第5話


「新年、明けましておめでとうございます」と、電話で野江は挨拶すると「さっそくですが、ご相談したい件があるのです」と続けた。相手は吾妻所長だった。これまでの経緯を一通り説明し、影法師を名乗る謎の人物からの忠告の件を伝えていた。野江は特に、僕の身の危険と研究所もターゲットになる可能性を強調していた。

 あとで、野江に尋ねてみたら「吾妻所長は、新年早々に、対策を立てるのは難しい。少なくとも五日以降に、どんな手を打つかを検討する」と、話の要点を告げた。

 野江は、研究所の隠蔽体質が、危機を招いていると分析した。さらに、動物だけではなく、人体実験をしようとしていたのに、批判を差し向けた。実験結果でこんな目に遭っている事態が知られると、好奇の対象になり、迫害される可能性すらあった。僕の存在は秘密にしておくべきだとも進言した。

 僕は毎晩、午後五時には吾妻所長宛に、電話での連絡を約束させられた。時間の都合がつけば、直接アパートまで来るとも伝言していた。野江は、何度も護衛をつけるよう要求してくれた。警察署には、所長から連絡するとの申し出を断り、僕が藍愛に連絡する展開になった。

 警察署の窓口業務などの年末年始の休暇は、十二月二十九日~一月三日までだった。しかし、暴力などの相談窓口は、平常どおり受け付けていた。藍愛は五日から出てきた。担当窓口に影法師からの忠告があった経緯を伝えたものの、要領を得なかったので、意味が正確には伝わらなかった。

「業務時間中に、警察署に来て説明してください」と言われた。

五日に藍愛に会いに行く予定だった。だが、遠からぬ日に、警察署管轄内のアパートを離れるつもりでいた。

 野江は約束どおり、翌日の朝アパートを出て実家に正月の挨拶に行くことになっていた。病気がちの祖母を励まして来るとも告げていた。野江は「あっ、そうだ」と、どこかに電話をかけた。

「ちょっと、会わせたい人がいるのよ。それにお願いしたい件がある」

 会わせたい人というのは……、僕の用心棒になる人を寄越す算段だった。

「野江、君自身は僕の用心棒じゃなくて。心の支えだよ。むしろ、危険な連中から、僕が君を守らないといけない」

「用心棒の彼女、いや彼は、あなたを守ると同時に、心の支えにもなる魅力的な人物なのよ」

 いったい、どんな男なのかと僕は思った。正月なのに、そいつは昼からアパート訪ねて来ると告げられた。野江が駅まで迎えに行き、二人で戻って来た。はたして、そいつと僕が意気投合するものか、予想できなかった。それに、本当に強い男なのか早く知りたくなっていた。

 携帯電話に用心棒からの連絡を受けると、野江は駅まで迎えに行った。いったい、少林寺拳法三段の僕の身を一人で守ってくれる男とは、どんな奴なのか想像してみた。元相撲取り、柔道の師範など、巨漢を思い浮かべた。天を突くような大男なのか、それまで何をやっていたのか気がかりだった。

 野江がやっと戻ってきた。ドアを開けて、一緒に入って来たのは小柄で可憐な感じがする少女だった。

「野江、用心棒の男はどこにいる。遅れて来るのかな。それとも、兄の代役で彼女が伝言を預かっているのか」

 すると、野江は「いいえ、彼が用心棒なのよ」と、意外な言葉を言い放った。

「彼?」

「そうよ」

「どういう意味だ?」

「彼は、性同一性障害者なのよ。つまり、身体が男なのに、ハートは女なの」

 だが、腰のくびれや、小さな胸の膨らみは、女である事実を証拠付けていた。

「君は?」

「俺の名前は津島旋律、皆はメロディーと呼んでいる」と、少女は自己紹介した。

「リズム、メロディー、ハーモニーのメロディーなのか」

「ほんとはさ、旋律と書いてリツと読むけど。恐れおののく、戦慄の慄と間違われるのが嫌だ。だから、そう名乗っている」旋律は、男のような口をきいた。

 僕は「ツシマリツっていうのは、何か古めかしい。逆に奥ゆかしい感じがするな」と、思ったままを口にした。

「親父は太宰の小説『走れメロス』が愛読書でね。最初はメロスにするつもりだったけど、それだとエロスを連想しないか」

「いや、どうかな。メロスはギリシャ語でメロディーを意味する言葉だ」

「俺もさあ、親父と一緒で男どうしの友情には萌える。メロスって最高だよな」

 野江は「メロディーは、身体は華奢だけど、宝蔵院流槍術の使い手で、国内では右に出るものがいないそうよ。剣道の師範でも敵うものはいない。それと、空手でも女子の部で全国大会優勝者なのよ」

「女子の部に、出られるのか」

 野江は慌てて、口を押さえた。

「野江はメロディーと、どこで知り合った?」

「高校の後輩なの。それで、私が理科の教育実習で母校に教えに行ったとき、メロディーと会ったのよ。縁があって、二年生の夏休みから、家庭教師をしていたの」

 野江にしては歯切れが悪く、嘘が簡単に見抜けた。野江は都内トップ・クラスの女子高から大学に進学していた。

それに「リツ」は女性的な名前だった。「不自然さが滲み出ているし、嘘だと分かるよ」

 旋律は「本当は俺、女だよ。口の利き方はわけありでさ。詮索するなよな。それに、お前は嫌いなタイプだからな。手を出すと、ぶん殴るぞ」

 男のような口を利く、美少女で、日本を代表する武術家で、僕の知らない人物で、知的な野江を混乱させるほどの存在だ。そんな者が、この世にいるとは想像していなかった。

 影法師の忠告が事実なら、相当な強敵と向き合うかも知れなかった。そんな状況で、IQが図抜けて高い野江博士は、余裕の表情で、か細い少女の用心棒としての資質に、太鼓判を押した。何がどうなっているのやら当惑した。

 旋律が師範を務める宝蔵院流槍術とは、奈良の興福寺の僧が創始した武術だ。歴史書を紐解くと、剣豪宮本武蔵と試合をした僧侶が引き分けていた。さらに、寺田屋事件のときに龍馬の命を助けた長府藩士、三吉慎蔵が宝蔵院流の使い手だ。宝蔵院流槍術こそ最強の武術と主張する識者も多く、旧日本軍の銃剣道にも同流派のワザが取り入れられていた。

「メロディー、お前のやった武術は、槍術と空手だけなのか」

「俺はさあ、あらゆる格闘技に関心がある。太極拳、カポエラ、ムエタイ、フェンシング、どんな動きにも対応できるぜ」

 頭が混乱しない気の持ち方には、骨が折れた。常識はもはや意味の連続性を失い、直線的に進むのを放棄し、夢想にも似た細切れの時間となり、一つ一つを分析しなければ謎が深くなるような感じがした。

 野江は「彼女は、暴漢三人を一瞬にして追い払ったの」と、回想した。

 旋律が高校三年生のときだ。寒い冬の夜、九時頃だ。旋律が家庭教師の野江を駅まで送りに出た。人通りが途絶えたとき、二人は酔漢に襲われそうになった。旋律は道路わきの幟旗からポールを抜き取り「パンパンパン」と三人の男を目にも止まらぬ速さで打ちすえた。「ヒャーッ」と驚きの声を発すると、奴らは走って逃げ去った。

 旋律物語を、簡明直截に想像するのは難しかったが、頭をしっかりと働かせようと思った。僕は男より強い女がいるのを素直に理解できなかった。年をとっても禿げない男がいるのも、女なのに腰にくびれがない奴がいるのも、テレビで落語をしない落語家がいることも知っていた。僕の単純な思考回路では、旋律は複雑過ぎていた。

 華奢で、可憐で、仕草も女らしい旋律が、男のような言葉で話すうえ、めっぽう腕っ節が強いなんてありうるのか。旋律は僕に対してまったく色目を使わなかった。野江としばらく離れ離れになったあと、こんなじゃじゃ馬娘と一緒に暮らすなんて真っ平だった。

 野江は何を考えて、こんな小娘を用心棒に寄越したのか、理解に苦しんでいた。男女が一つ屋根の下で暮らすには、あらゆる展開が予想できないといけなかった。

旋律は大人しくしていれば、驚くほどチャーミングだった。一方で、旋律が口を開くとぞんざいな話し方になった。それでいて、悪意や害意の感じられない独特の語り口だった。

 ああ、なんて奴だ。

「野江、本当にこんな娘に、僕の用心棒が務まるのか」

「大丈夫よ。彼女なら」

「お前、なめた口聞くなよな。女だからと思って、こんな娘はないだろ」

 突っ慳貪に言い放った。旋律は、ポニーテールの髪形に、キュロット・スカートを穿き、ディバッグを背負っていた。年齢は二三歳だが、十六ぐらいに見えた。目が鈴を張ったように大きく潤いがあり、優しくてか弱いイメージしか思い浮かばなかった。

 これからは、ますます感情に引きずられてはいけない。まずは、頭の中を整理しよう――と、僕は思った。

 憮然としているが時折、少女らしい笑顔を見せると、はっと息を飲むような白い歯がこぼれた。その可憐な雰囲気が、周囲の人たちに旋律の性質の良さを証拠づけていると、思わせても不思議ではなかった。

 僕は旋律の人懐っこい表情と、アンバランスに男っぽい話し方に戸惑いを感じ、心の中の違和感を解消するのに苦労した。

「野江っ、メロディーのどこを評価して、ここへ呼んだ?」

 野江とほんの少しの間でも、一緒にここで暮らせたのは素晴らしいが、周囲の視線が気になった。次は、別の女とここで暮らす展開になった。野江は知的な常識人であるとともに、透徹した考えの持ち主で判断ミスをしそうもなかった。ジョークにしては、度を越していた。

「とにかく、私とメロディーを信じてね。只、いたずらに他所のお嬢さんを面倒に巻き込むなんて考えていないから」

「でも、吾妻所長が、アパートを訪ねて来たときに、どう説明すればいい? ただの同居人と説明しても信じないよ」

「それは、私に任せて」

「メロディーは、最初に君が信じさせようとした通り、同性愛者なのか」

「何度も言うけどなあ。俺はそんな女じゃないよ」と、旋律は反発した。

「君が、いやお前がもし、マイ・フェア・レディーのイライザなら言葉が悪くても仕方がないよ。でもな、もうちょっと、話し方を女らしくしろよ」

「映画、見たけどさ。あんな女と一緒にされたくない。俺はもっと自由奔放で、もっと自分らしくありたい」

「メロディーは、そういう子なのよ」

 旋律が個性的に育てられているといっても、見た目の愛くるしさと、話し方と、腕っ節の強さと、色々な面がまったく妙な具合だった。僕の常識からすると、旋律は宇宙人か妖精か、パラレル・ワールドの住人だった。

 利己的なたった一つの言葉が、人の心を深く傷つけ、人生の貴重な時間の中で大切なものを失わせるものだ――と、僕は思っていた。細心の注意を払い、励まし、勇気づけるのが、使命になる場合もあった。そんな僕の思い込みを嘲笑し、旋律は乱暴な話し方をしてきた。但し、旋律の口から出た言葉は裏がなく、害意がなく、どこか爽やかな響きがこもっていた。

 それは、声のせいなのか、心の美しい旋律に耳を傾けているからなのかと思った。

「野江、肝心な質問だけど、用心棒とはいつまで一緒に暮らせばいい?」

「それはね、あなたの安全が確信できるまでよ」

「冗談だろ」

「いいえ、本気よ」

「俺も本気だぜ」

 僕は息を大きく吸って、吐き出した。深呼吸して、肺の空気を入れ替えて、気持ちを落ち着かせた。

野江が「じゃあ、メロディーの事、頼んだわよ」と、僕を見た。

 旋律は「俺が裕司の面倒を見てやる。頼まれるのは、俺の方だ」と不満げに頬を膨らませて見せた。

「そうね」

「どんな言葉をかけて良いか分からない。でも、君は最高の女だ」

「また、しばらくして、私も護衛を伴って、様子を見に来るわ」

「いや、もう来なくていい」僕は、自分の口から出た言葉に驚いた。

「どうしてなの」

「それは、君を危険に巻き込みたくないからだ」

「野江さん、もし今度来るのなら、まず俺に電話してくれ。用心しておくに越した事はないからな」

 野江は注いだばかりの湯呑みのお茶を飲み干すと、テーブルの上にそっと置いた。

そして、自分をいたわるように、両手でゆっくりと顔をさすった。野江はこれからの展

開に意識を集中させ、どんな風に一歩を踏み出したものか、決断しようとしていた。

 僕は野江の心の中の孤独が、僕の胸の中にあるもの以上ではないと信じたかった。傷つけたくなかった。

「どう説明して良いか分からない。やり方も決まったものがあるわけじゃない。だけど、俺は裕司を救えるよ。安心すれば良いさ」

 旋律はじっと野江の様子を見ていた。驚きも、うろたえもしない、怒りも非難もない、真っ直ぐで素直な瞳が輝き、自信のほどを感じさせた。まるで、ヒーローものの超人と同じで、特殊なパワーが発揮できる者の表情だった。

 僕の野江に対する愛情の強さは、どんなカップルにも負けなかった。何なら研究所で血液検査して、オキシトシンの濃度を計測しても良かった。逆に、僕に対する野江の愛は、強さよりも深さだと感じていた。知的な者のみが持つ熟慮があり、計り知れない幅と奥行きの広がりがあった。

「俺がもし、未来のすべてが、見通せるといったらどうする」

「次回のロト7の当選番号を教えてもらいたいね」

 旋律はしらけた感じで、視線をそらした。

「ごめんな」僕は謝った。「冗談だよ」

「メロディー、あなたには未来が見えるの」

「いや、見通せない。でもな、俺は、まず頭の中にうまく行ったシーンを先にリアルに思い浮かべる。絶対にうまく行くと確信する。だから、誰よりも強い」

「まあ、頼もしいのね」

 野江がアパートを去った後、たとえようもない寂寞感に襲われた。だが、僕はこの家で一人ではなく、旋律が一緒にいた。さすがに、初対面の女と同じ部屋にいるのは、抵抗感があった。密室で男と二人きりになる意味が、野江にも旋律にも、分からないのか?

 彼女たちは、認識が甘いのか、人格的に問題があるのかどちらかだった。

旋律は、影法師からの忠告などは、とるに足りないように深刻に捉えていなかった。

 影法師のメールを見たときに、怖れの色が見て取れた野江の表情が、旋律が到着して以来、安心感に変化していた。それだけ信頼しているのが分かった。

 二人は、しばらく黙って座っていた。旋律は、ようやく僕の方を見ると、それまでの経緯のすべてを聞きたがった。こんな展開にならなければ、僕は野江を連れてできるだけ遠くへ逃げていた。だが、逃げても不測の事態は避けられなかった。

 僕を探そうとする人間は、かならず後を追いかけ、一日か二日か、遅くとも一週間以内には居場所を突き止めていた。

影法師は「連中が居場所を見つけた」と告げていた。

奴らは、僕の居場所を知りながらも、泳がせるつもりなのか? 

それとも、すでに包囲網が完成しており、息を潜めてタイミングを計っているのか?

 元旦早々から、僕は旋律と同じ部屋に暮らすはめになった。旋律の風貌は可愛らしく、年頃の娘の魅力をすべて備えていた。唯一、乱暴な男っぽい話し方のせいで、異性として意識し魅了される雰囲気はなかった。

 旋律は持ってきたバッグの中から、DVDを取り出し、断りもなくテレビをつけると見始めた。旋律はマーシャル・アーツや柔術の試合を見て立ち上がり、動きを真似し始めた。見事に一ミリの狂いもない動きで、スピードに遜色もなかった。プロの格闘家たちの動きを正確にコピーし、再現していた。

「幾ら、腕っ節が強くて、格闘技術が優れていても、ピストルの前だと赤ん坊同然だろ」

「俺は、そんなにヤワじゃない」

「無茶をいうなよ」

「無茶じゃない。実力だ」

 大変な一年になった。吾妻所長の対策なんかアテにできなかった。が、藍愛なら相談に乗ってくれないかと期待した。

 旋律は格闘技をマスターするときに、目で見たとおりの速さで再現したあと、それよりもっと速く身体を動かしてみたり、かなり遅くしてみたりしていた。ダンスのリズムに合わせて踊ったりもした。部屋の中なので、下の階の住民から苦情が来ないよう、物音を立てないで素早く動く能力があった。まさに、達人の動きだった。

 旋律がDVDを見て、身体の動きをチェックしている間に、僕はまた電子メールをダウンロードした。年賀メールがかなり来ていた。

影法師は「警告を無視するな。どんなボディーガードがいようと、そこにいると危険だぞ」と忠告して来た。

 何故、影法師は僕を狙う一味と、僕の動きの両方を知っているのか疑問を感じた。

旋律に見せると「こんな脅しは、屁でもないけどな。できれば、人目につかないところへ行った方が無難だな」

 旋律に風呂に入るように促すと、彼女は立ち上がり浴室に向かった。テレビでは、正月番組の合間にニュースを放送していた。テレビの画面を見てはっとした。年末に刑事が訪ねて来たときに、持っていた写真の少女の姿が映し出されていた。

 無事に保護された。真相は闇のままだ。保護されたときは、失踪当時の服装とは違っていた。まったく、乱暴された様子もなく、憔悴した印象もなかった。僕を狙う連中と、事件は何か関係がありそうな気がした。とにかく、無事に少女は見つかった。

 旋律は、裸の身体にバス・タオルを巻きつけたまま出てきた。胸の小さな膨らみや、腰のくびれや、丸い体つきの全体が、旋律が女である真実を物語っていた。なめらかな肌、太腿の曲線へと絶妙なしなやかさでつながる膝。それに、小柄だが鍛えた腹部の筋肉も魅力的だった。

 普通なら、頭がクラクラするところだ。が、普段の旋律の話し方のせいで、そんな気分は起こらなかった。

「おいおい、僕はこれでも男だ。気をつけろよ」

「分かったよ。すまん。俺も迂闊だったよ。でもな、あんまりジロジロ見るなよ」

「別に見てないよ」

「それなら、いいよ」

 旋律とアパートに篭りっきりなのも、具合が悪い気がした。翌日からは、女の子に追いかけられても、外出したかった。

 二日の朝、テレビをつけると風教が出ていた。風教は毎年、年間落語百五十日を目標に全国各地を回り続けていた。ここ十年は目標を達成していた。芸能人には珍しく、目立つ事、儲ける事、モテる事より、ハートで語りかける事を信念にしていた。

 テレビの出演頻度は多くはなかった。風教は「人をいじめるのは、最低の人間のやる愚行です」と話し、天台宗の恵心僧都源信の「往生要集」から、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅について述べた。正しい心の持ち方が人を浄土に導き、悪心が死後の地獄につながると説く仏教では、オーソドックスな教えだった。風教の口から出ると、滋味が溢れ心に浸潤するような気さえした。

 見ていると、自作の仏教落語で法華経の中の常不軽菩薩をテーマにしたものを演じ始めた。旋律はじーっと、画面を見つめると「この親父、すげーよ。俺や野江さんに通じるものがある」と大口を叩いた。

「メロディー、生意気な。何が分かる。爺さんの本質が」

「風教の親父には、奥義を極めたものにしか、分からない人間的な迫力がある」

「唯仏与仏か」とつぶやくと

「唯、仏と仏とのみが能く諸法の実相を究尽したまう」と、即答した。

 旋律のいかにも低能な話し方、ひたむきな努力、強い正義感、豊富な知識のアンバランスさが、僕にはまったく理解できなかった。

 部屋の中には、まだ前日の野江の気配が残っているような気がした。野江が腰掛けていた椅子、身体の重みと体温、手から伝わる想像上のぬくもりが心地よかった。僕の風邪の症状は、ほぼ回復していた。マスクを取り外し、窓の外を見ると、道路や屋根の上には雪が積もっていた。

 すると、どこからともなく「パン・パン・パパーン」と銃声にも似た音が弾けた。

旋律は身構えずに、椅子に腰掛けたまま「ああっ、あれは火薬の量が少ない爆竹の音だよ」と説明した。

 アパートの階段を上がってくる複数の足音が聞こえた。

 旋律は、ベランダから物干し竿を調達すると、また椅子に腰掛けた。はたして、何が起こるのか、僕は思わず息をのんだ。

 旋律は「男が五人、部屋に向かってやってくる。愚連隊だな。武装している可能性がある」と、立ち上がった。しばらくして、ドアをドンドンと乱暴に叩く音がした。そいつは「出て来いよ。裕司」と大声を出していた。

 ドア・スコープを覗くと、旋律から説明された通りの男たちが表にいた。交代で旋律も覗いたので「どうする。無視した方が無難だよな。籠城し続けた方が安全だろ」と、当然の提案つもりで尋ねると「ここは、俺に任しときな」とドアを開けた。

「おい、こら、俺のマブダチに何の用がある」

「なんだ、アマ、どきやがれ。どかないとお前が相手だ」

 旋律は、廊下に出て通路に立っていた。僕もすぐ、後を追った。

「裕司は、俺の後ろに隠れろ」と、手に持っていた物干し竿を「トン」と突いて見せた。同じ拍子に、殴る素振りを見せていた男は尻もちをついていた。

 すぐ後ろにいた、目測で身長百九十センチ、体重百二十キログラムは、ありそうな大男が、旋律の正面に立った。右手の拳にはメリケン・サックをはめていた。

旋律は大男の左手で、物干し竿を持つ右手を握られた。旋律は慌てる素振りもなく、冷ややかな視線で男を見ていた。

後ろから「やっちまえ」と、はやし立てる声が聞こえた。

 だが、予想に反して、大男が力を入れて、旋律の右手を捻り上げようとしても、ビクともしなかった。メリケン・サックをはめた手をブンとうならせて、旋律の顔面を殴ろうとした。旋律は軽くよけると、男の左手から自分の右手を振りほどき、竿で男に一撃を加えた。

 大男の身体は、後方に吹っ飛び、後ろの四人をもなぎ倒した。男たちはほうほうの体で逃げて行った。

旋律は「待ちやがれ。こっちに戻ってきて、ちゃんと説明しろ、臆病者め」と叫んだ。

 アパートの室内に戻ると、旋律は椅子にドサリと、身を沈めた。「相手は大した奴じゃない。裕司がチヤホヤされるので、やっかみ半分の嫌がらせだ。影法師のいうような相手じゃない。一刻も早く、闇の力の正体が、分かればいいけどな」

 僕は頭の中で、それまでと考えを逆さまにしてみた。

「メロディー、もしもだ。手がかりをつかむために影法師をおびき寄せて、僕を狙う連中の正体を暴けたらどうだ」

「影法師は、近くに身を潜めている。いずれ、正体はつかめる。誰が狙っているかも分かるよ。ただし、すべては五日以降だ」

 一連の旋律の言動を見ているうちに、野江が何故、旋律に全幅の信頼を置いているのかが理解できた。旋律のパワーは、人間離れしていた。よく目を凝らして見ても、さほど腕が太いとも思えなかった。僕の探究心は、どうあがいても旋律の本質を見抜けない気がした。

「メロディー、お前の腕力には、まったく驚かされるよ」

「いや、俺は腕力で、相手を倒していない」

「じゃあ、何故あんなにも強い?」

「まあ、気合だな」

「つまり、精神力か」

「ただの精神力じゃないよ。俺は、自分が手に持つ物干し竿の先端から末端までが、天地を貫いていると感じていた。俺の握りこぶしは、物干し竿と一体になっていた。だから、奴らを追い払えた」

「まるで、イリュージョン・マジックだ」

「でもな、俺は怒りをエネルギーにして、相手を倒すタイプじゃない。むしろ、相手の怒りや邪念を利用して、ぶっ飛ばした」

 旋律の話を聞いていて、僕が少林寺拳法を始めた動機を思い出した。少林寺拳法には、相手の力を利用して倒す柔法、蹴りと突きを主体に技を組み立てる剛法、人体のツボや急所(秘孔)を覚えて、体調を整える整法があった。僕は荒々しい攻撃技の剛法よりも、柔法や整法に魅力を感じていた。

「メロディー、少林寺拳法の技は知っているかい」

「ああ、まあな。少林寺拳法の技の中では、羅漢拳の袖巻返が好きだな」と、旋律は淡々と返答した。

 羅漢拳は難易度の高い技で、高段者にしか使えない。それを呆気なく

「あれは、いい技だよ」と、軽く扱った。

「裕司、言っておくけどな。俺一人で全部の敵を倒すつもりはない。警察署に影法師のメールの件は、伝えておこうぜ」

 乱闘するのは、本来違法行為だ。正当防衛ではなく、過剰防衛になると、防御のために闘ったと主張しても、罪は免れない。旋律も無抵抗の相手に、挑むつもりはないと宣言していた。

 五日に警察署を訪ねた時に、藍愛を味方にできるかが自分を守れるかどうかの鍵になっていた。当日の受け答えは、野江にアドバイスしてもらう予定だった。僕は旋律よりも、警察署の方が余程、頼りになると考えていた。

 旋律は、形の良い額、どこまでも澄んだ瞳、目立たない鼻、内面の純粋さを示すようなあどけない表情をしていた。二十三歳なのに、旋律には高校生のようなムードが漂っていた。まったく、格闘家の持つ、険しさは感じ取れなかった。

 野江とは、月と星のごとく全体の印象が違っていた。端的にいうと、美しい野江と愛くるしい旋律の感じだ。しかし、男っぽい口調だけは、どうにも好きになれなかった。僕と旋律は、別々の部屋でお雑煮を食べた。旋律は食事をしているのを人に見られるのを嫌っていた。きっと、旋律は行儀が良くないのだと、僕は勝手に想像していた。

 正月の二日、自宅の電話が鳴り始め、鳴り止まなくなった。すべて、部屋を訪ねて来た女性たちからだった。

「裕司、今度うちに遊びに来ない」とか「パソコン操作に疎くてさ。ちょっとでいいから、教えに来てくれないかしら」とか「今、部屋に一人きりなの。良かったら一緒にうちで食事しない」とか、そんなのばかりだった。

 面倒だから、留守番電話に切り替え、携帯電話のみ使う方針にした。野江や吾妻所長、盛本、吉岡たちには、メールで伝えておいた。

 一方で、張り紙の効果と、年末年始の警察官の巡回警らのお蔭で、アパートを訪ねてくる女性はかなり減った。乱暴な男たちは、警らのない時間帯を見計らって来た。

「メロディー、僕と一緒にドライブしないか。ずっと、部屋の中だと気が滅入るよ」

「裕司、お前は女の子たちに追いかけ回されるだろ。野江さんから聞いているよ。そんな状態で、どうやって脱出するつもりだ」

 僕はデオドラント剤の服用と、へんてこオオカミの着ぐるみを着る、二つの手立てがあるのを伝えた。旋律は、着ぐるみを見ると目を白黒させたあと「可愛いじゃん」と、おどけてみせた。

 実のところ、僕は着ぐるみと、デオドラント剤の併用を考えていた。もっとも、着ぐるみをちゃんと着ていると、抑制剤など無用だった。反対に、その格好だと初詣には行けなかった。

どこをドライブするか、旋律に決めさせた。

 神奈川出身の旋律は、好奇心を刺激されると話の中に「~じゃん」を多用した。へんてこオオカミの着ぐるみをかなり気に入った様子で「いいじゃん」「面白いじゃん」「楽しそうじゃん」と銅鑼の音を響かせる要領で、ジャンジャンと鳴り続けた。

 要するにドライブに行くのなら、着ぐるみを着て行けと指示していた。旋律は初詣に行きたいと懇願した。オオカミ男の姿で、人ごみに行く危険は経験済みだった。

旋律は「ワクワクするじゃん」を繰り返した。

「中野区の新井薬師梅照院なら、そう遠くはない」

「どうしても、武運長久を祈願するため、練馬区の氷川神社に行く」と譲らなかった。

 ドライブ・コースとしては三十分だった。旋律の希望で、無理やり着ぐるみ姿でアパートを出るはめになった。駐車場に着いて、クルマの中で着ぐるみを脱ぎ出発した。僕が旋律に「男より強い女になる決意をしたのは何故だ」と尋ねたが「う~ん」と考え込んでいる様子だった。

 旋律は、フランスの百年戦争のときに活躍したオルレアンの少女ジャンヌ・ダルク、一万三千人の軍隊を指揮した殷の時代の中国の婦好、アメリカの西部開拓時代の凄腕女ガンマンのカラミティ・ジェーンの名を上げた。

「でも、大和撫子はつつましいよ。女傑なんか歴史上、存在しない心やさしい国だよ。日本はね」

 旋律は、不満げに「平安時代末期に源義仲の妾の巴御前は、女武者として勇敢に戦っている。義仲に見初められた彼女は才色兼備なだけじゃなくて、相当に強かったってさ。彼女たちに比べれば、男なんて軟弱だぜ」

 いったい、どれだけの知識が頭の中にあり、どれほど強い? 計り知れない気がした。片道三十分の行程だ。氷川神社に到着。しかし、僕はオオカミ男の姿にも変身せず、抑制剤の効果を盲信しないで、神社の近くにクルマを停車させて、車内で待った。

 正月の二日でも、境内は大勢の参詣客で賑わい、旋律はなかなか戻ってくる気配がなかった。途方に暮れているうちに、またトイレに行きたくなった。

 僕は神前ではなく、クルマの中で手を合わせ「メロディー、早く来てくれ」と祈っていた。正月最初の祈りの言葉が「メロディーが戻ってこないと、おしっこが漏れそうと」は、我ながら情けなかった。

 もっ、漏れそう、僕は心の中でつぶやいた。神の救いなのか、やっと旋律が戻って来てくれた。旋律が戻ってきたものの、僕は神社のトイレの長い列のあとに並ぶ気はまったくなかった。しかも、正月の初詣の人出でごった返している中を歩く勇気はなかった。

クルマを走らせると、人通りが少なくなったところで、コンビニを見つけた。ここでトイレを借りようと思った。

 着ぐるみのオオカミ男に変身した。背中のファスナーを旋律に閉めて貰うときに、唖然とした。完全に閉めると用を足せなかった。開けたまま行くと、女の子に追いかけられた。そこで、少し旋律に無理難題を押し付けた。

「メロディー、頼むからトイレまで一緒に来てくれないか。変な事はしないから」

 抑制剤を持参して、素早く動けば何とかやり過ごせたのにと、反省した。

旋律は「ああ、いいよ。行ってやるよ。ただし、俺に妙な気を起こしたら張り倒すからな」

 オオカミ男の僕と、女子高生風に見える旋律は、二人でコンビニに入りトイレを借りた。店内の買い物客は僕らの方を一斉に見ていた。

店員に「正月のイベントで『赤頭巾とオオカミ』の芝居をしているのですよ。で、ちょっとテントの中の仮設トイレが客で満杯なので、貸して頂けないかと……」

 店員は、にこやかに笑いながら「どうぞ、使ってください。奥です」と店の奥を指差した。旋律が僕の後について歩くのを見て「一人用ですので、順番に使ってください」と旋律を制止しようとした。

「俺、こう見えて男です。こいつは、俺のマブダチ。本当は赤頭巾役なんて、したくなかった」と、構わずついてきた。

 トイレの中に、二人で入るとすぐに、背中のファスナーを下げてくれた。旋律はドアの外に出た。用を足したあと、約束どおり二回ノックした。旋律は音を聞きつけて、ドアを開けるとファスナーを上げてくれた。

「裕司っ、まったく、世話の焼ける男だよな。お前は……」

 アパートに帰る道中は、影法師の忠告の不気味な内容、五日に警察署に行って藍愛に会ったときの対応、さらに中野区のアパートから、どこに引っ越すかまで話し合った。

すべては野江に相談する方向で落ち着いた。

 いや、一つだけ決まった約束事があった。影法師がいう僕を狙う奴らを「天道」と呼ぶ取り決めだった。つまり、お天道様=日光の照りつける場所に影ができる――という意味だった。天道は、今も僕の動きを調べているのかと推測すると、不気味だった。僕は泳がされているだけなのか、いつ、どんな形で襲ってくるか、分からないのは脅威に感じた。

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