第73話
晴の精神が安定になったところで、松居先生がそろそろ帰ってくるため、俺は晴から離れた。
すると晴は「手だけでも繋いでよ」とせがんできたが、胸が痛むのを押さえながら断った。帰ってきた時に咄嗟に手を離したところで、ああいうのは意外と見られているものだ。
スマフォが震えたので確認すると、小田からメッセージが来ていた。
『我はまだ状況を完璧に把握できていないが、今は瀬古氏を信じるのみ。とりあえず噂の証拠とやらを探ってみるよ』
「小田ぁ……」
思わず「愛してるぞ」とメッセージを送ろうとして、直前で打ち込んだ文書を消した。危ない。友人の優しさに心を持っていかれるところだった。
小田には今まで詳しい話をしてこなかったが、今度腹を割って話すべきかもしれない。少し刺激的すぎるかもしれないし、もしかしたら俺に失望して絶縁されるかもしれないが。それも俺の罪だ。
「オタくんがどうしたの?」
俺が突然小田の名前を呼ぶもんだから、晴は怪訝そうな顔をして訊ねてきた。
「小田も色々と協力してくれるって」
「そうなんだ。オタくんって優しいよね」
「そうだなぁ。俺の自慢の親友だよ。そういえば、なんで小田のことオタって呼ぶんだ?」
「あ、これ? 最初読み間違えちゃって、後からそれに気づいて本人に謝ったんだけど、『我って感じがするからそのままでいい』って言われちゃったんだ。だからそのまま呼び続けてるの。愛称みたいな感じかな」
「なるほどね。読み間違えがそのまま愛称になっちゃったわけか」
「……レンっていうのも愛称だよ。あたしが呼びたいなって思ってつけたの。レンはこの呼び方嫌い?」
「……いや、好きだよ。晴にその呼び方されるの」
「えへ、えへへ。よかったぁ」
安心したのか、晴は頬を緩ませる。そして手をこちらに伸ばそうとして、さっきのやり取りを思い出し、眉を下げて手を引く。その一連の動作を見て、少し罪悪感を覚える。
すると部屋のドアが開いて、松居先生と美彩が入ってきた。罪悪感に負けて晴の手を取らなくてよかった。
美彩は俺たち二人を交互に見て、少しだけ眉を顰める。
「夜咲はこの椅子使いな」
「いいんですか? 先生の椅子がなくなりますが」
「いいのいいの。教師は授業中立ってるから慣れっこなのよ」
「ふふ。そうでしたか。ありがとうございます」
美彩は先ほど松居先生が座っていた椅子を持ち上げ、そのまま俺の隣に移動してきた。俺を挟む形で晴とは反対の方に移動して椅子に座る美彩を見て、松居先生は「ほー」と声を漏らす。
「本当にそういう関係になってんのね」
「疑ってたんすか」
「いやいや。信じてはいたけど、やっぱり目の当たりにすると違うのよ」
「そんなもんすか」
俺と松居先生の会話を横で聞いて、美彩は首を傾げる。
「蓮兎くん。どういうこと?」
「あぁ。先生には俺たちの今の状況を軽く説明したんだよ。勝手に言って悪かったな」
「大丈夫よ。あなたが話したってことは、先生は私たちの味方ってことでしょう?」
「察しが良くて助かるよ」
「ふふ。あなたの言動は分かりやすいから、容易に想像がつくのよ」
美彩が揶揄うように笑う。最近見つかった彼女の新しい魅力だ。それに見惚れていると、後ろから「うぅ」と唸る声が聞こえた。それで我に帰り、俺は松居先生の方を向いた。
彼女はニマニマしながら俺たちのことを観察している。おそらくここにお酒があったら、彼女はグビグビいっていただろう。
では気を改めて、
「話し合いするか。先生はそこで聞いてるだけっすよね?」
「ん? あぁ。邪魔だったら外に出てるよ」
「俺は別に構いませんよ。二人は?」
「あ、あたしは大丈夫。松居先生は信用できるから……」
「日向、好き」
「ふぇっ!?」
「本音漏れてますよ先生」
「ふふ。なんだか先生って蓮兎くんに似ているわね」
「えっ」
「えっ」
「どうして二人して固まっているのかしら」
「だって……ねぇ?」
「なぁ?」
「ほら、そっくりじゃない。嫉妬してしまうくらいに。……だから、私も先生を信用します」
「これは俺が勝ち取った信頼っすよね、先生」
「ばーか。私に決まってんだろ。見ろよあの夜咲の私を信じきった目を」
「澄み切った綺麗な瞳ですよね。まるで先生を映していないみたい」
「お前ほんと生意気だな」
「先生の生徒なので」
「人格形成がまだ終わってないなんて、瀬古はまだ赤ちゃんでちゅね〜」
俺と松居先生のそんなやり取りを聞いて、晴と美彩はクスクスと笑っている。
俺と松居先生はそれを見て、お互いに顔を見合わせて笑う。
なんとか空気が柔らかくなったところで本題に入る。
「そもそもこの噂の出どころはどこなんだ?」
「あたしは知らないよ。登校したら、みんなが詰め寄ってきて知ったもん……」
「私も晴と同じよ。クラスメイトに心配されて初めて知ったもの」
「んー、そっか。俺も二人と同じ感じだしなぁ」
俺たち三人が学校に着いた時には既に噂は広まっていたってことか。
「てかさ」
静観すると言っていた松居先生が、そこで口を挟んできた。
「夜咲がその噂を流したって可能性はないの?」
一瞬で場の空気が凍る。なのに松居先生は構わず続ける。
「だってこの噂が流れて得するのってさ、夜咲じゃね? 恋敵を潰せるわけだし」
場に静寂が流れる。両隣から二人の息遣いが聞こえる。
誰も喋らないし動かない。そんな時間が十秒ほど続いて、その沈黙を破ったのは晴だった。
晴は席から立ち上がり、先生に詰め寄っていく。
「先生! 今の発言、撤回してください! 美彩は、美彩はそんなことしません! たしかにあたしたちはレンを争う仲ですが、それ以前に親友なんです。だから、だから……!」
晴は詰め切る前に感情がいっぱいいっぱいになったのか、涙を流して固まってしまった。
そんな彼女を支えるために美彩も立ち上がり、彼女の体を支えながら松居先生をまっすぐ見て言う。
「先生の仰ることは尤もですが、私はそのようなことはしていません。このような破壊的手段は取らずに、彼を手に入れるつもりですので」
そう言い切ると、美彩はハンカチを取り出して晴の涙を拭き始めた。
「……そう。悪かったわ。ちょっと確認しておきたかったのよ」
先生はそう言って横を向く。平静ぶっているが、瞳は潤んでいて唇はプルプルと震えている。
俺も松居先生の発言を聞いた時は一瞬激昂しそうになった。だけどすぐに、どうして松居先生がそんなことを聞いたのかを考えた。松居先生は、俺たちの中でその疑問が生まれた時に、誰も聞き出すことができず、それによって不和が生じるのではないかと危惧したのだろう。つまりは、俺と晴の代わりに松居先生が聞いてくれたのだ。松居先生も最初から彼女が噂を流したのだとは思っていなかっただろうに。
ただ、推しである晴に怒られてしまい、ダメージは予想以上だったみたいだ。
「……ごめんなさい。私、廊下に出ておくわね。当初の予定通り、三人で話し合いなさい」
部屋を出ていく松居先生の丸くなった背中を眺めながら、俺は松居先生を恩師と呼ぶことに決めた。
今度、この前撮った晴の写真でも見せてあげよう。そしたら復活してくれるだろう。晴にバレたら怒られそうだけど。
美彩に涙を拭いてもらった晴は、美彩をまっすぐ見て口を開いた。
「ごめんね、美彩」
「どうして謝るの。むしろ私はお礼を言いたいのだけれど」
「……だって、本当に親友を裏切ったのはあたしだもん。美彩が噂を流したとは思ってなかったけど、もしそうだったらって考えたら胸が苦しくなって……美彩にこんな思いをさせちゃったんだって思ったら、あたし、取り返しのつかないことをしたんだなって今更思って……」
「……いいのよ。その話はもう済んだでしょう。それに、彼と私は付き合っていないのだから、彼と何をするかはあなたの自由なのだから」
「……うぅ。美彩ぁ。好きぃ。でも負けないからぁ」
「ふふ。私もよ。絶対に諦めないわ」
美しき友情を目の当たりにして、俺は思う。
本当に美彩を裏切ったのは俺なのだと。
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