闇祓いの詩~やさぐれシンデレラと大正浪漫な呪術師~

桂真琴

花の章 ~願いは咲き染めし花の如く

〇第一話 鬼は黄昏時に闇呪文を唱える


 雛子ひなこは走った。

 こんなに全力で走るのは小学生以来だ。息が上がる。足音を刻む。ショートボブの髪が汗で顔に貼りつく。それを手で振り払いひたすら走る。

 髪も大きな目も、黄昏色に似た薄い色。色素の薄さも色の白さも母に似た。雛子が唯一、人に自慢できること。


 目の前の黒猫はぐんぐんアスファルトを蹴って走る。その勢いに引かれるように雛子も走った。走り続けた。


 金色の夕日に染まる黄昏時たそがれどきの住宅街。地獄の入り口を照らす斜陽のようなオレンジ色の中、追いつ追われつする一人と一匹の影が長く伸びて、アスファルトに映る。

 雛子の息遣いきづかいが響くほど、住宅街は静まり返っていた。迷路のような道には人っ子一人通らない。黄金色の路地には遮るものとてない。家々の白壁もアスファルトも電柱も、すべてが黄昏色に染まっている。同じ場所をぐるぐると回っているような奇妙な感覚が雛子を捉えていた。

 

 迷宮にも似た住宅街の中、どれくらい走っただろう。

 息が上がすぎて肺が痛い。黒い影を見失いそうになり思わず吐き出すように叫ぶ。


「お願い! 待って! クロ!」


 黒猫は立ち止まってこちらを見る。

 その口には白い紙が揺れていた。まるで獲物の魚のように。


「その紙を返して! クロ!」


 駆け寄り、しかしあと少しで届く――というところで黒猫はまた走り出した。


(ぜったい返してもらわないと!)


 黒猫は坂を駆けのぼり、雛子もそれを追いかける。坂の上から黄昏色が目を刺して、雛子は大きな双眸をすがめた。



――こと発端ほったんは、数十分前。



◇◇◇



「このっ、おん知らず!」


 痛い音と同時に、視界に火花が散った。

 同時に雛子はよろめいて玄関扉げんかんとびらにぶつかった。


 叔母が手を上げるのはいつのもこと。今日は玄関扉を閉めたと同時に、いきなり平手ひらてが飛んできた。


 背負ったリュックがクッションになり、頭部強打とうぶきょうだはまぬがれた。しかし前髪を十字にめたヘアピンがずれてしまう。


 ヘアピンを止め直し、雛子はぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい、叔母さん」


 叔母がなぜ怒っているのかはわからない。が、とりあえずあやまる。

 謝れば、暴力が止むから。


 実際、雛子の計算通りに叔母は出しかけた手を引っこめた。ああよかった、と雛子は胸をなでおろす。


(今月の学費と生活費は納めたし、風呂掃除は昨日の夜にやったし、他には……)

 叔母の怒りの原因になりそうなものを探して記憶を引っかき回していると、叔母が雛子に何かをたたきつけた。


「それは何なの?!」


 雛子はひりつく頬をおさえつつ、ローファーの上に落ちた紙を拾う。


「ええっと……これは進路希望調査票、です」


(ペン立ての中に隠したやつだ)


 雛子に与えられたスペースは、階段下の納戸なんどぼう有名魔法使いの少年もびっくりするくらいせまい。一じょうほどの空間に折りたたみ式の小さなローテーブルとたたんだ布団が置いてあるだけ。


 何かをかくす場所も無い上、叔母はよく雛子の私物を荒らす。

 隠した物でも見られてしまうのがつねだった。


「就職希望とか勝手に決めてんじゃないわよっ」

 叔母はつばを飛ばして怒鳴り散らす。

 もう一度顔を叩かれかねないので、雛子はうつむいてセーラー服のリボンの先を見ていた。


そして、心の中で首をかしげた。


(なんで? むしろ喜ばれていいはずだけど??)

 雛子はこの家の厄介者やっかいものだ。その雛子が出ていくことは、叔母たちにとって喜ばしいことのはず。


 雛子は顔を上げ、笑顔で武装した。人は微笑んでいる相手には攻撃しにくいものだ。


「働いて自立すれば、叔母さんや叔父さんに迷惑かけることもないですし。寮がある職場なら、このおうちにご厄介になることもないし――」


「なに寝ぼけたこと言ってんのよ」


 叔母が鼻で笑った。


「あんたは、ずっとこの家にいるのよ」

「へ?」


 雛子は耳を疑った。七歳でこの家に来て十年、出ていけと言われたことはあるが家にいろと言われたことはない。


「ずっとずーっと、あんたはこの家にいて、働いて稼いでくるの」


 叔母はにい、と笑った。闇に潜む鬼のように。


「この先、うちの子たちの大学進学にお金がかかるし、私たち夫婦の老後もある。やっとクズのあんたが役に立つときがきたんだもの、存分に働いてもらわないとねえ」


(……そういえば)


 雛子は思い出す。このところ東欧とうおう方面で勃発ぼっぱつした戦争の影響で、叔父の会社は業績が悪化し、給料が下がったと叔母が愚痴をこぼしていたことを。

 しかし、叔母は働きに出ることはなく、従妹たちは私立の学校に通っている。


 つまり足りなくなった家計の埋め合わせを、雛子にやれということだ。


「出ていくことは許さない。――姉さんが死んだ後、引き取ってやった恩をまさか忘れたとは言わないわよねえ?」


 叔母のねばりつくような視線が雛子をとらえた。


(しまった。闇呪文やみじゅもん……!)


「覚えてるわよねえ? 真っ暗な家の中であんたは泣いていたわねえ」


――闇呪文、と雛子が称している、叔母の昔語りだ。


 これが始まると、雛子はへびにらまれたかえるのように身動きが取れなくなってしまう。

 心拍数が上がる。呼吸が早くなる。血の気が引き、体中からどっと汗がき出す。


「やめてくださいっわかりましたから!」


 思わず雛子は叫ぶ。叔母は、にたあ、と口のを上げた。


「よろしい。わかったら夕飯の買い物に行ってきて。あ、そうそう、ばつとして、お金はあんたの財布から出してちょうだい」

「そんな! 今月分の生活費はもう納めて――」

「うるさいっ。罰だって言ってんでしょ! 家畜が口答えするなっ」


 叔母がいているスリッパが飛んできた。頭に当たって、十字に留めたヘアピンがまたもやずれる。


「……ごめんなさい、叔母さん」

 ヘアピンを直して、雛子は玄関を出た。


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