9日目 雨 その1 日和

 雨が雲よりこぼれ落ち、地表を濡らしている。窓外の建物の輪郭がぼやけ、背後に広が

る山々の稜線と一体化するのをまどろみの中、眺めていた。

 窓の表面に貼りついた雨粒が生まれたばかりの生き物のようにそろそろと滑りながら近くの仲間と融合、すうっと流れる。

 雨が降るたびに幾度となく見てきた光景ではあったけど、ふと見つめてしまうことがあった。雨粒がまるで意志を持ったように動いているからだろうか。何の気なしに窓の表面に触れた手を水滴が濡らす。背後でかちゃりと音がした。

「あら、おはよう日和。今起きたの」

 お母さんが立っていた。

「うん。おはよ、お母さん」

 お母さんはゆっくりとした足取りで私のそばまで来る。片手に体温計を持っているのに、いつも通りを額に添えてくる。

「うーん、まだ熱があるみたいね」

 体温計をわたしに渡すと自分の額にも掌を添える。

「そうみたい…」

 鼻声で応えてアナログ式体温計を見つめる。 

 顔と前足だけをキャップから覗かせる黒い子猫が装飾された体温計だ。 キャップの上部がポケットのデザインになっていて、 キャップをすると子猫がちょうど半身だけ覗かせる形になる。幼少時代、しょっちゅう風邪をひいていた私のために、お母さんが購入してきたものだった。安物の体温計の割に思いの他丈夫で、他のデジタル体温計たちが早々とリタイアしてゆく中、この子だけはずっと生き続けていた。だからこの子猫は本当ならけっこうなお年だったりする。

 わたしが検温している間、お母さんは氷枕を交換していた。

「学校を休む連絡しておくわね」

 それが体温計を見たお母さんの第一声だった。黙って頷き、布団の横にあるサイドボードに置かれた目覚まし時計を見る。

「ごはん、おかゆを用意してるけど、食べる?」

 その言葉にわたしはどきりとした。ちょうどお腹が空いたと思っていたところだった。

「う、うん。た、食べたい」

 どもりながら返事をすると、母親はうれしそうに微笑み部屋を後にした。

 お母さんがおかゆを用意している間に寝汗をかいた衣類を手早く着替え、横になると再び窓の外を見ていた。


 そういえば、お母さんはあの日以来、わたしが風邪をひいたとき必ず玉子がゆを作ってくれているなぁと、食べながら昔のことを思い出していた。

 幼い頃のわたしは風邪をひくと決まって食欲を失い、そのせいで何日も寝込むことが多かった。お母さんはご飯以外にもうどんを作ってくれたり、リンゴをむいてくれたりもしたけど、 わたしは手をつけようとはしなかった。お母さんはそれでもいろいろなものをわたしに食べさせようと試みた。

 そうして最後にわたしの前に出てきたのが、この玉子がゆだった。

 白い湯気を立ち昇らせ、室内灯を反射させて淡く光るそれを見たとき、私の中でどこかほっとするものがあった。私は無言でスプーンを手に取った。

 風邪のとき、おかゆを食べると気持ちがなんだかほかほかしてくる。温かい食べ物を食べた

からというだけではなく、うまくはいえないけど、胸の中央の当たりにじんわりと染み込む

ような温かさを感じる。

 それはまるで誰かに背中をさすってもらっているみたいで、食べているとやさしい気持ちになれた。

 おかゆを食べるとき、お母さんは猫舌のわたしがやけどをしないよう、息を吹きかけて冷ましていたのを覚えている。

 わたしはそれを嫌がっていたけど、本当はただ照れくさかっただけだった。

 

 おかゆをスプーンですくうたび、口でふうっと息を吹きかけながら食べる。

 お母さんはわたしのそんな様子を終始ニコニコしながら見ていた。それが恥ずかしくて、急いで食べようとして、何度も目を白黒させる羽目になった。

「じゃあ、今日はゆっくり休むのよ」

 おかゆの器を手にしたお母さんはそういって部屋を出て行った。

 わたしは横になると天井を見上げる。天井の一角にはクモの巣が張ってあり、小さな虫たちの残骸があった。主であるクモはどこかに外出中のようだった。少しだけ探して見たが、でもすぐにあきらめて、母親が内職でするミシンの音を子守歌代わりにして私は眠りに落ちていった。

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