第9話 先生との、いざこざ
翌朝。
家から10分ほど歩いて、電車に乗る。朝ラッシュ時に重なっていたせいか、電車は吊り革が半分埋まるくらいに人が多い。
俺も、車端部の席の前で、外の景色を見ながら吊革につかまっている。
そして、途中駅にたどり着いてドアが開き、今日の講義のことについて考えていた時に事件は起こった。
ガタゴトと電車に揺られながら、明らかに人の叫び声が聞こえる。
「何ですか? やめてください」
「うるっせぇぇ。今俺の肩に当たったろう」
聞こえたのは、悲鳴をあげるような女性の声と、どなるような口調で叫ぶ、男性の声。
何だろうかと思い人ごみの中を音のする前方へと進んでいく。
車両の真ん中の方で、その原因は起こっていた。
「わ、私何もしてないですから──本当です」
「ごまがずんじゃねぇぇっ。この俺様に因縁つけやがって!」
朝からビール瓶を持っていて、動きも酔っぱらっているかのようにふらふらしている。
恐らく、酒が入っているのだろう。
あの女の人──見たことがある。
困惑しきった表情で酔っぱらいから距離をとっている。
黒髪で、眼鏡をかけていてすらっとした女の人。
清楚なお姉さんという印象。
大学の講師の人だ。実際に願書を出しに行ったからわかる。確か──花山先生だっけ。
「何ですか? やめてください。私、何もしないですよ──」
先生は嫌そうな表情でこの場から逃げようとしている。しかし、酔っぱらいの人は先生のシャツを引っ張って離さない。周囲の人達は、我関せずといった感じで申し訳なさそうな表情を浮かべながら明らかに2人を避けていた。
「いいじゃねぇっか。こっちこいよぉ」
そう叫んだ酔っぱらいに、先生は抵抗しようとするが、力では厳しいようで先生の身体が引っ張られドアにたたきつけられてしまう。
仕方がない。慌てて先生のもとに駆け寄る。ちょっと怖いという感情はあるが、仕方がない。
先生が感じている恐怖は、こんなものじゃないはずじゃない──。
「やめてください。何があったんですか?」
先生の間に立って話すが、酔っぱらいはさらに俺に絡んでくる。
「おめぇみてぇなクソガキにゃあかんけぇねぇ。つべこべ言ってるとてめぇもぶっ飛ばすぞ!」
そう叫んだ酔っぱらいが、俺の方に向かってきた。先生がいる手前、よけることも出来ない。
そのまま突き飛ばされた後、後ろに吹き飛ばされ、背中にパイプがぶつかる。
「この俺様を不快にさせやがって、ぶっ飛ばしてやるよ、このガキ!」
そう叫んで酔っぱらいがこっちへと向かおうと──したその時。
「お客様、どうされましたか?」
ホームからやってきた警備の人が酔っぱらいを取り押さえる。酔っぱらいは何とかもがいて逃れようとするが、警備員の人の抑え方がうまいのか、酔っぱらいはそのまま警備の人にとらえられ、ホームの方へと行ってしまった。
何とか助かった。突き飛ばされたときはどうなるのかと思って怖かった。ほっと胸をなでおろす。
そうだ、先生だ。すぐに後ろを振り向く。先生は、電車の壁に座り込んでいた。
優しく手を出す。肩は震え、怯えていた。俺以上に恐怖を感じていたのだろう。
「大丈夫ですか?」
「恵一君──」
はっとした表情でそうつぶく。ほんのりと、顔が赤い。
熱でもあるのかな?
先生は俺から視線を逸らすと、言葉をつっかえさせながら言葉を返してくる。
「その──、あ、ありがとね。本当に、嬉しいわ」
やはり、襲われたということもあってまだ動揺しているのだろうか──。
この後の講義とか、大丈夫かな?
すると、警備の服を着たさっきとは違う人がやってきた。
さっきの人、事情聴取を受けていらしく、参考人として来てほしいとのことだ。
「私は──大丈夫ですが、先生は?」
「事情聴取──として同行できないか聞かれたんだけど、どうしようかしら……」
「私は、本当なら講義なんですけど、どうしてこんなことになったのか気になるんで、行ってみようかと思います」
まあ、元々早めに行ってみたわけだし、ちょっとくらいならいいか。
「恵一君が行くなら、私も行くわ。私も、講義までには時間があるし」
そして、先生が大学に遅れの連絡をした後、俺たちは事情聴取へ。
酔っぱらいの人は、取り押さえられた後正気を取り戻したようで、落ち着いた様子で答えてくれた。
職を失い、朝から飲んだくれた挙句そのストレスのはけ口に暴れまわっていたらしい。
酔っぱらいは正気を取り戻し、「申し訳ないことをした」と頭を下げてきた。
俺たちは──何とも言えない結果に「これからは気を付けてくださいね」としか言えなかった。
講義の時間が近いことを告げると、警備の人は俺たちを解放させてくれた。
早足で再びホームへ移動し、列車の中。
気まずい雰囲気の中、話しかける。
「えーと、花山先生──」
「さ、さ、咲織って呼んで。お願い」
先生はおどおどしながら、両手を合わせて頼んできた。それなら、仕方がないか
「咲織先生、怖くなかったですか?」
「恵一君──」
「何でしょうか?」
「今日は、助けてくれて本当にうれしかった。その、ありがとうね。このお礼は、いつかどこかで絶対にするわ」
「いえいえ、こちらこそ──別に、お礼が欲しくて助けたわけじゃないですから──」
名前で呼ぶとなると──やはり意識してしまう。ちょっと恥ずかしい。
「すいません。せめて人前では苗字で呼ばせてください」
「まあ、それくらいならいいわ」
先生は、ちょっと嫌そうな顔をした。罪悪感を感じるが、さすがに人前で名前で言うのは抵抗がある。これが妥協点という感じだ。
そんなことを考えていると、列車到着の放送が流れる。
「まもなく、快速急行が参ります」
まずい、これを逃すと講義に間に合わなくなる。
「すいません。もう大学に行きます」
「そうね。私も準備があるから行かなくちゃ」
それから早足でホームへと移動し、列車に乗る。
先生の隣で吊り革につかまりながら考える。まさか、こんなもめごとに巻き込まれるとは──。ついてないというか。
でも、先生のピンチを助けられて何よりだ。先生がほっとした顔を見れて、とてもうれしい。
そんなことを考えていると、あっという間に最寄り駅にたどり着いた。
いろいろあったけど、今日も一日頑張ろう。
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