第145話
彼らは私にとって大事な存在だった。
彼は自分が変わることができたのは私のおかげだと言うけれど、私こそ私が変わることができたのは彼のおかげ。
彼が、何度も私の長所を述べてくれたから。私の知らない私を教えてくれたから。私に恋を教えてくれたから。
私は変わることができた。
彼女は私にとって初めての友人で、そしてかけがえのない親友だった。いいえ、今も私はそう思っている。そう願っている。
この先の人生、彼女は隣にいてくれると思い込んでいた。けれど、今の私の隣には彼女はいない。彼もいない。誰もいない。
それも仕方のないこと。
だって、かつての幸せな空間を壊してしまったのは私なのだから。
自身の中の変化に惑わされ、自分勝手に相手に要求をし、結果全てをなくしてしまった哀れな女。それが私。
なんて、悲劇のように語っている自分に嫌気がさす。
彼のおかげで自分のことが好きになれたのに。また、嫌いになっていく。
いっそのこと私が身を引いて彼と彼女を二人にすれば全て丸く収まるのではないかとも考えた。
けれど、私の手は彼の連絡先を消すことすらできない。
目を瞑れば彼の顔が浮かび、真剣な表情で私の魅力を語り始める。
欲しい。彼が。彼の言葉が。私に向けるその熱が。
欲しくて、欲しくて、欲しくて。
気づいたら彼宛てにメッセージを打ち込んでしまっており、我に返ったところで急いで文章を消す。
結局、彼を諦めることなんてできないのだと悟る。自分の往生際の悪さに愛想が尽きるが、今バッサリと彼のことを忘れることができるのであれば、彼女と、親友と仲違いするまで惨めな姿を晒すこともなかったかと胸中で苦笑する。
彼に会えないこの夏休みという期間を初めは恨めしく思っていたけれど、今は頭を冷やす期間と捉えるようにした。
それでも彼を求める気持ちは抑えきれないため、衝動を解消するために彼に手紙をしたためた。何通も、何百通も。彼が私にしてくれたように、彼に向けた私の言葉をいくつもいくつも連ねた。その中には謝罪の言葉も含まれる。
夏休み明けには、文字だけではなく、しっかり自分の口から謝罪を入れようと思っている。手紙に書いた何百、何千通りもの謝罪の言葉から厳選したものを。直接。
そうしたら。彼は私のことを許してくれると思うから。また、以前のように私の隣にいてくれると思うから。
だから。
「お姉ちゃん」
鈴の音のような声が聞こえた。
顔を上げて部屋の扉の方を振り向くと、そこには紗季が立っていた。
紗季は私の顔を見て一瞬ギョッとした表情を浮かべる。
「紗季。久しぶりね」
「……はい。お久しぶり、です」
思えば紗季と会うのはあの日……夏休みに入る前、彼女、晴を紹介して、晴と一緒に彼、蓮兎くんとお付き合いをしていることを打ち明けた時以来ね。
……あぁ、もうお盆に入っていたのね。だから紗季は我が家に来た、ということ。
つまり、あと半月もすれば、蓮兎くんに会えるのね。蓮兎くんのそばにいれるのね。
蓮兎くん。蓮兎くん。蓮兎くん。
「お姉ちゃん!」
……紗季の声? あぁ、そうだったわ。紗季が来ていたのよね。
「ごめんなさい。考え事をしていたわ」
「……蓮兎さんのこと、ですよね」
「……えぇ、そうよ」
「どうして蓮兎さんのことを考えていたんですか」
「どうしてって、好きな人のことを考えるのは当然じゃない」
「目の前にわたしがいるのにですか」
口を噤む。紗季の言うことが正論だと思ったから。
紗季は部屋に入ってきて、一歩、また一歩と私のもとに歩み寄ってくる。
そして、私の目の前まで来たところで一呼吸を挟み、
「お姉ちゃんは、どうして蓮兎さんのことを好きになったんですか」
そんなことを質問を投げかけてきた。
私がなぜ彼に恋したのか。その理由は一言で表せるほど簡単なものではない。
「言葉にするのは難しいわ」
そう答えると、紗季は少し怒ったような表情を浮かべた。
「お姉ちゃんは蓮さんのこと、本当に好きなんですか?」
「なっ——」
紗季の言葉に怒りが湧き上がってくる。
私のこの気持ちを蔑ろにされた。そんな気がしてしまったから。
「蓮兎くんは私のことをたくさん褒めてくれた。私の知らない私を教えてくれたの。そして、何度も何度も、私の不躾な対応を受け続けてもなお気持ちを伝えてくれた。だから私は自分を認めることができて、恋をすることができたの」
私は、まだ形を定めきれていないこの想いを、なんとか言葉にする。
すると紗季は「ふぅん」と鼻を鳴らし、見定めるような目つきをする。
「では、誰でもよかったのでしょうか。お姉ちゃんの冷たい態度に懲りず、熱い想いを伝え続ける方なら、どなたでも。蓮兎さん以外でも」
「そんなことない!! そんなはず……ないわ」
反射的に否定する。けれど、その後に続く、続かないといけない言葉は出てこない。
私はまだ知ることができていないから。
「……お姉ちゃんは」
紗季は顔を歪ませながら言葉を続ける。
「プライドが高くて、わがままで、他人を信用していません」
それは私を罵倒する言葉で、私を正確に表現していた。
「けど、蓮兎さんだけは。蓮兎さんにだけは甘えることができています。とても、下手ですけど。お姉ちゃんなりに甘えることができています」
紗季の目が少しだけ優しいものになる。
「どうしてお姉ちゃんは蓮兎さんには甘えることができるのか、わたしなりに考えてみたんです。……蓮兎さんは、お姉ちゃんが変えた相手だから。変えることができた人だから。だから……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
続きを待っていると、紗季はふぅと息を吐いた。
「蓮兎さんはお姉ちゃんのことを怒っていませんし、嫌いになんてなったりしていません。だからお姉ちゃんが蓮兎さんの隣に立つことは可能です。でも、このままではダメなんです。お姉ちゃんにとっても、蓮兎さんにとっても。……お二人はまだ変わる必要があるんです」
言い切った紗希の瞳は揺れている。
このお説教が彼女にどれだけ負担のあるものか。それを感じ取るのは容易であった。
彼女に厄介な役割をさせてしまったと罪悪感を覚える。
まだまだ自分の考えが足りないことを実感する。もっと、もっと深く考えないといけない。
思考の海に沈もうとしたところで、紗季の悲しげな声が聞こえた。
「……ここまで言ってもダメなんですか」
彼女はそう言うと、携帯を取り出して操作し始めた。
「わたし、この夏休みの間に蓮兎さんとたくさん遊びました」
「……え」
「海に行って水着を披露しましたし、夏祭りに行って花火も一緒に観ました」
それは、この夏、私が彼としたかったことだった。
それを紗季がしたと言うが、どうして私に教えるのか。
彼女の意図を探ろうとしたところで、彼女は「ごめんなさい」と小さな声をこぼした。
「今のはちょっとした意地悪です」
そう言葉を続けると、紗季は携帯の画面を見せてきた。
そこにはトーク画面が表示されており、トーク相手は……蓮兎くんだった。
トークの内容は知りたくないと思い目を逸らすが、紗季の口からその内容を知らされる。
「今度、蓮兎さんとお出かけすることになりました。……お姉ちゃんと会って欲しいとお願いしたらすぐにお返事がきましたよ」
小さく唇を尖らせる紗季は、年相応の姿に見える。
けれど、次の瞬間、彼女は大人な姿を見せる。
「お姉ちゃん。もっとわたしのことも頼ってください。……年下だからって甘えないのは、エイジハラスメントですよ」
そう言って、彼女はいたずらっぽく笑う。
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