5日目 6時限目 放課後 智香
「あ……」
ノートの上に置いてあった消しゴムをふとした拍子に落とした。
机の脇に手をついて、しゃがみこむと消しゴムの
角が欠け、少し丸みを帯びた消しゴムは軽快に弾み右斜め前の席の真下で止まった。
私が座席を引き立ち上がろうとすると…――とんとん。 控えめな音で机を叩かれる。
見ると瀬川が前を向きながら頬を染めている。 私は一度、先生の様子を確認、口もとに手を添えて小声でたずねる。
「何?」
「あの…その…えっと……」
ここでいつもの一呼吸をして、ポケットに手を入れる。慣れてくればその仕草もさほど気にならない。
「消しゴム、わたし、取るよ」
驚いて瀬川を見つめる。 すぐに瀬川が視線を逸らすと俯きがちに私の返事を待つ。
「別にいいよ。 落としたの、私だし。 それに……」
そこでハッとして口をつぐむ。
それに、あんたと私って別に仲が良いわけでもないじゃん? そう、思ったんだ。
横目で瀬川の様子をそっと
瀬川は目を閉じ、片手をスカートのポケットに突っ込んでいた。そうしてこちらをちらっと見つめ、控えめな笑顔を見せ、すぐに頬を染める。
その笑顔は、よく見るとふるふると口の端が震えていて、ぎこちないものだったけど、彼女なりの精一杯だったのだろう。その笑みは、私にどこかもの悲しさを感じさせた。笑っているはずなのに、まるで泣いているみたい……。
そんな私の想いを知る由もなく、彼女は笑顔を浮かべたまま、もう一度静かに言った。
「わたしに、取らせて」
黙って、頷いた。
「ほんと、ごめん! 今日は部活で合奏があるから早く行って準備しないといけないんだ」
そう言ってクラスメイトが両手を合わせて拝むように頭を下げた。
「いいよ。今日の掃除、私がやっとくから」
「ありがとう、朝倉さん」
クラスメイトは再度頭を下げ、急ぎ足で教室を後にした。
その背中を見送りながら、来週の掃除替わるねとは言われなかったなぁと、どうでもいいことを思った。
「ねぇ、ともっちって、あの子と仲良かったっけ?」
前の席で黙って聞いていた由花が小首を傾げながらたずねてくる。
「いや、あいさつはするけど、それ以外には何も。ただのクラスメイトだよ」
私は荷物をカバンに突っ込みながら帰り支度をしていると由花が私の肩をつんつんとした。
「ちょっといい? ともっち……」
周囲の様子を確認しながら由花が教室の角に向かう。
ついて行くと由花はロもとに掌を添え、内緒話をするよう示す。黙って従った。
「あの子、吹奏楽もう1ヶ月前に辞めてるよ」「うん」
由花が一拍おいて続ける。
「じゃあ、隣のクラスの男子と付き合い始めたのも?」
「旭から前に聞いたから……」
みんな、知ってるよ。
「そっかぁ」
由花がため息をつき、内緒話は終わった。
クラスでは掃除当番がほうきを手に掃除を始めている。担任は職員会議があるからと告げて、さっさと職員室に戻ってしまったため、掃除当番の女子たちはさっそくおしゃべりに夢中になっている。男子生徒たちはほうきをバットに、丸めたぞうきんをボール代わりにして野球を始めている。そういう行動パターンは中学生の頃と変わらないなぁとぼんやりと思った。
そんな様子を無感情に眺めていると由花が小さな声で言った。
「てゆーか、あの子ってけっこう調子いくない? 普段はろくに話しかけもしないクセして、困ったときにだけ頼ってくるなんてさ」
どうやらまだ彼女の中では話が続いていたらしい。
「まあ、ね」
でも、そういう人ってきっとこれからもたくさん出会う。だから、それについていちいち文句を言ったってしょうがないじゃん。
そう思ったけど、わたしはただ小さな欠伸をしただけだった。時計を見るとさすがに掃除場所に向かわないとまずい頃合いだ。話を切り上げてさっさと移動しよう。
「それよりさ、 ゆっこ、部活いいの? 写真部、今日あるんでしょ?」
由花の手首からぶら下がっている小さな袋を人差し指でちょいちょいとつつく。
中には今年の春休み、家族で都内に買い物に出かけたときに購入したデジカメが入っている。 最新の型より数ランク下のもので、
たいな店員に勧められ、気が付いときには手に店のロゴが入った手提げ袋を持ってお買い上げしていたらしい。
高価な買い物をそんな適当に決めてちゃっていいの?とも思ったけど本人がご満悦だったので「よかったね」とだけ伝えた。
「部活というか、同好会だけどね」
手首を自分の目線の高さに上げ、由花が緩く訂正する。
「そんなこといわれても帰宅部な私には部活と同好会の違いなんかさっぱりなんだけど」
「活動内容、時期、時間、みーんな部長の気まぐれ。部員もきまぐれ参加。名簿上だけの幽霊部員は数知れず。顧問は誰も知りません。えっへん。これが我が写真同好会」
それはもはや組織として壊滅状態にあるのでは? ま、本人が良ければいいけどね。
「じゃ、ともっち、また明日ね!」
「うん、また明日」
彼女が教室を後にした廊下から「にへへ」という声が聞こえて来たことについてはいつも
のことなのでスルーしておく。
私が席に戻ると隣の席でイスの引かれる音がする。
彼女を緊張させないように前にある黒板を見ながら静かに言った。
「じゃあ行こうか、瀬川さん」
リノリウムの廊下にふたつの足音があった。
ひとつは正確に、ひとつは不正確にテンポを刻む。私はときどき振り返り、ちゃんと相手がついて来ているのかを確認する。そのたびに相手はびくりとして立ち止まる。
私が前を向き歩き出すと、しばらくして背後から足音が微かに聞こえ出す。まあ、彼女らしいといえば彼女らしい。
瀬川の列は図書室の掃除当番だった。私の列は来週なんだけど、さっきクラスメイトにヘルプを頼まれた。
転校したばかりの彼女のことだ、きっと図書室の場所がわからず困ってることだろう。
だから親切な私が案内してあげる――というのはもちろん建前で、単純に昼間の消しゴムの借りをさっさと返しておこうと、思っただけだった。
「あの…その…ご、ごめんなさい…」
いきなり謝られて、驚いて振り向く。
「わたし何か案内して、迷惑だよね……」
ふむ。私は歩きながら少し考え込み、彼女のセリフと今の行動を照らし合わせ、すぐに意味を理解した。
隣同士で歩くと私が瀬川と友達だと思われる。それが私には迷惑だろうと、彼女なりに気を利かして一定の距離をとりながら後を付いて来る、というわけか。
何か、間違ってるよ、それ。うまく説明できないけどさ、間違ってる。ていうか、何かムカツクんですけど。
気が付くと私は瀬川の前に立っていた。
表情を強張らせたまま固まっている瀬川の手を掴み、さっさと歩き出す。
あーあ、何やってんだろ、私。
歩き出してすぐにそんなこころの声が聞こえたけど、そんなのは無視してやった。
図書室に到着すると案の定、掃除は始まっていた。
「あれ、日和ちゃん?」
日和ちゃん······って、ああ、瀬川のことか。それにしても、相変わらずだなここの司書。
声のした方に振り向くとベージュのエプロンをした女性が笑顔で佇んでいた。
本当は三十代半ばらしいけど(旭情報)、二十代前半でも十分に通用しそうだった。
「あ、古河さん。 こ、こんにちは。あの、わたしたちここの掃除当番で、それで……」
瀬川が女性の前に進み出る。照れながらもほとんどどもることなく、簡潔に用件を伝え
ている。意外だ、あの瀬川が。
「ああ、そうだったんだ。とはいえ、もうほとんど掃除する時間ないけどね」
「あ…その……」
すかさず間に割って入り謝る。
「すみません。私が準備をするまで彼女に待っていてもらったんです」
ま、事実とは多少異なるけど、あくまで責任は私にある。
「そう? ま、いいよいいよ。学校の掃除なんておしゃべりしながらささっとやる程度のもんだし」
一般学生の視点で見ると
「そうだな、じゃあふたりにはまず、返却された本でも片付けてもらおうかな」
『はい』
互いに声が重なり、私たちが顔を見合わせる中、司書が笑っていた。
掃除が終わり、当番の生徒たちが図書室を退室してゆく。
私も帰ろうとして 瀬川さんを探すと、彼女は柱に背中を軽く寄りかけながら本を読んでいた。
「瀬川さ~ん、帰らないの?」
ウサギくらいに臆病な彼女を驚かさないよう、数歩の距離から声をかけてみる。
が、まったくもって無反応。一歩近付く。
「瀬川さんってば、おーい」
やはり、無言のまま本から視線を上げようとしない。
司書の親しげな様子から、本人は何度も来ているらしいけど、案内した手前、このまま放って帰るわけにはいかないし、正門くらいまでは付き合ってあげようと思ってるのに。
瀬川の背後に立つ。
「瀬川さん、早く帰ろうよ」
とたん、背中が電撃を受けたようにびくんと震え、本を落とした。瀬川がおそるおそる、こちらを振り返る。私の姿を認めると胸に手をやり、一度深呼吸をしてから本を拾った。
「もう、さっきからずっと呼んでるのに、瀬川さん本に夢中で全然聞いてないんだもの」
「あ…そ、そうだったんだ。ご、ごめん」
「それで、その本借りたいの?」
瀬川がこくんと頷く。
「じゃあそれ、さっさと借りて帰ろうよ。案内するっていったし、昇降口までは責任持って一緒に行くからさ」
「え? で、でも朝倉さんのお友達は?」
「ああ、ゆっこは今日部活…じゃなくて同好会だからいいの」
「で、でも…わたし、なんか……」
ああ、もう面倒くさいっ!
「いいから、早く行くよ」
私は強引に話を切り上げ、貸し出しのカウンターへ向かう。
「あ、あの、朝倉さん」
「今度は何?」
振り向かずに応じる。
「えっと…この本、借りられないの」
「へ?」
足を止め、瀬川を振り返る。
彼女は俯いて申し訳なさそうな声で言った。
「わたし、今、別に本をいくつか借りてるから。それが読み終わらないと借りられないんだ」
「そっか······じゃ、その本私に貸して」
「え? う、うん…」
瀬川から本を受け取ると、そのままカウンターまで行き、本を乗せた。
「古河さん、この本貸りたいんだけど」
「はいはい、ちょっと待ってね」
古河さんが読みかけの本にしおりを挟みカウンターの隅に置くと、さっそく貸出しの手配をする。この学校では未だに貸出しカードを使って管理している。生徒がカードに必要事項を記入し、手渡す。
古河さんは本の最後のページに張ってある日付シートに返却日を示す判子を押し貸出しは完了する。
「ほい、どうぞ」
古河さんが貸出しカードを木製の引き出しに入れながら本を手渡してくれる。
「あ、それとこの本の返却は瀬川さんにお願いしてるから」
「うん、わかった」
瀬川が呆気に取られているのに古河さんは特に何も言わずに
なるほどね。彼女が生徒たちに人気がある一端を垣間見た気がした。
「ありがとうございます。ほら、瀬川さん帰ろうよ」
そのまま図書室を出る。瀬川がぼけっとして、でもすぐに慌てて付いてくる。
図書室を出たところで彼女の胸に本を差し出した。
「はい、これ」
「え?」
「確か期限は二週間だったよね? ま、それまでに図書室に返しといてよね」
瀬川が黙って頷くのを確認し、歩き出す。
「あ、あの…その…えっと……」
背後で声を受けながら階段を下り始める。
「あの、朝倉さん! あ、ありがとうっ!!」
予想外の大声に階段を踏み外しそうになり、
心音が早鐘を打つのを感じながら私は瀬川に振り返った。
そこには――――瀬川の笑顔があった。
頬を桜色に染めて、口端はよく見なければわからない程度、ほのかに上がっている。
瞳はどこまでも澄んでいて、ときおり思い出したように何かが煌めいていた。
その瞳は今まで私が見たことの無い、光の
どれくらいの時間が経っただろう。やがて瀬川が俯いてしまい、私は顔を下に向けると、自分の上履きにある「朝倉」という文字をじっと見つめていた。
しばらくして、瀬川の控えめな声音が降ってきた。
「あの…その…か、帰ろう、朝倉さん」
帰宅すると着替えもせずにラジオで適当な局にチューニングし、ぼんやりと夕空を眺めた。
あかね色の空も、窓から吹き込み髪を散らす風も、ブラウスに染みた汗のにおいも、耳元に届くラジオの話し声も、何もかもが、いつもと変わらずに私の周囲に満ちていた。
私のこころだけが、仲間はずれだった……。
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