霧の大陸、再訪
再会 <1>
ザリヴ本島、大衆酒場「ローレライ」。飛行船から降りて真っ直ぐその酒場へ向かった僕は、以前訪れた時と同じくエディーネ・パラを注文した。
注文を待っている間、僕は周囲の喧騒と料理の匂いとを感じ、酒場の雰囲気を全身で味わっていた。一年前と変わらない柔らかくも強かな海風を感じながら目の前に運ばれてきた料理を戴く。
カチャリと食器を置き、辺りを見渡す。酒場に備えられたステージに目をやっても、彼らしき詩人は見当たらず、今日も熱狂的な音楽が演奏されている。頬杖を突きながら演奏を聴いていると、食べ終えた食器を下げられ、追加の注文はあるかと問われる。僕は追加でドリンクを注文した。
大学に通いながら酒を嗜んでいる者も少なからず居り、付き合いで飲むこともあったが、僕はどちらかというと下戸であるため、たとえ旅先の酒場であっても、飲むものは水かノンアルコールドリンクとなってしまう。
「お待たせしました!」
ふと聞き覚えのあるような声がし、顔を上げる。注文していた飲み物をトレーに載せ、退屈そうに頬杖を突いていた僕を見下ろす、いつかジャントンで売り子をしていた彼女と再会した。
「……サーシャさん?」
「はい!シトラスミックスジュースです!……ええと、確かに私はサーシャですけど……」
彼女は僕の首にある赤珊瑚のネックレスを視認し、あっと驚く。
「ああ~~っ!もしかしてうちのネックレス買ってくれた、フロニカの学生のお兄さん!?えっと、名前何でしたっけ!」
「エドワード・ハイベリー」
サーシャは急いで厨房にトレーを置き、エドワードの席の横に戻ってしゃがんだ。
「そうだそうだハイベリーさんだ!久しぶり!この間詩人さんが、ここで働けばあなたに会えるって教えてくれてね、それで、何勉強したか聞きたかったから転職したの!——っていうか!この前は帰りに屋台に寄ってくれなかったよね!私あの時ワクワクしながら待ってたんだから!」
息継ぎ知らずの彼女は機関銃のように目を輝かせながら喋り出す。僕は苦笑しながら謝罪し、酸味のあるシトラスジュースを口に含んだ。
「で、ねえねえ!また来たってことは、また勉強しに行くの?」
「そんなところだけれど……その前にこのお店で詩人——ノヴァリスさんと会う約束してて」
サーシャは感嘆し、考える素振りをした。
「詩人さん、ノヴァリスさんって言うんだ。うーん……今日はノヴァリスさん、まだ来てないんだよね……いつもほぼ毎日来てるんだけど。この時間まで来ないってことは、忙しいのかも?——あっ!ちょっと待ってて!」
そのままサーシャは厨房に行き、しばらくして私服に着替えて向かいに座った。
「仕事上がってきちゃった。ね、今日泊まるとこって決まってる?もし無かったらうちに泊まってよ。すぐそこの借家に住んでてさ。勉強したこと聞かせてほしいな」
「え、ええと」
初めて同年代かその下の女の子に家に誘われてたじろいだが、僕は泊まるホテルはもう確保できていることを伝えた。
「えーっ!残念……じゃあ、明日ノヴァリスさん探して、ホテルに迎えに行くから!どこに泊まるの?」
以前泊まった場所と同じホテルを教え、身支度を整えて店を後にした。が、サーシャは店から出てもホテル前まで付いてきた。
「もしかしたら私も部屋に入れてくれるかもしれないじゃない?」
「予約は一人分しか取ってないから駄目だよ。サーシャの分の宿泊費が掛かるだろ」
むっとした表情をし、サーシャは腕を組んだ。
「けちね。じゃあさっき言った通り、ホテルに迎えに行くから。何時くらいがいい?」
「なら朝の9時くらいに」
「わかった!じゃあ9時にね。おやすみ」
サーシャは僕がホテルの奥に消えるまで、ずっと見送ってくれていた。振り向く度に手を振る仕草がとても可愛らしかったことを今でも覚えている。
* * *
翌朝、定刻にホテル入り口へ出ると、入り口横のベンチに見知った黒衣の青年が座っており、その横でサーシャが眠っていた。
「おはよう。久しぶりだね、エドワード」
彼は帽子を取り、変わらない赤色の瞳をこちらに見せてほほ笑んだ。
「全く、この子と来たら、昨晩街を走り回って僕を探していたようで、挙句ここで座って待とう!なんて提案するんだ。この子が悪漢に襲われなかったことが何よりの幸運だよ」
「はは……なんだかすみません」
ぐっすりと寄りかかって寝ているサーシャを、ノヴァリスは揺すって起こす。目覚めた彼女は重い瞼を擦ってあくびを上げると、僕の姿を見て笑った。
「ふぁ……おはよ。約束通り探してきたから。勉強の話聞かせてくれるよね」
「君には仕事があるだろ。それに僕はこれから島を——」
「休みを貰ったの。約束の日が来たのよ!って言ったら、それはもう喜んでくれて、たくさん夏休みをくれたのよ。だからどこへだって行けるわ。聞かせてくれるまでは、島の外にだって付いて行っちゃうんだから!」
僕は呆れてやれやれと首を振った。見かねたノヴァリスは苦笑しながらベンチを立ち上がる。
「ふふ。『旅は道連れ』だ。一人二人受講者が増えても、サルバトーレは嫌がらないだろう。少なくとも僕は嬉しいと思うよ」
「——わかったよ。じゃあ一緒に行こう。ノヴァリスさんも、またよろしくお願いします」
跳ね回って喜ぶサーシャを見て、僕はついおかしくて笑ってしまった。彼女の航行代はノヴァリスが受け持つことになった。
バスでジャントンへと向かう道中、僕の隣にはサーシャが座り、その前にノヴァリスが座った。少し気恥ずかしくて僕はあまり喋られなかったが、サーシャはずっと僕に喋りかけてきていた。
「学校ではどんなことを勉強してたの?」
「文字とか、計算とか、歴史とか……」
「この前、サルバトーレ先生には何を教わったの?」
「歴史をちょっと教わったかな……」
「……バッグ見てもいい?勉強道具とか持ってきてるんでしょ?」
「あ、うん……」
興味深そうに僕のバッグを漁るサーシャを見る。彼女の印象的な桃色の髪からは、酒場で味わった柑橘のようなさわやかな柔らかい香りがした。
バッグの中には昔持ってきていたノートとサルバトーレ氏の書籍、そして卒業レポートと賞状が入っていた。サーシャに見せる機会があったなら、他の科目の勉強道具も持っていけば良かったか、と少しだけ後悔した。
ぱらぱらとノートをめくるサーシャに、あれこれと書いたことを教える。
「へえ~……なんだかよくわからないや」
「まあ僕も先生もよくわかってないんだけど。ノヴァリスさんに色々教えてもらってるところもあるし」
そうこうしているうちにバスはジャントンへとたどり着く。以前と同じ賑わいを見せる露店の通りを歩き、サーシャとの出会いを二人で思い出す。
「懐かしいな~。売ってたのは手作りのアクセでさ、いつもノヴァリスさんは買ってくれるんだけど、それ以外の人はなかなか買ってくれなくて。わざわざ島のこの街に旅行しに来る人っていうのも珍しいから、あの時ハイベリーさんが買ってくれたの、すっごい嬉しかったんだよ」
変わらず露店ではアクセサリーや果物、野菜、茶葉など様々なものが売られている光景が目に入る。
「……転職したって言ってたけど、前勤めていたアクセサリー屋さんはどうなったの?」
「ええと……私が辞めちゃったから、もう開いてないよ。元々お母さんのお店で、伝統だから、病気のお母さんの代わりにって続けてたんだけど……冬にお母さんの病気が酷くなって、死んじゃって。お父さんは怒るし、収入も無かったし、どうしようって思ってたら、ノヴァリスさんがあのお店に繋いでくれてさ」
それを聞き、先を歩くノヴァリスが続けて話す。
「——あの時は、ある意味エドワードがネックレスを買っていて、サーシャさんが一緒に勉強したい、と言わなかったら実現しなかったかもしれないね。元々学校に通う学費のためっていうのもあっただろうし、こういった学びの機会も良いんじゃないかと思って奨めてみたんだけれど、まさかこうして縁が繋がるとは」
うんうんと頷くサーシャを横目に、僕は自分の首にかかっているネックレスを手に取ってみた。
「そういう運命があっても良いんじゃないか、エドワード。僕はそんな話も好きだよ」
「からかわないでください」
高速船に乗り込む窓口で手続きをし、マミド島へ向かう。以前利用していたものと同じホテルへたどり着くと、サーシャは嬉しそうにベッドの上ではしゃいだ。
「広いお部屋に大きなベッド!素晴らしいわ!初めての旅だから、何でも素敵に見えちゃう!」
よかったな、と僕は苦笑し、布団に潜り込んで書籍を読んだ。ノヴァリスは横の椅子に座り、僕の方を見ていた。
僕は耐えきれず、ノヴァリスに話しかける。
「……何ですか、そんなに見て」
「いいや。もう1年か、と思ってね。僕もだいぶ歳を重ねているから、どうしても早く感じてしまうもので、少し感傷に浸っていただけさ」
「おいくつなんですか。僕から見ても同年代か少し上か、と見えますけれど」
「はは。ご想像にお任せするよ」
さざ波の音が窓から入り込んでくる。見ると、サーシャが窓から外を眺めていた。桃色の髪が月明かりを柔らかく浴び、夜風に揺れていた。
ノヴァリスは被っていた帽子を取って床に置くと、僕から読んでいた書籍を取り上げて開いた。
「エドワード。君は、夢物語をどこまで信じる?」
「何ですか急に……」
取り返そうと伸びた僕の腕を、ノヴァリスは空いた手で優しく牽制した。
「例えば、悪しき竜を仕留めた竜退治の英雄。あるいは、世界を脅かした強大な魔法。はたまた、伝説として隠されてきた魔殺しの聖剣——。伝承や神話を語る上で付き物になってくるのは、こういった
僕は天井を見つめて考えた。いつか教授が言っていた『デタラメの夢』という言葉を思い出し、目を閉じてうんと唸る。
「……素人の僕でも、考古学の難しいところだと感じる点です。けれど、僕らは当時を生きていたわけじゃないですよね。それらが事実でも創作でも『そう語られてきた歴史があった』のであれば、先人もそうしてきたように、僕らはそれを記して残すのが筋ではないか、と思っています。複数の説があれば諸説あると綴ればいい。辻褄が合わなくても、今出揃っている情報では辻褄が合わないと正直に綴ればいい。大事なのは、その人が何を語ったか、だと思うので、信じる信じないを論じる余地は僕らには無いと思います」
「ふむ。じゃあ例えば、後世に君が残した歴史書を取って、読み手がデタラメだと訴えたら——」
「……論外です。そこまで言う人は自分で見聞きし、調べればいい。今や誰もできはしない精査を他人に委ねて、偽りの歴史だと叫ぶのは、それこそ嘘つきがすることだと思いますよ」
言っていてだんだん恥ずかしくなり、僕は頭まで布団をかぶった。
「……すみません。出過ぎたことを言いました。忘れてください」
ノヴァリスは僕の様子を見てけらけらと笑いながら、取り上げた本をそっと椅子の後ろのサイドテーブルに置いた。
「ははは、や、まあ、良いんじゃないか。僕は君の意見は面白くて好きだよ」
ふと横に目をやると、窓を開け放したままサーシャがベッドで眠っていた。ノヴァリスはそれを見ると、サーシャに布団をかけ、窓枠に腰をかける。赤い瞳が夜闇に輝き、金色の髪が靡く彼の姿は、まるで人ではないような姿に見えた。
「——この調査を進めて、もし君が何か書籍を綴ることがあったら、頼みたいことがある」
「……どうせサルバトーレ氏に頼むから、今のうちに聞きますけど」
僕が返すと、ノヴァリスは僕を見て不思議な笑みを向けた。
「はは。まあそれもいいかもだ。なら、彼にもこう伝えておこう。君たちが調べる神話には名前が付けられている。だから、これを書き留めて、後世に遺してほしい」
彼は神話の名を語った。大陸の名を冠したはずのその名は、僕にはまるでこの世界とは別の、言い表すならば異次元——異世界で起こったかのような、まるで彼が先に語った御伽話のような、そんな響きを覚えた。
「その題は、『ノーヴァルシア・サーガ』」
彼の笑みの奥に含まれた意図は当時はわからなかったが、今思うときっとそれは、君ならば必ず遺してくれる、といった信頼の笑みだったのかもしれない。
僕にとって今一度、深い霧に踏み入る覚悟を決めた瞬間だった。
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