第6話


 通りの角を曲がり、アパートの前を見ると、窓にフィルムを貼ったクラウンが停車していた。僕が近づくと、クルマのドアを開けて、リーガルズの検児が出てきた。検児の洗練された服装は、テレビで見るのとは随分違っていた。

 検児は誰かを待っているような様子だった。僕は、自分が戻ってくるのを待っていると直感した。が、オオカミ男に変身したあとの僕に気がつかなかった。

 この格好で、こちらから声をかけるのは気が引けた。旋律は、検児の横を通ったあとで「さっきのあいつ、リーガル検児だよな。俺のタイプじゃないけど、イケメンだ」

 階段を上り、部屋のドアを開けようとしていると、下から検児が追いかけてきた。検児は「裕司さんですね」と、隣の旋律の方をチラッと見た。

「やっぱり。何か勘が働いたのですよ」

 旋律が「俺が邪魔なら、公園でも散歩してくるわ」と、気遣うと

「いえ、一緒でも構わないですよ」と検児は答えた。

「少しお尋ねしたい件があるのです」と、マネージャーの男が告げた。

 そっくりショーに出てくれとか、自分の影武者になってくれないかとか、そう要求されないかと思った。

 運転手は「また、あとで戻ってきます」と、クルマをさっと走らせて去っていった。

「検児さん、そちらの方も、どうぞ中に入ってください」

 応接セットのような洒落たものはないので、二人には食卓テーブルに座ってもらった。

 検児は「実は困った事態になりまして」と神妙な表情をした。

 マネージャーは、テーブルの上で両手の指を組み合わせると「うんうん」と頷いていた。

 旋律は「俺は隣の部屋に行ってくるわ」と、そこから立ち去った。

 マネージャーは、写真週刊誌を取り出すと、あるページを開いて指差した。

「これです。これで困っているのですよ」

 それは、新年特大号に掲載されたもので、マスクをつけた僕を写していた。女の子たちに囲まれた僕の腕を横にいる野江が自分の手をまわして、誘導しようとしているところを撮影していた。ページのタイトルは「リーガル検児、白昼堂々、謎の美女と熱愛デート」と書かれていた。

「写真は、僕を写したものですね」僕は芸もなく、そう答えた。

「あなたは、写真を見てどう思います?」

「まったく迷惑な話ですよ。僕にとっても、あなたにとっても……」

 マネージャーは「私たちは、これが誤報と証明したいと思いまして、ここに来たのです」

「そうです。失礼かと思いましたが、週刊誌の写真を手掛かりに調査機関に調べてもらいました。半日でアパートが分かりました」

 それにしても、半日で居場所を突き止める早さにぞっとした。

 天道も突き止めた上で、何かのタイミングをはかっていると思えた。

「私たちは、あなたが検児になりすまして、女の子たちを騙そうとしていると思っているわけでも、リーガルズへの害意を感じているわけでもありません」

「僕に、何ができるのでしょうか」

「写真を掲載した週刊誌の出版社に、一般人の男性……、つまり裕司さん、あなたに迷惑がかかる上、明らかな誤報による混乱を収束するために異議を申し立てるつもりです」

「それでね。僕とマネージャーと元弁護士の法児と一緒に、六日の午後二時に出版社に同行して欲しいのですよ。できるだけ一回の話し合いで結論が出る方向で準備しておきます」

「一つだけお願いがあります。さっき、僕と一緒にいた女の子も同行して良いですよね」

「分かりました。仲が良いのですね。それに、随分おモテになる」

「いや、今隣室にいる娘は、僕の用心棒なのです」

「冗談でしょ、アハハハ。お上手ですね」

「今のジョーク頂きですね。ほへ、ほへ、ほへっ」

 検児は上機嫌になり、ジョークを飛ばした。僕と検児は、鼻から顎にかけて雰囲気が違っていた。マスクをつけると、何故あれほど、間違えられるのか不思議で仕方がなかった。

 検児はじっと僕の顔を見た。僕は部屋に入ってからオオカミ男の頭部だけを外して、二人と向き合い話していた。

「ところで、その格好はなんですか。まるで、あなたの方が芸人だ。ぽこ、ぺん、ぺん」

「これはオオカミです。旋律が赤頭巾役で、僕が婆さんに扮したオオカミ役なのですよ」

「それで分かりました。ほい、ほい」

「ほへ、ほへ、ほへっ」とか「ぽこ、ぺん、ぺん」とか「ほい、ほい」には、それぞれ固有の意味があった。最初はつまらなかったが、聞いているうちにたまらず笑ってしまった。

 マネージャーの男は「検児さん、ギャグはやめときましょう」

「いやいや、裕司さんのオオカミ男の装いに負けたくないので、思わず対抗心を出してしまいました。すみません」

「いつも、そんな風ですか」

「無論、それはありません。いつもお笑いをやっていると、真顔でごく普通の日常会話のときに、ゲラゲラ笑われます。少なくとも、それはあまり嬉しくない。それで、そうなる前の予防と、サービスのつもりでギャグを飛ばす」

「へえ、そんなもんですか。お堅い研究所勤務は、人を爆笑の渦に巻き込んだり、職業上のトークで、人を幸福な気分にしたりできない。ここ数日、あなたに間違われたのは、実のところ楽しい経験になりました」

「ただ、ちょっと、申し上げにくいのですが。リーガル検児と間違われないように、少し工夫をして貰えませんか? それが無理なら、検児と一緒にテレビに出る機会をつくりたいのです。もちろん、それはマネージャーの私の権限ではありませんが、上司を説得し企画を立案したいと思っています」

「事情があって、僕はテレビに出るわけにはいかないのです。モテモテ体質のせいで、女の子の仕分けに、苦労するのは嫌ですからね」

 僕は大真面目で話したつもりだった。テレビに出て、天道に居場所を知られるのも困

った。

 検児は、愉快そうに笑いながら、例のギャグを飛ばした。

「今のジョークも頂きですね。ほへ、ほへ、ほへっ」

「とにかく、テレビに出演しなくても、良い方法で対処するつもりです。これ以上、検児さんに迷惑をかけられない。しかし、目立つのも困るのです」

「それでは、今日はこれで失礼します」

 検児とマネージャーは、運転手に携帯電話で連絡すると、二十分後に帰って行った。部屋の中には、コロンの匂いが残っていた。

 検児たちが帰った頃には、あたりが暗くなっていた。旋律に話の中身を伝えると「そんなに似ていないのに何故、間違えられる?」

「僕の周囲に、大勢の女の人垣ができたときに、威光暗示にかかる。ほんのちょっと似ていても、テレビに出ている人気者だと信じ、本人だと思うのかも」

「俺はまだ、写真でしか見ていないけど、異様な光景の説明がつかない。納得できないな」

「そのうち、嫌でも分かるよ」

「裕司、お前がそんなに女から慕われたら、変だからな。少なくとも、お前が有名人でもないと理解に苦しむわけだ。アッハハハハハ」

「やけに、楽しそうに笑うよな」

「それより、出版社には、俺も行く予定になっているか」

「あたり前だ。お前は僕の用心棒だからな。氷川神社の時と同じ調子で、長い時間一人にされるのは困る。別にお前がいなくたって、怖くないけど。それが、メロディー、お前の役目だからさ。ちゃんと、守ってもらわないと」

 野江に電話をかけてみた。

「こっちは大丈夫よ。メロディーとはうまく行っている? あの娘は、口は悪いけど、本当はすごく良い子だから。あまり、言葉遣いを気にして、腹を立てないでね」

「それは分かるよ。それより、アドバイスして欲しい」と、検児たちと写真週刊誌の出版社に抗議に行く話をした。さらに、天道の動きがつかめない現状や、アパートを引き払ったあとで、どこに転居するべきかまで、じっくりと相談したい事が山ほどあると伝えた。

 ぽつりと「メロディーがそばにいると、野江と二人きりになれないよな」とこぼした。

 電話の向こうの野江は「我慢、我慢」と笑いながら、諭した。

 旋律は「今、俺を何か悪く言わなかったか」と口を尖らせた。

 警察官の年末年始の巡回警らの合間を縫って、ぽつりぽつりと、女の子たちが集まり始めた。正月の三日目の朝、外の音に気がついて六時頃に目覚めた。廊下側に十数人の女性たちが、チャイムを鳴らし、僕が出てくるのを待っていた。

 見覚えのある顔と、そうでない顔が混在していた。寝ぼけ眼で起きてきた旋律の顔がこわばり「外のキャアキャアいう声がうるさいな」と不満を口にした。

 まばたきもせず、ドア・スコープを見続ける旋律に、僕は怖気づいた。

「少女たちに罪はない。すべて、僕が悪い。世之介症候群のせいで、僕の虜にしてしまった。僕には本来、大して魅力がないし、大人物でもない」

「早とちりするなよな。俺は無抵抗の相手を傷つけるようなワルでも、猿並みのバカでもないよ」

「さっきから、チャイムを鳴らしている。僕が出るよ」

 ドアを開けると、二十人に増えた女たちが部屋の中に、雪崩れ込んできた。僕は旋律に向かって、少しだけ肩をすくめて見せた。旋律は押し黙ったままだった。

 その気になれば、女性たちの神経を逆なでできた。僕の心配に反して、旋律は、可愛らしい少女のような上目づかいで周囲を見つめ、敵意も害意も感じさせない絶妙な演技で、女たちの中に溶け込んでいた。

 女たちは、口々に「裕司、明けましておめでとう」と挨拶しているが、足並みがそろわないので、明確には分かりにくかった。徐々に女性の数が増えていた。

 音頭とりがいないと、要領を得ないと思っていると「皆さん、裕司に、せーのーで、新年の挨拶をしましょう」とよく通る声が聞こえた。

皆は唱和してくれた。声の主は紛れもなく旋律だった。

 女性の集まりが少なくなり、脅威に感じなくなっていた矢先に、大勢が訪ねて来た。僕が戸惑っていると旋律がうまく誘導し、すべての女性を部屋の外に出して、また舞い戻ってきた。

「張り紙が剥がされていた。だから、少女たちが戻って来た。それより、お前が本当にあんなに女に好かれる、とはな……」

「研究所での不手際でなった事だ。そう、茶化すなよ。メロディー、お前こそ特異体質だ」

 普通の人間のように振る舞いたい、僕はつくづくそう思った。野江とデートを重ね、研究所で実績を積み、社会的に高く評価されるのを夢みていた。まるで、お忍びの王子のように人目を避けて暮らすなんて、真っ平御免だった。

 ただ、アパートを引っ越すだけで願いが叶うものなら、僕はとっくの昔に田舎暮らしでもしていた。しかし、そう簡単ではなかった。

 僕は、あれこれ考えているうちに、シンクロニシティを信じなくなった。以前は、自分と共通項の多い人物が、好きだったが今は違った。

 MHCのような体質型では、自分や親と異質な相手に、惹きつけられるものだった。偶然がいくつ続いても、いかに素晴らしい出来事でも、何か特別な意味を考えたりせずに、不思議を不思議として時間を過ごしたかった。

 偶然に必然性を見つけて、パターンや法則性を探すのは、暇人のする努力だ。

奇妙なことに、科学者として優秀な野江博士は、運命論者だった。

 野江は、僕と膝の同じ場所に傷跡がある事、神奈川県に親類がいる事、知りあいに田中や佐藤の名字の人物が複数いる事まで、不思議な偶然の一致ではなく「運命なのよ、きっと」と、推し量っていた。

 僕は決して、運命ではないと思うが――。論証が好きな野江が占いを信じ、彼女ほどの科学者ではない僕が、占いや神秘主義を嫌っていた。反面、統計的な大数の法則に基づく、ギャンブルを非科学的で儲からない手段だから「やめなさい」と叱った。

「それって変だろ。占いの様なペテンを信じ、たまには当たるギャンブルを否定するなんて」と反論すると、野江は「読んでおきなさい」と命令口調で、性差心理学の本を貸してくれた。

「男と女は本来、異質な生き物なのよ」と野江は主張した。

 長い歴史の中で女性は結婚や交際相手の男性によって、生活が変わるケースが多く、男性はどんな職業に就き何をしていくかによって、人生が変化するケースが多かった。女は運命や出会いの不思議に思いをはせ、男は自己の判断や能力を誇示したがるとの論理だった。本を読んでから、僕は野江の気持ちが分かった。つまり、女性心理への理解が深まっていた。

 逆に、今一緒にいる旋律の心理には読みにくかった。「占いなんかインチキだ」と断言していた。

 そんな風に想像していたら、野江から携帯に電話がかかってきた。

 野江は影法師の正体を見破っていた。

「影法師のメールと符牒の一致する人物を考えていたら、ある女性が該当する」

「影法師が女なのなら、天道も傭兵部隊もアマゾネス軍団なのか」

「それは違うと思うわ。でもね、影法師は女でも、只者じゃなかったのよ。実は調べてみたけど……」

 野江は「あの少女が、影法師だ」と譲らなかった。

 僕には質の悪い冗談にしか聞こえなかった。だとしたら、誰が仕掛けた誤情報なのか気になるところだった。しかし、本能的に野江が事実を話しているのが分かった。僕はあの日を回想してみた。

 年末、アパートに刑事が訪ねてきたとき、消息を絶った二十歳前後の少女の写真を見せられた。刑事の話では目撃証言も複数あり、女性が犯罪に巻き込まれた可能性があると推理していた。さらに、アパートの近くで少女の携帯電話とハンドバッグが放置され、自転車も発見されていた。

 刑事の話す内容に、何者かの不気味な作為を感じていた。だが、正月になりテレビニュースで無事に保護された展開が報道されていた。ニュースでは、真相は闇だった。保護されたときと、失踪当時の服装がまるで違う様子にも気づいた。

 ずっと、僕は僕を狙う連中と少女の存在が、何か関係がありそうな気がしていた。 しかし、ほんの僅かでも、少女が影法師だとは、考えた例がなかった。

 野江の分析では、行方不明になったときの様子を刑事たちが、暴行目的とも金目のものを盗んだとも、話していなかった。影法師から、メールが来たのと時期が一致していた。アパートの周囲で不自然なかたちで、携帯電話やハンドバッグが見つかった。等々を理由に上げていた。

「もっと決定的な理由がある」と野江は強調した。それは、少女が警察官僚の娘なのも関係している。

「そう考えると、失踪も不自然な報道も、何故なのかが分かる」と推理した。

 野江はたまたま、関西で記憶力を競う全国コンテストがあったときに、少女が優勝したのを知っていた。野江も十年前にコンテストで優勝。天才少女として騒がれていた。野江が少女を覚えていたのは「コンテストをテレビの生中継で見ていた時の様子と、野江の親戚に目元が似ていた」と、過去の記憶を再現した。

「記憶力に自信があるのなら、そんな理由とは無関係に覚えているだろ」

「記憶には、ちょっとしたコツがあるの。だから、高い記憶力があっても、物忘れはする」

「凡庸な僕には、理解しがたい説明だ」

 野江は「二年前のコンテストのとき、少女の口から、自分が現役の大学生で、父親が公安調査庁に勤めている事実が、語られていた」と証言した。

 ほんの二年前なので「忘れたり、勘違いしたりしていない」と、強い口調だ。野江の説明では少女が天道の周辺を内偵し、メールを送信していた。

 聡明な野江にしては、妙な推理だと感じた。五日に藍愛に会うときに、野江は都合をつけてくる手はずだった。そのときに、よく聞いて見ようと思った。強大な存在に思えた影法師が、二十歳前後の少女だなんて――。いったい、何を話したいのか、理解できなかった。そんな論理の破たんを平然として語る、野江の神経が疑われた。

 天道たちは、想像を絶するような獰悪な存在に相違なかった。では、何故奴らは僕の居場所を突き止めた上で攻めて来ないのか、不思議に思った。少女に内偵されて、気づかない理由とは何なのかが謎だった。 

――天道も影法師と同様の脆弱な相手に過ぎないのではないか。僕は文字通り影を見つめて、実態と思い違えているだけなのか――そんな気がした。

 旋律に尋ねると「野江さんは、そんなピンボケは言わないよ。確信を持っていると思う」

 野江の予想通り、影法師は僕らの味方だと……、警察から知らされた。しかも、影法師に会って話を聞ける見通しになった。天道は影法師に内偵されていた事実に気づいていないのか? それとも、警察官僚の娘に手出しするのが憚られる事情でもあるのか、疑問だらけだった。すべて、藍愛に会ったときに確認しておくべき事項だった。

 またしても、奇妙な変化に気づいた。僕の胸部から甘酸っぱいリンゴのような香りがする。匂いは、日増しに強くなっていた。

 僕は、世之介症候群にかかる前は、死後の世界を真剣に考えてはいなかった。仏像彫刻の如来の肉髻のある神々しい姿かたちも、翼が背中に生えた天使も、実在するような気がしなかった。しかし、世之介症候群にかかってから、死を強く印象し、モテない普通の男になる目標を立ててからは、如実に天国と地獄をイメージした。

 女たちに囲まれて、酒池肉林の生活なんて地獄の沙汰だった。おまけに、天道たちにも狙われ続けていた。影法師が少女だったとしても、一方の天道は侮れなかった。僕は影法師の忠告が、単なるいたずらで、世之介症候群は町ぐるみで僕をからかうための装置だと想像してみた。

 それは、ありそうもなかった。僕が手を伸ばせば、僕に追いすがる女たちは、僕のいいなりになってしまいそうな危うさと一体になっていた。僕の理性は、誘惑と葛藤の間を行き来し、妄想と現実との境目で悩んでいた。

 旋律と狭い部屋で、テレビを見たり、話したりの不自然な生活も息苦しかった。

「今日はどこに出かけたい?」

「国立生化学研究所に、ドライブしてみないか」

「それが簡単にできるのなら、問題の半分は解決、いや待てよ。僕は天道に追われる身だ。研究所にも、迷惑がかかる」

「天道が単なる幻ではなくて、侮れない相手なら、そこを訪ねようとどうしようと、とっくに気がついている」

「それは暴論だと思う」

「いや、暴論じゃない。道中で何があるか、試して見よう」

 旋律は口論になると、自説を譲らなかった。

 クルマを走らせ、大きな混乱もなく、国立市にある研究所に到着した。駐車場はチェーンがかかっていたが、所員用のマスター・キーを使って解錠した。

「さあ、どうしよう」

「研究所に来て、すぐに戻るのも芸がない。中の様子を見てから帰ろう」

 クルマから外に出て、しばらく棒立ちになっていると、旋律が指を差し「あれを見ろ」と大きな声を出した。見ると研究所の屋上から、こっちに向かってライフルを構えている男がいた。

 僕は怖くなり、目をそらそうとした。

「バカ、目をそらすな、男が構えるライフルの延長線上に身を置くな」と旋律は詰った。

「殺される。あいつの動きを見て、素早く行動なんてできないよ」

「弱音を吐くな。俺には弾道が読める。だから、俺の命令する通りに、動け」

 旋律は、僕のコートの袖を強く引っ張った。僕の横を弾丸が通り過ぎた。

「変だな、あれは中国製の麻酔銃だ」

「それは、どういう意味だ」

「つまり、裕司っ、お前を殺さずに捕えようとしている」

 たとえ、麻酔銃でも、銃砲刀剣類所持等取締法の規制対象で、使用のためには銃免許が必要だ。彼らはいったい何者だった。

「影法師は、傭兵部隊が狙っていると伝えていたよな」

「メールには、そう書いてあったよ」

「でもな、奴は軍人ではないような気がする」

 旋律は「軍用の麻酔銃は化学兵器として扱われるため、ハーグ陸戦条約と化学兵器禁止条約に違反する。警察は、人間に麻酔をかけるのが医療行為なので、医師免許を持たない警察官の使用を認めてはいない」と説明した。

「メロディー、お前はなんで、そこまで分かる」

「説明はあとだ。裕司は、研究所の中に入り、鍵を閉めて潜んでいろ。俺は奴らを倒してくる。少林寺拳法三段で自己過信するなよな。片付いたら、携帯に連絡するよ」

 そういうと、屋上を目指して走って行った。途中まで伴走していたが、小柄な旋律が僕の走る早さとほとんど差がなく、素早く動いていた。

 だが、研究所の入り口に到達する前に、屈強な男が二人僕らの前に立ちはだかった。

 旋律は、背中のディバッグから、三段特殊警棒を取り出して、手首のスナップをうまく使い素早く伸ばすと、襲いかかる二人の男を叩きのめした。僅かな間の出来事だった。

 そこで、僕は研究所の中に入り、旋律は屋上へと向かった。

 刑法三十六条一項の規定は正当防衛だ。それは、急迫性の不正な侵害があり、自己や他者の権利を守るためにやむを得ずした行為でないと認められなかった。しかし、行き過ぎた防衛行為は、過剰防衛になり、罪を免れないケースもあった。

 僕は、旋律のした行動が正当防衛だと確信した。仮に、過剰防衛だとしても、奴らは「メロディーにやられました」と訴え出はしなかった。

 研究所の中を歩き、実験データを確認しようと考え、デスクの引き出しや、作業台の上を調べて見た。好奇心で吾妻所長のパソコンを立ち上げて見た。バスワードは容易に見当がついた。

 年末の実験に関するデータを見ていると、極秘事項として、人体へのフェロモンやMHCの作用について詳述していた。

 人体実験の依頼者が判明した。落語家で参院議員の頓馬亭疎狂だ。疎狂は、風教の一番弟子で、問題児の酔狂の兄弟子にあたる人物だ。僕は動物実験のブタ、サル、ウマの依頼者は知っていた。人体実験に関しては、今になって謎が解けた。

 薬品や資材を提供してもらっている、中百舌鳥製薬の米田博士も白鳥取締役も知らなかった。吾妻所長は、語尾を曖昧にし、米田に対して実験での失態の件は触れないでいた。いや、米田は知っていて、内密にしているのかも知れなかった。

 僕は動かぬ証拠となるデータをアウトプットすると、丸めてポケットに押し込んだ。念には念を入れて、USB・メモリにダウンロードして持ち出した。

 さて、あとはどうしようと思案していると、上階から下りてくるような人の気配を感じた。僕は作業台の下に隠れて、様子を見守った。

 作業台の下から様子を見ていると、盛本が姿を現わした。しかも、手にはライフルを持っていた。盛本は、部屋に明かりが点いているのを訝しく思ったのか、周りを見回し作業台の下も覗きこんだ。目と目が合った時に、二人は同時に「あっ」と声を上げた。

 瞬きもせず、じっと見つめ続ける僕の視線に怖気づいたのか、盛本は表情をこわばらせた。

「盛本さん、まさかあんたがライフル銃で」と疑いを向けると、盛本は「裕司、ライフルお前のじゃないよな」と首を傾げていた。

 言動は自然にも、不自然にも考えられた。もし盛本が裏切り者で天道のメンバーだったらと想像し、不安が僕の胸の中に広がった。

 さらに、屋上で何があったのかとも思った。天道たちは傭兵部隊といわれるほどだった。プロ集団であり、非情で腕利きぞろいだ。旋律が強くても、やつらを相手に闘っては、赤子の手を捻る様に、打ちのめされるのが予想できた。

 それまでの男たちは、実はたいした実力はなく、もっと強い連中が待ち受けていると想像した。路上で僕と旋律を造作もなくさらい、停車中のクルマのうしろに押し込み、音もなく去って行く……。そんな恐怖の光景を思い浮かべた。

 そう考えると、ずんぐりした体形で、屈強さとは無縁の盛本が選ばれた理由が分からなかった。きっと、盛本が医師の資格を持つため、麻酔銃の狙撃に起用されたのかと、想像を巡らした。

 旋律は、屋上で何をしているのかと思った。「盛本さん、ここに来るときに誰かとすれ違わなかった? たとえば、女の子とか……」

「いや、誰も見なかったよ」

「それはそうと何故、正月にわざわざ研究所に来た?」

 旋律が階段を下りてきた。旋律は盛本がライフルを持っているのを見て、闘う構えを示した。

「ちょっと待ってくれメロディー、今事情を聞いているところだ。彼は盛本医師で、研究所員でもある」

 旋律は、卓球の試合でピンポンの行方を目で追うように、僕と盛本の様子を交互に見て頷いた。

「上にいた四人は俺が片づけた。麻酔銃で、屋上から裕司を狙っていた男は逃がしてしまった」

「何を話している? こっちは吾妻所長から、正月のうちに証拠隠滅してくれと頼まれた。職務を遂行していただけだ」

「証拠隠滅だって」と、僕と旋律は、目を見合わせた。

「フェロモン物質とMHCの人体実験に関するデータをすべて消去し、残りの薬剤やアンプルも廃棄した。薬剤などの処理を終え、書類をシュレッダーにかけたあと、屋上にタバコを吸うために行っていた」

「人体実験そのものには違法性はない。だが、間違った目的に使うのなら、僕は協力できない」

「証拠隠滅は言葉のあやだ。それより、ライフルが玩具じゃないのなら、すぐにでも警察に通報するべきだ」

 盛本は、ここで何があったのか、気がついていない様子だった。

「盛本さん、僕らは研究所内で、数人の男たちに襲われた」

 すると、盛本はあわてふためき、キョロキョロしたあと「まだ、周辺に隠れているのか」と、目つきを鋭くした。

「連中は俺が叩きのめした。だが、捕まえられなかった。あれだけ痛打を浴びせれば、ここに長居できないよ」

 盛本は、旋律の様子を見て「アッハハハ、これは傑作だ。久々のヒットだよ、いやホームランかも。冗談きついよな」と大笑いした。緊迫したムードが一変した。

 旋律は、話し方以外は女の子らしかった。髪を後ろに結び、化粧もしていた。服装のコーディネートも、年頃の少女が好むのと同じだ。いや、年齢より幼く華奢に見えた。相手を油断させるための装いなのか、自然な気持ちのまま選んだのか不明だった。

 僕には、後者のような気がした。

「盛本博士、お言葉なのですがね。彼女は正真正銘の武道家なのですよ」

「ブドウ科? デラウェア、マスカット、巨峰が葡萄なら、ツタやカズラも実はブドウ科だよな」

「冗談はいいけどね。盛本さんは、ライフルを素手で掴んだ。屋上から僕を狙っていた男は、黒い手袋をはめていた。指紋は、あなたのしか残っていない可能性がある」

「それは、ちょっとまずいな。警察に連絡はやめとこう」

 人は時としてタブーや因習を破り、新しい自由を手中にしたと喜ぶ。実は、それが悪魔を賞賛するのと同様の愚行のケースがあった。不倫がブームだと宣言したり、アンチ・モラルを標榜したりするのも同じだ。僕は盛本の魔性の様な思惑を無視して、警察に連絡しておいた。

 吾妻所長にも今回の事件の一部始終と、警察に連絡した経緯を伝えておいた。

顔の筋肉が自在に動かせるのなら、渋面を見せておきたい気分だった。いつもの携帯でかけたので、渋面は、所長に会うまでのお預けだ。

 吾妻所長や盛本は、実験の事実を闇に葬り去ろうとした。媚薬効果実験での失態は、合法、違法以前の倫理問題や、イメージ・ダウンが懸念された。今回の不祥事が外部に与える影響と、研究所へのダメージを考慮していた。盛本は知らなかった、分からないと否定したが、背後に疎狂や天道たちの思惑が潜んでいるのを感じた。

 僕や野江は、外部に漏洩する危険は熟慮しつつも、データは残しておくべきだと考えていた。三十分後には、警察署員が現場検証に来た。だが、USB・メモリを証拠物件として提出しなかった。白状すると、失念していた。

「じゃあ、これで僕らは帰ります。用心棒のメロディーと一緒に……」

「ハッハハハハ。今のジョークは何度聞いても笑えるよ。用心棒ってどんな棒? 何てね」

「本当だよ、盛本さん」

 旋律は、盛本から顔をそらし知らん振りをして「さあ、裕司、そろそろ帰るぜ」

 クルマの中では、吾妻所長や盛本が、天道たちの動きに関与していないか話し合った。

「少なくとも、盛本の奴は、利用されているだけで事件に関与していない」

「しかし、盛本さんが、狙撃犯じゃない証拠はない」

 僕が警察署員に「ライフルには、盛本の指紋がついているかも」と指摘したため、盛本は任意出頭を命じられていた。そこで、真相は明らかになる予定だった。

 旋律は、盛本の狙撃犯説を否定しつつも、真犯人がどこに消えたのか分からないと何度も首を傾げていた。研究所の屋上には上水道用水、工業用水、防火用水の三つの受水タンクがあり、屋上のちょうど真ん中に立っても、何箇所もの死角があった。影に入り、素早く逃げられると動きはつかめなかった。

 旋律が屋上に辿り着いた頃には、来るのを察知した狙撃犯が逃亡したか、変装していた可能性があった。

「手錠かロープがあれば逃がさなかったのに」と、旋律は悔しがった。

 クルマを路肩に停車させると、携帯電話を使った。

電話に出た野江は「すべて、文章にしてメールで分割送信してね」と、希望を口にした。後で分析し、今後の方向性を決めるためだった。

 僕は、頭の中が混乱して仕方がなかった。頼りになるのは、僕のそばにいる旋律と、野江博士の女性二人だけだ。何とかして、苦境から脱出しなければならなかった。

 クルマを走らせて二十分経過したとき、同じナンバーのクルマが何度も車線変更しながら距離をとって尾行しているのに気づいた。

「メロディー、あれに気がついたか」

「ああ、あれだろ?」

 旋律は、後ろを指さすと「何なら運転交代しようか」と尋ねた。

 僕の方が、土地勘が働く。クルマをビルの地下駐車場のB3まで走らせると、グルグルと出口に向かった。素早いスピードで広くない通路を走ったため、タイヤのきしむ音が反響した。追っ手はクルマの運転技術に熟練しているため、何度も追いつかれそうになった。

 B2から、もう一度B3にもぐり込むと、見失ったのか、僕のクルマを尾行していた奴らをうまく撒いていた。

 それまでの危機に対しては、専ら旋律が闘い、僕が手を出すまでもなく、屈強な男たちを追い払っていた。僕は自分の運転で、窮地を脱したのを誇らしく思った。とはいえ、いつまでも鼻を高くしていられるほど、甘い連中だとは考えられなかった。

 影法師は、天道たちの何を知っていて、天道と疎狂の関係がどんなもので、吾妻所長や盛本は、どんな風に関与しているのか疑念が生じた。僕にとって、ショックなのは、味方の吾妻や盛本が、信用できる相手か、否か分からなくなった点にあった。

 クルマをハンバーガー・ショップの駐車場に停車させると、店内に入った。もう夕方になろうとするのに、昼から何も食べていなかった。旋律もさすがに腹が減っている様子だ。旋律はその時も、僕に背中を向けて食事しているところを見られないようにした。

「しかしなあ、メロちゃんよ。一緒にいる限りは何度、こんな場面に出くわすか分からないだろ。照れている時間が惜しいぞ」僕が説得すると、意外なほどあっさりと「分かったよ」と承知した。

 旋律は、分厚いハンバーガーをギュッと圧迫し厚みを減らした上で、小さくちぎって食べ始めた。いかにも、育ちの良さを連想させる上品な挙措動作だった。

「普段は、ナイフを使って、食べるけどな」

 店の外を見ていると、逆光を背にして、黒い人影が近づいてきた。筋肉質で目つきの鋭い男だった。僕は一瞬ぎょっとしたが、旋律は平然としていた。見落としていたが、男のそばに小さな娘がいて、二人でカウンターに向かいハンバーガー・セットを注文した。

 光と影のコントラストの様態で、正邪、善と悪、正義と不正義が対立し、力くらべをする。勧善懲悪の芝居を思わせた。現実は、そこまで単純にできていなかった。

 僕は、旋律に危機を救われているだけではなく、精神的にも助けられていた。そう痛感した。旋律は、そんな僕の心の動きなど分からないのか、黙々としかも上品に食事していた。つくづく、不思議な少女だった。

 現実社会は、複雑微妙に展開していた。僕の思考回路では、理解できない事象も多かった。そんなときは、野江がそばにいて、正しい解答を出してくれた。

 僕は、旋律の表情を盗み見た。黙々としているときの旋律は、どこまでもキュートで、あどけなささがにじみ出ていた。それに対して、食事を終えた僕は、まるで石の中から彫り出した男の無機質な表情で、堅くなっていた。

「食べるのが遅くなって悪いな、裕司。お前、ちょっと表情や態度が堅苦しすぎる。俺がついているからな、あんまり考え過ぎるなよな」

「ああ、分かったよ。メロの言う通りだ」

 僕は肩の力を抜いて、旋律をメロちゃん、メロ、メロッピ、メロ坊と呼び名を変えてみた。だが、旋律はそれにはまったく反応せず、ただ「ああ」とか「まあな」とか「何だ?」と答えるだけだった。

 野江に受けのいいジョークも、旋律には、まったく通用しなかった。クルマを走らせアパートに到着した。部屋の前には、十人の女の子たちが並んで、僕の帰りを待っていた。暴走族のレディースの女たちだった。

「裕司、ドライブに誘いに来た」

 旋律は「悪いけどな。裕司は俺の彼氏だ」と、僕の頬にチュッと音を立ててキスするフリをした。無論、頬には触れていなかった。僕の尻ポケットに手を差し込み、鍵を取り出すと、すぐにドアを開け、腕を強く引っぱり、二人で中に入った。

 部屋に入ると、同時に鍵を閉めて「今から中でエッチする。俺たちの仲を壊さないでくれよ」と叫んだ。旋律は僕の目を鋭く睨みつけると、小声で「本気にするなよ」と釘を差すのを忘れはしなかった。

 外からは、数人の少女の悲鳴が聞こえてきた。旋律は、ドア・スコープで確認すると「ごめんな。本当は俺の兄貴だ。からかうつもりは、なかったけどな」と、外まで聞こえるように声を出した。

「最初から、そういえば良かった。俺は女には乱暴しない主義だ」

「しかし、メロディー。キスするフリは良くないよ。挑発しているのと同じだろ」

「ああ、今度から気をつけるよ」と、甘えるような表情をしてみせた。

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