魔法仕込みの料理教室

美池蘭十郎

第1話 第一講 調理器具

 僕が……、まだ幼くて、純粋であどけない心で、日常の不思議に向き合っていたころ、母は呪文の言葉を教えてくれた。それ以来、僕は母が与えてくれた三つの呪文を心の中で、何度も唱えてきた。

 一つ目は、人と仲良くする方法を考えること、二つ目は、毎日の暮らしの中に楽しみを見つけること、三つ目は、一瞬を大事にして集中することである。

 母は多弁を費やさず、この三つを守れば大人になり、周囲から認められ、成功していると確約してくれた。

 僕が小学校に入学した時のことだ。六歳年上の姉も同じ呪文を授けられていたが「親の恩着せがましい説教を真に受けても役に立たない。もっと、毎日の経験を通じて学べ」と、指図した。

 二人の間の板挟みになり、父に相談したら「子供のお前には、何事も年長者の意見が役に立つ。今回の場合は、姉さんよりも大人の……母さんの考えの方が正しいようだ」と告げた。

 僕は人生とは明るく楽しいもので、呪わしさとは無縁だと考えるようになった。

 一方で、異常な性格の連中は、僕の楽観主義を嘲笑い、魯鈍な男と見做し、攻撃するようになった。高校に進学してからは、毎日が苦痛の連続だった。

 あろうことか、僕は中学校時代、本業の勉強をそっちのけにして、小説や漫画本の読書に耽り、日曜日には日が暮れるまで友人と、ドッチボールをしたり、草野球をしたりという毎日を楽しんだ。一瞬一瞬を楽しみ、充実した時間を過ごした。

 中学三年生の夏休み、優等生の家に遊びに行ったところ、自作のプラモデルや、大量の推理小説を見せつけられ「高校受験は楽勝だ。目を瞑っていても、最難関校に俺なら合格する」と嘯かれ、真に受けていた。

 それが原因し、高校は悪ガキが集まる低レベルの男子校に進学した。同級生は勉強どころか、本も読まず、美術鑑賞やクラシック音楽にも興味を持たない、低能で乱暴な生徒が大半だった。

 高校入学の三週間後に、クラスの不良グループが、気に食わない同級生の粛清を始めた。リーダーは、粛清対象の生徒に対して、放課後に体育館に来るように一人一人声を掛けた。僕も呼びかけられ、何のことかと体育館に赴く手前で腹痛を起こし、保健室のベッドでしばらく身体を横たえていた。

 翌朝になり、自分が偶然に難を逃れていた事実を知った。不良グループは呼び出した連中を袋叩きにし、被害者は骨折、裂傷、打撲などの怪我を負った。五月の連休明けには、加害者側が退学、停学の処分を受けた。

 担任の教師から「お前も不良グループのターゲットリストに名前があった」と告げられて、背筋が凍り付いた。担任は僅か二か月で配置転換になり、他校に赴任し、休み明けから新任の筋肉質で強面の教諭がクラス担任となった。

 僕は安全を見て、実力より下のランクの高校に進学していたので、クラスでも成績は良く他の生徒とのコントラストで優等生と見られていた。僕は学級委員の選挙の時にも、委員長選は僅差で敗れたが、風紀委員に選ばれていた。

 そのせいで、不良グループの残党に目をつけられて、迫害の対象になった。

 姉は不甲斐ない僕を叱責し「空手道場に通って、逞しくなりなさい。寸止め空手ではなく、喧嘩空手の有段者になって、見返してやれば……」と、無茶を言う。

 母は「不良の人たちの話をちゃんと聞いて、理解してあげるのが一番大事でしょ」と、実情を無視して諭し、父はいつも通り「お母さんの言うとおりだぞ、人と人は語り合うことで、理解しあえる」と、母の意見に追随した。

 家族も親戚も誰一人として、僕が通うような底辺の学校への進学経験がなく、彼らが口にする「自分の経験を踏まえて言うと……」との説教は、空想の物語に似ていた。

 女子大四年生の姉の意見がもっとも説得力があり、参考にはなったものの、話の後の自慢話が鬱陶しかった。

「私と違って、あんたは毅然とした態度が取れず、人を見るとヘラヘラしている。だから、そうなるのよ。言っている意味が分かる?」

「ああ、何となく分かるよ」

「しゃきっとしなさい。しゃきっと」

「まあね。そうしてみるよ」

「家で本ばかり読んでいないで、あんたには何か打ち込めるものが必要なのよ。何度も言うけど、道場で鍛えてもらいなさい」

「それも、考えておくよ」

 姉は勝手に期限を設けて「来週土曜日までに、どうするか決めておきなさい。空手が嫌なら、合気道や、柔道も選択肢としてある。道場通いが嫌なら、部活を始めなさい。スポーツが嫌なら、応援団に入るのもいいかも……」と告げた。

 部活はどこも魅力的に見えず、授業が終わると自宅に直帰する帰宅部を続けた。町の道場の様子を見に出かけたが、どこも屈強で押し出しの強そうな奴らばかりが目についた。上品に育てられた僕の嗜好性とは合いそうもない。

 このままだと、三つの呪文の効果がなく、僕の楽観主義は崩壊する。それに、姉との約束の期限だ。日曜日の朝刊の折り込み広告の「魔法仕込みの料理教室! 七月開講分の生徒を募集中。一か月の月謝:一万五千円」の記述が、僕の興味を引いた。

 月謝一万五千円は、僕の一か月のお小遣い五千円の三倍かかる。だが、授業は週一回日曜日のみで半年間で二十六の開講スケジュールだ。この程度なら、毎朝の新聞配達収入で賄えると踏んだ。

「それで、どこの道場にいつから通うか決めたの?」と、姉は当然のごとく尋ねた。

「うん、何とか見つけておいた」

「どこ? 家からは遠い?」

「道場と言ってもね。格闘技の道場ではなく、料理道場……、駅前に看板がある『三宮料理教室』だよ。我が家から阪神電車で四駅目だから、片道三十分で通える」

「馬鹿じゃないの? あんたは、本当に何を考えているの?」

「毎朝、新聞配達で身体を鍛え、貯めたお金で月謝を払う。だから、心配ないよ。何か打ち込めるものを持てと、指図したのは姉ちゃんだろ」

 姉は強硬に反対意見を並べ立てたが、両親は僕の希望を受け入れてくれた。

 男子校なので出会いの機会はなく、鬱屈としていた僕の生活に一条の光が差し込み張り合いをもたらした。ただし、クラスの連中には口が裂けても言えない。

 料理教室に出向き、チャイムを鳴らすと、しばらくして教室を運営する老紳士が出て来た。老紳士がこの教室の先生であるのは、すぐに理解できた。

「うちの教室は、大半が女性だが気にすることはない。君みたいに高校生は珍しいが、受講資格は特に何もないからね」

「まったく、料理経験のない僕でも大丈夫でしょうか?」

「君は、お湯を沸かした経験はあるか?」

「勿論、あります」

「ナイフで、ケーキを切り分けたことは……?」

「それもあります」

「電子レンジで、冷凍食品を温めたのは、最近だとどれくらい前になる?」

「先週、母に言われて、昼食のパスタを温めました」

「何だ? 君は……、料理経験があるじゃないか。それだって、立派な料理だ。心配する必要はないよ」

 先生はそう話すと、笑顔でポンポンと肩を叩いた。

 第一講は、調理器具の選び方だ。料理教室の三十五人の生徒のうち、男性は僕と三十代のサラリーマンだけで、全員が二十代の未婚女性だ。いや……、正確に伝えると、十九歳の大学一年生がいた。つまり、最年少は十六歳の僕だ。

 皆の前に進み出た僕は「永瀬誠也です。冴えない高校生ですが、どうぞよろしく」とだけ名乗った。

 十九歳の少女は、神戸大学の学生で、僕好みの可憐な顔立ちをしていた。彼女の存在を意識するだけで気持ちに張りが出そうだ。彼女は、春野鈴奈という名前であるのが分かった。

 自己紹介が終わると、部屋を暗くしてスクリーンに画像を映写した。

「調理器具を選ぶときは、使いやすさを考えるのが第一だ」と、アンテナペンで示す。

 生徒たちは、机の上にノートを用意し、ペンでメモを取り始めた。

「まな板は、必ず両面が使えるものを準備して欲しい。この中で、理由を説明できる人はいるかな?」

 先生の問いに、背の高いOLが真っ先に手を上げた。

「表と裏を違う用途に使うためです。例えば、表を肉や魚などの生ものに使い、裏を野菜に使います。野菜に肉汁や血が付いたり、匂い移りしたりを防ぐのが目的です」と、堂々と答えた。

「今の答えは、百点満点だ。修了証書を今日、この講義のあとで手渡しても良いぐらいだよ」

 生徒たちの表情が明るくなり、教室に笑い声が漏れ聞こえた。

「人間は表裏のある者は嫌われるが、まな板は逆だと覚えておくと良い。勿論、使った後は綺麗な水で洗い流すのを忘れないようにしてほしい」

 スクリーンの画像が変わり、包丁が何種類も映し出されている。

「包丁と言っても、種類は豊富にある。君はこの中で、何種類の包丁を知っているかな」

 先生は「永瀬君、どうだ?」と、僕を指名して尋ねた。

 スクリーンには、三十種類の刃物が映写されていた。

「えーと、僕が知っているのは、左端の出刃包丁と、その隣の刺身包丁ぐらいです。ちなみに、うちでは出刃包丁しか使いません。刺身包丁は、寿司屋で板前さんが使っていたのを見て、覚えていました」

「なるほど、出刃包丁か……。だが、写真の違いをよく見てくれ。君の言う出刃包丁というのは、こちらの三徳包丁のことではないかな? お母さんはおそらく、この三徳包丁を……」

「そうかも、知れません。でも、よく似ていますね」

 僕の右前の席のサラリーマン男性が身を乗り出し、「どこが違うのですか?」と、先生に質問した。

「良い質問だな。出刃包丁は本来、魚の三枚おろしや、骨を切るのに役立つよう、刃の背の部分が丸く作られている。三徳包丁は、菜切り包丁と牛刀の長所を兼ね備える万能包丁だ。そこが違う。だから、三徳包丁の方が、家庭では重宝されている」

「見た目では、分かりにくいようです。何か目安になりませんか?」

「包丁には、両刃と片刃のものがあるのは知っていたかな?」

「うーん、どうでしょうね」と、サラリーマン男性は考えあぐねている様子だ。

「永瀬君はどうだ?」

「先生の言われている意味が、よく分かりません」僕は素っ気なく答えてしまい、少しだけ後悔した。

「なあに……、簡単なことだよ。包丁の刃を腹の方から見てみる。すると、三徳包丁は両側の角度が同じなので、左右両方に刃のあるのが分かる。一方で、出刃包丁の刃は分厚いが、片側にしかついていないので、左右の角度が違っている」

「そういうことでしたか」

「そうだ……。家庭で使うなら、三徳包丁は必須アイテムだな」

 先生は、家庭で魚を下ろさず、切り身魚を買うのなら、三徳包丁に加えてペティナイフがあれば十分だと説明した。

 スクリーンの画像が変わり、鍋やフライパンが映された。

 派手な服装の二十九歳の新婚主婦が「チェッ」と舌打ちし「あのう、先生、私は料理を習いに来ました。うちでは、調理器具はすべて買い揃えています。早く、何か作らせてください」と、批難した。

「今の提案に誰か異論はないかな? わしは、このまま講義を予定のカリキュラムに沿って進めたい。手元の講義スケジュールを再確認してもらえないか? わしの料理教室は、プロを養成するスクールではない。初心者に基本をマスターしてもらうのを方針としている」

「先生の立てたスケジュール通りに、講義を進めて欲しいです」と、僕は新米主婦を睨みながら、勇気を持って発言した。

「私も誠也君の意見に、賛成です」と、鈴奈は僕に同調してくれた。

 僕の胸の中で、何かが弾けた感じがした。

 先生は「では……、挙手で決めよう」と提案した。

「このまま予定通り、講義を進めるのに賛成の人?」

 新米主婦を除く、三十四人が手を挙げた。

「講義をやめた方が良いと考えている者の人数は、推して知るべし」と、先生は告げた。

 新米主婦は、相変わらず不服そうな表情をしている。

「あなたにとっては、退屈かもしれない。既知の内容なら、配布テキストの先のページを読んで予習しておくと良い」

「分かりました」渋々ながら、主婦は了承した。

 必然的に、講義は調理器具の説明が続ける流れになった。

「フライパンと鍋は選ぶときの基準が違う。まず、フライパンだが……」と、先生はホワイトボードの前に立つと、板書し始めた。

 ホワイトボードには、フライパン選びの基準五項目として。①熱伝導率②重さ③耐久性④手入れのしやすさ⑤価格がフェルトペンで、さらさらと書き記された。さらに、材質として、鉄、アルミニウム、銅、チタン、ステンレスが書き加えられた。

「材質は、わしのおすすめ順と同じだ。鉄は重さと焦げ付きやすさが欠点で、アルミニウムは耐久性に難点がある。銅は重く、耐久性に難点があり値段も高いし、焦げ付きも気になる。重くても気にならないなら鉄製のフライパン。軽い方が良くて、耐久性を気にしないのならアルミニウム製のものをすすめるね」

「女性は、重くて手入れが大変な鉄製より、アルミニウム製の方が合いそうですね」と、OLたちが、メモを取りながら話すのが聞こえた。

「二つ用意できるのなら、比較してみるのも良いだろうね」

「何事も、予算次第ですね」と、僕が納得したように声を出すと……。

「高校生の発言とは思えないね。君は家にあるものを使えば良いよ」と、先生に茶化された。

 今度は、鍋の画像が映写された。

「鍋の種類は用途、形状、材質のすべてが、フライパン以上に多い。そこで、家庭料理で使う基本的なものを伝えておきたい」と、先生は話しながら、フェルトペンを握り板書した。

 雪平鍋=煮物や汁物に手軽に使える。ステンレス鍋=葉菜やパスタを茹でるのに使う。煮物、揚げ物にも必須。土鍋=鍋料理には欠かせない。ホーロー鍋=煮物やジャムづくりなどに最適。

「家庭料理では、この四つの鍋は必要だ」と先生は、ホワイトボードを示しながら、スクリーンの画像にも目を向けた。

「私は九州の大分から、単身赴任で神戸のアパートに一人で住んでいます。手の込んだ料理は、作れないです。先生ならどの鍋がおすすめですか?」と、サラリーマンが質問した。

「どれか一つというのなら、雪平鍋だが……。一人分でも、パスタを茹でるのなら、ステンレス鍋も必要になる」

 先生は言い終わると、テキストを片手で手に取り皆の前に掲げて「今日の講義で伝えた内容以外にも大事なポイントはある。わしが夜なべ仕事で作成したテキストを読んで、他の調理器具については覚えておいてほしい。残り時間は十分程度ある。何か質問はないかな? 要望でも良いが……」

 周囲の誰も反応がなかったので、僕は「あのう、一つだけ良いですか」と尋ねた。

「ああ良いよ、一つ、二つと言わず、三つでも四つでも……」

「調理器具とは、違うと思うのですが……、お箸や茶碗はどんなものを選べば良いのですか?」

「それは、君に任せる。どれでも良い」先生は素っ気なく答えた。

 教室では、どっと笑い声が響いた。僕は、恥ずかしくなり自分の頬が火照るのを感じた。

 鈴奈はそんな僕の様子を見かねたかのように、小さく可愛らしく手を上げた。

「たとえば……、計量カップのようなものは、何か選ぶ基準があるのでしょうか?」

「今の春野さんの質問は、的を射ているよ。計量カップは、透明で耐熱性に優れたものを選ぶこと。それと、二百ミリリットル以上の容量のものが良い。そういうものなら、レンジにかけることも、調理器具としても使える」

「計量スプーンは、どうでしょう?」

「そうだな。大さじと小さじの二本用意しておくと良い。ちなみに小さじ三杯が大さじ一杯と同じだ」

 初日の講義は、僕にとっては面白かった。料理にズブの素人にとっては、基礎の基礎から学べるのが有難かった。

 それに、最大の収穫は春野鈴奈と仲良くなれそうな点にある。講義が終わり、生徒全員が帰路に就いた。生徒は、地元の三宮に住む者、神戸市内の他の地区に住む者ばかりだが、バイクやクルマで通う者もいた。公共交通機関は、市バス、阪神、阪急、JRと分散し、僕と同じ阪神電車で通う者は七人いた。

 僕は阪神電鉄「大石駅」で下車する。春野鈴奈は隣の「新在家駅」だ。つまり、阪神電車で通う者のうち、各駅停車は僕と鈴奈の二人だけだった。

 帰りの電車の中で、鈴奈は僕の目を見ながら「家も近くだし、行き帰りは一緒に通わない?」と提案した。

「うん、勿論OKだよ。鈴奈ちゃんの希望ならね」僕は、照れながら答えた。

「私も、料理は詳しくないし、お互いに情報交換しましょう」

 女神は他ならぬ、僕と共にいて、僕のために微笑んでいた。

 僕は、もう孤独ではなかった。先生が、時間があれば読んでおけと勧めていた料理本や栄養学に関連する本を駅前の書店で、何冊も買い込んだが、書棚に並べると森の樹木のように活き活きと輝いて見えた。

  

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