 天道たちへの対抗手段を考えた。予定通り、籠城するにしても、準備不足を解消し、不安要素をなくしておく作戦だった。

 トイレで用を足しながら、僕は考えてみた。新陳代謝が進むと、MHCが変化するとともに、細胞膜に浸潤したフェロモン物質も正常化し、元通りに戻れるのではないかと――。世之介症候群は、予想以上に手ごわかった。サイモントン療法や、プラセポ効果の起こす奇跡と違い、想念感情だけで、回復は期待できなかった。

 天道たちとの決戦を前にして、僕はデオドラント剤を飲み干してしまった。オオカミの着ぐるみを使い物にならなくしたのを後悔していた。ネット通販で、ゴリラの着ぐるみを注文するつもりだったが、タイミングが合わなかった。

 いつになったら、表通りを衆人監視の目を潜り抜けずに、堂々と歩ける日が来るのか想像もできなかった。僕は、タレントでもなければ、逃亡中の指名手配犯でもない平凡な男だった。本来なら、人目を気にする必要性はなかった。トイレを出て、また対策を練った。

 光学迷彩素材のシートは三人分あった。天道から、逃げなければならないのは、僕と野江と旋律と、菖蒲の四人だった。最強の武道家、旋律は、迷彩素材を自分用に加工して、着用していた。野江は、研究所の一員なので、面が割れている可能性があった。

 そこで、もっとも狙われている僕が、菖蒲のシートを譲り受けた。菖蒲は、メイド服を着て、加藤邸の使用人を装った。何かあったときは、僕と野江と旋律が、行動をともにし、菖蒲に残ってもらう方針になった。

 正直なところ、僕は菖蒲の悩殺攻撃にしてやられ、心が揺れ始めていた。惜しい気もしたが、野江との関係悪化を避けるためには、仕方なかった。

 菖蒲は「裕司さん、あなたとずっと、一緒にいたいのよ」と、哀切な声を出した。

 僕は、菖蒲の気持ちを宥める言葉が見つからなかった。

 菖蒲は「ねっ」と、僕にねだるような視線を送った。

「僕も菖蒲ちゃんと、一緒にいたいけど……」と、仕方なく宥めた。

 野江が鋭い視線で、僕と菖蒲を交互に見ていた。僕は、ぞっとしていた。

 このあと、何が起ころうとしているのか、予測がつかなかった。明確には分からないが、僕らが危険に向き合おうとしているのは事実だった。デオドラント剤を切らしてしまい、オオカミの着ぐるみを失った僕は、盾や鎧を身に着けずに、武装した連中と向き合う無防備な状態だった。

 女たちは、猫のような獣性を秘めていた。僕の姿を見つけるや、軽やかな身のこなしで僕に踊りかかってきた。それは、決して夢見心地ではなく、悪夢だった。

 加藤邸の敷地をさっと横切って、スズメが榎に飛び移ると、天敵の存在しない梢から、僕らの様子を見下ろしていた。カレもしくはカノジョだって、優秀な遺伝子を求めてパートナーと交尾するべく、相手を求めていた。頭の中で、想像してみたものの、その自然の摂理がおぞましく感じられ、身震いした。

 菖蒲は、フェロモン物質に反応したのか、僕の片腕をとり、頬を摺り寄せてきた。「本当は私って、こんな子じゃないけど、あなたを見ていると、たまらないのよ」

 女は、よほど親しい相手に対してでないと、そんな言葉は吐かない。僕はまた、胸のどこかが痛くなった。

 僕にとって、存在の確認できている天敵は、疎狂だった。僕が尊敬してやまない風教の弟子だから、葛藤が生じていた。運命は、つくづく皮肉にできていた。

 菖蒲を横目に見ながら、僕は野江に「慎重に考えてみたけど、僕は君たちを危険に巻き込みたくない。天道たちは、きっと僕の特異体質を研究材料にしたいと思っている。モルモットは一匹いれば十分だ」と、心情を漏らした。

「どういう意味かしら」と、野江は真剣な眼差しで僕を見た。

「それは……」と、僕が言おうとしたとき、大きな物音が聞こえた。

 物音を聞きつけた旋律が、隠れ家から外へ飛び出すと「おいっ、裕司、こっちに来て見ろよ」と大きな声を出した。

 僕は息をとめた。呼吸を整えると、表に出てみた。旋律の指さす方向を見ると、加藤邸の使用人の男が、蹲っていた。

 男は、加藤が信頼するガード・マンの一人だった。旋律は、男の方に顔を近づけると「おい、大丈夫か」と尋ねた。

「いきなり背後から、棍棒のようなもので殴られた」と答えた。

「詳しく、説明してくれないか」

 ガード・マンは、起き上がり「巡回警邏したところ、加藤邸の敷地内には、あなたたちと、メイドしかいなかった」と、弱々しい声を出した。もう一人のガード・マンは非番だ。

 隠れ家の屋敷の中は広く、電灯を消すと、外の明かりが入り込まないため、洞窟を想像させる暗い場所が幾つもあった。一度、忍び込まれると、捜索に時間がかかった。だが、秘密の地下通路をくぐり抜けて、隠れ家までたどり着くのは、容易ではなかった。

 隠れ家は、頑丈につくり込まれ、高い天井を支える梁は、大理石で堅固に建てられていた。僕らは隠れ家に満足していた。居室には、細部に至るまで細工が施され、愛らしい雰囲気が漂っていた。

 急襲を受けて、愛すべき隠れ家の短所が露呈した。僕と加藤とガード・マンの男二人以外は、すべて女だった。隠れ家の裏手には、露天風呂があり、屋敷の二階の洋室からは、丸見えになっていた。世之介症候群で闘病中の僕は、内幕を知っていても、覗き見る気が起らなかった。

 僕は「まさか」と、声に出して疑った。

 旋律は「裕司、そのまさかだ」と、声を大きくした。

 僕も旋律も、ガード・マンとメイドの誰かが、何らかのトラブルを起こしたと、推測した。痴情がらみか、それとも敵のスパイなのか。疎狂たちが、攻めて来る前に、調べておきたかった。

 旋律は、ガード・マンに「こっちに来て、さっきの様子を説明してくれないか」と頼んだ。

 非常事態に遭遇したとき、冷静な判断力を失うと、展望が見えなくなった。神経が研ぎ澄まされていれば、ごくかすかな物音でも分かった。

 僕らは全員、隠れ家の安全性を過信していたため、ガード・マン殴打事件につながった。加藤邸の安全神話は、脆くも崩れ去ろうとしていた。

 ガード・マンは「からくり部屋や、迷路の図面が盗まれたため、隠れ家周辺まで調査していました」と、説明した。

 さらに、メイドが集まる女の園に踏み込み、一人のメイドの挙動がおかしいのに気づいていた。「尾行調査していたら、背後からガツンとやられた」と話した。

 ガード・マンが特定したメイドは、すでに姿をくらましていた。動きの素早い旋律が見失うほどだった。屋敷や隠れ家の構造を熟知しているため、だまし絵や迷路を巧みに利用して逃亡したのが分かった。今後の行動には、一層の注意を払う必要があった。

 僕らは、所持品を一カ所にまとめ、洋服も着こめるだけ着ていた。タイミングを見て、加藤邸から脱出できるようにしておきたかった。メイドが持ち出した図面が天道の手に渡ると、巧妙につくり込まれた加藤邸でも、鉄壁の城塞の用をなさなくなった。

 僕はきっと、不思議の国に迷い込んだアリスと同様、悪い夢を見ている――と想像した。

 僕の独り言を聞いて、旋律は「モテモテ国の裕司様かよ。さまにならないよな」と、いかにも楽しそうに笑った。

 旋律の思考回路は、常人とは違うものと、考えずにはいられなかった。

 すべての騒動の中心に、僕が存在していた。通常の状態では、モテモテは人気者、女受けが良いのは幸せ者だ。百歩譲っても、異性に慕われるのが、苦痛だと感じるのは異常事態だ。むしろ、持て囃された後の展開こそ、幸不幸につながっていた。

 次の日、加藤が、隠れ家まで訪ねて来た。

「困りましたね。隠れ家の場所や、からくりや、迷路まで、すべて天道に筒抜けになる」

 旋律は、ガード・マンが何者かに急襲された現場を検証し「なあ、裕司、逃げ出したメイドは、何処に行ったと思う?」と問いかけて来た。

 加藤は、それを遮り「裕司さん、あなたに紹介したい人がいます」と、プレイボーイ風の男の方を見た。

 一目見て、イケメンと分かるが、男の僕には気障で嫌味なタイプに見えた。僕と比較したら、そいつの方が圧倒的に、女性の支持を受けるのは明らかだった。

 加藤の説明を要約すると「知麿」と呼ばれたイケメンは、ジゴロで有名な人物だ。 普段は、ナンパに明け暮れ、異性に好かれる方法のイロハやホヘトどころか、ヨタレソツネナラの水準をはるかに超える技量の持ち主だった。

「何故、知麿君を呼んだかと言うと、女性心理を実践的に知り尽くしているからです。知麿君なら、あなたが異性から注目されない方法も伝授できる」と、持ち上げた。

 坂口知麿は、見るからにハンサムで、柔和な表情で微笑み、物腰もやさしい。要するに、知麿からモテない技術を学びつくせとの配慮だった。

 加藤は、僕の心配をよそに「まあ、今なら大丈夫ですよ」と涼しい表情を見せた。

 知麿は「女性に好かれるのは、必ず理由があります。相手に対して好意を示し、会話のダンスがうまく踊れている時、心憎いまでの自然な気遣いができている時、相手に強くて、誠実な関心を抱いている時、そんな時でしょう」と、自信たっぷりだった。

 僕の好かれ方は、まるで違っていた。不機嫌そうにしていようと、言い寄られるし、まったく相手に関心がなくても、相手は好意を寄せてきた。

 苦虫を噛み潰したような顔をしていると「キャー素敵、なんてダンディーなのかしら」と、好奇心を刺激し、興味がない相手に、背中を向けてそっぽを向いていると「すごく男らしくてクールだわ」と、おだてられた。

 ある時、僕が女の大群を前に、泣きべそをかいて、鼻水をたらしていると「そんなところに、女は母性をくすぐられるのよ」と、ティッシュを取り出した少女が近寄り、鼻水を拭いてくれた。

 知麿は、僕を明らかに勘違いしていた。僕と知麿とは、モテかたの性質に格段の差があった。それにもかかわらず、知麿は「大丈夫ですよ。モテなくなるのは簡単です。ぶっきらぼうに振る舞い、相手に気をつかわず、関心のない素振りを示す。これが一番です」と、得意がっていた。

 しかも、こちらを見つめるメイドの視線を、すべて自分に対してだと誤解し、時々手を振ったり、軽く会釈したりしていた。

 彼女たちの困惑の視線が、僕には理解できるが、知麿はまだ自分の方が人気を博していると、信じ込んでいた。僕と知麿では、爽やかな笑顔=知麿の勝ち。見た目の格好良さ=知麿、服飾ファッションのセンス=知麿、会話の巧みさ=知麿。

 客観的に分析すると、僕に一つも勝ち目はなかった。リッチなのも、教養も、育ちの良さを感じさせる立ち居振る舞いも、すべては、知麿に軍配が上がった。

 僕は、自分のモテモテぶりに、いかさま師のような印象を抱き、後ろ暗い心境になった。

 僕の気持ちをよそに、知麿は「モテたくないと、真剣に願うのなら、誰か意中の女性とイチャついて、みるのですね」と、指示した。

「どうでしょう。特定の彼女を強く抱きしめキスして見せるのは……」

 知麿の提案を実施すると、ウーマン・パニックを起こすのは必至だった。

「特に日本では、挨拶のキスを交わす習慣がないため、前戯を印象する人が大勢いる。そうすると、相手への関心が急速に薄れる。アダルト・ビデオに出演する女優は、人気が長続きせず、消耗品のように、次々と投入されては、忘れ去られていく。同様の心理状態ですね。女は妬かせると夢中になる。しかし、本気の相手がいて、振り向いてもくれない印象は、モテない男を目指すときに、有効打でしょう」

 僕はいい加減に、苛々してきた。

 あくる日、僕は知麿と一緒に、加藤邸を出てみた。

 加藤が「知麿君は、あなたがどれだけ女性に人気があるか、理解していない。私がクルマで、女子大のそばまでお送りしましょう。そこで、女子大生の反応を見てもらいます」と促された。無論、旋律は護衛についた。

 天道たちが、攻めてくるかも分からないのに、動き回るのは危険ではないかと思った。天道たちに、居場所を完全に知られて、尚且つ、邸宅の様子まで漏えいしていたら、すでに、隠れ家の用をなさなかった。

 今更、知麿に僕がどれだけ人気者かを分からせても、まともなアドバイスをしてもらえるとは考えられなかった。

 しかし、旋律は「それ面白そうじゃん。行こう、行こう」と、はしゃいでいる。これだから、じゃじゃ馬娘は困る――と、僕は痛感していた。

 加藤は「まだ、メイドの娘が逃亡してから、天道たちに迷路や隠れ家の構造を説明してもいないでしょう。彼らは、どう出るか相談し、実行に移すまで、私たちにも時間的な猶予があります」と、笑顔を浮かべて見せた。

 リーガルズからの連絡も来ていなかった。検児は、僕に暗号を送りつけたり、謎々でメールを送って来たりした。だが、他愛ないものが多かった。検児は、まるで僕を相手に漫才の稽古をしているような気がした。

 疎狂たちが、その後、危険な行動に出る予兆はあるものの、すぐには危険な目に遭う気配はなかった。

 女子大に着いた。訪ねた女子大は、美人そろいで有名だ。キャンパスから授業を終えた少女たちが、向こうから歩いてきた。だが、どういうわけか、反応がおかしかった。遠くから、僕らの姿を見て近づく少女たちは、知麿が手を振ると手を振り返すが、僕が手を振っても、知らんふりしていた。

 反応から察すると、僕の世之介症候群は、完治したとも思えた。

 しばらくして、謎は解けた。

 加藤の狙いは、僕がお嬢様系の女子大生が相手でも、どれほどの人気ぶりかを知麿に見せつけて、知麿の判断材料にしようとした。女子大生の反応を見る限りは、ビジュアルに見た場合に、知麿が女たちの視線をくぎ付けにしたのが分かった。女子大生は、僕には、冷たい視線を僅かに向けただけだった。単に、当然の帰結を実験によって証拠づけていた。

 知麿は、アイドルや二枚目俳優顔負けの美男子で、最新の服飾ファッションに身を包み、挙措動作まで常人のそれとは違い、いかにも優雅だ。一見して、只者ではない雰囲気が漂っていた。

 加藤や知麿の格好良さ、旋律の見た目の美しさ、同じ場所にいる三人と比べて、僕だけが、僅かにイケメンの検児に似ているとはいえ、平均顔を代表する無粋な容貌だった。

 僕は、これまでの困惑と悩みが、すべて夢の中の出来事のように思えていた。ああ、やっと悪夢が終わったと思ったとき、急に女子大生たちは、黄色い声援を僕に向かって投げかけ、走って飛び付かんばかりに迫って来た。

「危ないっ、さあ、クルマに戻ろう」と、旋律は全員を促した。

 旋律は、クルマに戻ると「俺は、女は殴らない主義だ」と言い訳を口にした。女子大生たちは、僕の姿形には反応しなかったものの、風向きが変化し、嗅覚レセプターにフェロモン物質が反応したため急変していた。

 知麿は「まさか、あなたが、あんなにも人気があるとは、思わなかった。今まで僕が負けた事はなかったのに……」と、唖然とした。

「どうすれば、裕司さんが、異性に追いかけられずにすむか、真剣に考えないといけない」と、納得した様子だった。

 加藤は「さあっ、もう一件、美女たちのいるところへ案内しましょう」と、ハンドルを握りしめて、クルマを走らせた。

 到着したのは、大病院の看護師が住んでいる女子寮だった。

 加藤は「ここで、裕司さんに変装してもらいます」と、クルマのトランクからホームレスが着るようなポロポロの衣装と、はげカツラを取り出した。知麿の顔をチラ見すると「これで、彼の実力が分かる」と、ニヤリと笑った。

 僕は、オオカミ男の着ぐるみを着ていた経験で、結果は容易く予見できていた。

 知麿は「幾ら何でも、それだと、女性から嫌われるでしょうね」と、微笑んだ。

 つくづく、様になる男が知麿だ。それに引き換え、僕はただの実験台でしかなかった。それにもかかわらず、僕の姿を見た看護師たちは、真っ直ぐに僕の方に向かって「キャー」と、歓声を上げると、物凄い勢いで、駆けよって来た。

 その時の実験では、僕と知麿との間には三メートルの間隔を空けた。

 知麿も、目測を誤らなかった。

 様子を見て、たまらず旋律が「ギャハハハハッ」と、笑い転げていた。

 僕の目には、普段着の美しい看護師たちが、ゾンビの大群に見えた。

 クルマに戻ると、旋律は「ハゲかつらで、モテモテなんてありえねえ」と嘯いた。

 僕は「メロくん。君はハゲてるだけで、偏見を持つのかね。ハリウッドスターには、ハゲや薄毛の名優たちが、ワンサカいる。それに、禿頭の男たちは、誰もが精力的で聡明だよ」と話すが早いか、旋律はまた笑いこけた。

「でもな、カツラは、裕司にお似合いだよ。ハハハッ」

 加藤は「まあ、何はともあれだ。実験は成功だったな。あとは、知麿君の指導で裕司さんも、見違えるようにモテなくなる」と、確信ありげに頷いた。

 知麿は「こんなケースは、今までありませんよ。神戸市のホスト・クラブのイケメンホストが、数人のストーカーに追い回されていたとき、徹底したアドバイスをしました。二週間で、解決しました。今度の場合は、皆目、どうなるか分からない」と、思案深げに俯いてしまった。

 僕は、天道たちが、捜索を諦めないばかりか、僕の居場所まで知っているのに、こんな構えで、良いのかと悩んでいた。加藤邸の秘密が、暴露されてしまえば、少しも安全な場所でなくなった。

 それまでは、あそこを最高の隠れ家だと考えていたが、天道たちの捜索能力の高さの前に、なす術もなかった。食事を確保し、雨風をしのぐ場所で、他にどこが考えられるか、早急に検討する必要があった。

 ホテルや旅館などの宿泊施設は、発覚しやすく危険だった。といって、マンガ喫茶の狭い空間で過ごすのも苦痛だった。第一、そうなると、女たちが僕を放っておかないのが分かった。住みなれた中野区のアパートに、舞い戻るわけにもいかなった。

 そうなると、研究所のメンバーも、リーガルズも、野江や旋律も頼れなかった。

藍愛に連絡すれば、妙案を教えてくれる状況でもない。警察署の管轄外の僕らのために、いつまでも手助けしてくれるとは思えなくなっていた。

 疎狂のやつは、具体的に何を企んで、僕を追いつめようとしているのか究明したかった。僕は、ふいに疎狂か、天道の幹部と会って、じかに話したい衝動を感じていた。逃げ回るばかりでは、解決につながらないのではないか、そんな疑問を強く感じた。

 疎狂と、どんなルートで、安全に連絡がとれるのか判然としなかった。はげカツラを着用し、ボロを纏った僕が、天道の前に突然、飛び出したなら、きっと腰を抜かして驚くのは予想できていた。反対に、僕の正体がばれれば、身も蓋もない自殺行為だった。

 考えているうちに、クルマは加藤邸に着いていた。

 加藤邸につくと、メイドたちが駆け寄って来た。はげカツラを着けて、ボロを見に纏った僕の姿を見て、目の輝きが強くなっているのが分かった。

「すごくキュートよ。何を着ても似合うのは、裕司さんだけ」

「服飾ファッションの世界に、新風を吹き込むのは、きっとあなたのような人なのよ」

 メイドたちは、好き勝手に持ち上げていた。

 それなのに、イヤミや当てこすりや、社交辞令のようなよそよそしさがなかった。もっと話すと、みっともない格好の僕に対する同情心にも聞こえなかった。

 旋律は「どう見ても、不細工だ」と、また笑い始めていた。

 夜のディナーは、加藤の演出で見事だった。僕らは、お抱えシェフの腕前を実演してもらった。シェフやソムリエは、高級料理や年代物のワインの解説をしてくれた。 ピアノだけは、自動演奏だ。加藤が幾らリッチでも、奮発し過ぎのような気がした。

 国立生化学研究所のビジネスが、加藤にそれだけの利益をもたらしているのが推測できた。加藤は、僕と旋律と、野江と、菖蒲の四人が腰かけるテーブルに来ると「今晩から、秘密の地下室で過ごしてもらいます。空調設備も水回りも、テレビや音響機器まで、すべて地上の各室に劣りませんよ」と、小声でささやいた。

 旋律は、不満そうに「でも、そんなところに長い間暮らしていると、閉所恐怖症になるよ」と声を大きくした。

 加藤は、如何にも得意げに「広いスペースですから、心配ありません。強迫神経症にならないよう、心理学的に有効な配慮で、1/fの揺らぎの世界を実現しています。それに、ほんの一週間そこにいるだけで、良いのですよ」と説明した。

 僕には、状況が飲み込めなかったが、そこまで聞くと、知的水準が高い野江も旋律も納得した。

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