もし今日雨が降るならば、そういうことだろう
久芝
曇りのち雨の、日
最初から膝の存在などなかったような。
目が閉じられていく。
音がなくなっていく。
空から頬に小さな粒が落ちてくる。
礼拝堂のパイプオルガンから静謐な曲が流れてくるのは、毎週日曜日の朝早い時間だった。その音を目覚まし代わりに、日曜日は心地よく起きることが出来ていた。
私はクリスチャンではないが、そこから聞こえてくる音も雰囲気も好きで、その場所自体がとにかく好きだ。
夏の暑い時、ここから流れてくる風がなぜか涼しかった。
風に惹かれて近寄っていく。
礼拝堂の向こう側は海だ。
開け放たれたステンドグラス入りの窓から海風が入り、通り抜けていく。
誰もいない空間に音だけが漂っていた。
パイプオルガンが自動演奏モードになっているようだ。入り口には、「ご自由にお入りください」と張り紙がしてあった。所々、茶色く変色し、四隅が擦れていた。何度もその部分だけにセロハンテープを張ったりしていたように見える。粗末な紙に合わない達筆な字で書かれた字からは、厳かな雰囲気が感じ取れる。
風と音楽に誘われた私は、礼拝堂の中に吸い込まれていった。
厚い雲が広がっている。
傘を持って行くかどうかは天気予報次で決めることにしようと考えていた。ただ、予報の降水確率は「40%」と判断を悩ませるラインである。最悪、コンビニで買えばいいが、六百円も払いたくないのが正直なところだ。
今日という日が快晴でなくて良かった。実行する気持ちが変わってしまう恐れがあった。どう変わるのかといえば、「殺人」を実行する気持ちが変わってしまう恐れだ。
天気の良し悪しは心を惑わし、判断を鈍らせる。晴れていれば気分が良く、雨や曇りは塞ぎがちになってしまう傾向が経験上ありえたことだった。
全ては天気に左右されている。
あと、占いにも支配されている。今日の占いは一位なので実行には都合が良い。朝の情報番組で、女子アナも、「今日は大胆に行動をするとツキが回ってくるかもしれません。ラッキーアイテムは、銀の尖ったもの。午後から活動するのがオススメ。それでは、いってらっしゃい」
今手にしているのは、銀のナイフ。刃渡り一〇センチ未満。懐やポケットに入れておくにはちょうど良い。これ以上長くなると自分に刺さってしまう。これであいつを後ろから一突きする。やつが振り返る前に逃げれば問題ないだろう。振り返らせないように深く刺しておけばよい。刺されたあいつは、身に覚えが無いから刺されたことに動揺もするだろう。あの辺りは人通りが少ないから、ちゃんとやればバレる事はない。
半年以上前からやつの行動パターンは調べ上げていた。興信所か私立探偵にでも頼みたがったが、刺された事件が公になればすぐに警察が嗅ぎ付けて、捕まるのが想像できた。地方の警察だってそこまで馬鹿ではない。
自力で解決しなければならない。
慌てる必要はない。しっかり奴のことを調べてきたし、心構えだって出来ている。
「よし」
気合ほどではないが、ひと区切りつける合図を自然と発していた。
玄関を出て道を歩き始める。
歩きながら、なんであいつを殺すのか考える。散々考えてきた理由をもう一度考えると、あの言葉しか浮かんでこなかった。
「破壊」
モノを壊されたなら買い換えればよい。お金は掛かるがそれだけで済む。そうではないんだ。そうじゃないんだ。この世界で結構大事なこと。
「信頼」
普段、そんなにこのことを意識はしない。でも、たとえば自分が尊敬している人との、関係性は大事だ。それをたった一人の愚かな人間の言動で壊される。時間で言えば五秒もかからないで壊れてしまう。築き上げる時間は何十年も掛かったのに、もう戻れない。
やつは私を嵌めた。そして奴がその人と信頼関係を持ち始めた。
私は考えた。二人に相応しい地獄はなにかと。二人とも殺めようと思ったが、冷静に考えてやつだけ死んでもらうことにした。
後ろから刺す時、「なあ、何で嵌めた?」と聞きたい。やつにも言い分はあるだろう。理由を聴いた上で奴には納得して死んでもらう。
納得しなくても死んでもらう。
納得した殺しかた……
納得した刺されかた……
空の雲が一段と黒くなっていった。
高ぶった気持ちの中にも俯瞰できる余裕があるのは、しっかり準備してきた証拠だ。
一旦立ち止まり、生まれてきてから一番深い深呼吸をして目を閉じる。
目を開ける。
両手に重たそうな荷物を持って歩いているばあさんがいた。別にそういう柄でもないんだけど、あまりにも重そうだから手伝おうかなと思っているうちに、声を出すタイミングを失ったので通り過ぎた。気にしなければ良いのに気になってしまう。なぜかと考えた時に、おばあちゃん子だから気になってしまうのではないかと、だったらもう一回戻って手伝おうと、踵を返した。
「それ持ちますよ」と突然声を掛けたので、「えっ」とした表情で困っていたが、「あっ、どうもね」と返事を私に返した。
彼女からビニール袋を二つ預かり逃げようとして、「冗談ですよ」と言っても冗談が通じる距離感ではないのでやらなかった。
袋の中は大根とかキャベツとかトマトとか、野菜が狭そうに詰めれられていた。
「今日は獲れたての野菜が、近くの道の駅で安売りしてたから結構買っちゃってね。車で行けばよかったわね、こんなに買うんだったら」
確かに一人で食べるには多いし、夫と食べるにも多い量と数だ。
「多い分は、近所の人と分けて食べようと思ってね。老夫婦二人じゃこんなにはねえ」
「ん、確かにそうですよね」
おばあさんに言いたかった。会って間もない人間に、老夫婦だけで暮らしているなんて教えない方がいいと。仮に、私が詐欺グループのメンバーならあなたをすぐにターゲットにすると教えてやらないといけない。
「あのですね、会って間もない人間に……」
私が話している途中で、彼女はさっさと歩いて行ってしまっていた。
「この歩道橋を渡った向こう側に家があるから、本当助かります。ありがとうございます」
「あっ、いえ」
とりあえず渡って、目的の場所に向かわないといけないと、早歩きをして階段を歩いたが、彼女はゆっくりとしたペースでしか歩けないので結局彼女に合わせるしかなかった。
今日は夜何を食べるのか、あなたはこれからどこに行くのか、天気はイマイチだねとかの話をしながら歩道橋を渡った。
「どうもありがとうね、お兄さん。お世話になっちゃって」
「いえ、大丈夫です」と、荷物を彼女に返した。荷物を受け取った彼女は一旦荷物を下に置き、手提げバックから財布を取り出し、何枚かのお札を取り出した。
「少ないけど、これでなんか美味しいもの食べて。若いんだから」
私の掌に押し込められるようにしわくしゃのお札が丸まっていた。
「いや、お礼なんていいですよ。ただ荷物持って歩道橋渡っただけなんですから」
お札を返そうと彼女の方に手を伸ばすと、「いいからいいから。使ってちょうだい。お金なんてこの歳になると持っててもしょうがないんだから。それにね、手伝ってくれる人なんているようでいないんだから、今の世の中」
(いいからいいから)のやり取りが終わらなさそうだったので、遠慮なくいただくことにした。
「それで彼女と一緒に何か食べなさい。ありがとう、気をつけて」
重い荷物を両手にぶら下げて彼女はあとにしていった。
彼女の背中を見ていると、返って気を遣わせてしまったなと感じた。いずれニュースで、自分のことを彼女は知るようになる。まさか殺人犯に荷物をもってもらったなんて、あんなによくしてくれた人が、みたいな絶望を与えてしまったら申し訳ない。
そして私が詐欺のグループなら、やっぱりあなたを狙うと思うと教えたかった。
今、私は神に問う。
「神よ、許してください。こんな人間とあのばあさんが関わってしまったことを」
空からは今にも雨粒が落ちてきそうだった。
予定の時間より三十分遅れた。
余裕をみて家を出てきたのに、時間を確認すると余裕はなかった。
急ぐ為に上着を脱いで走った。サラリーマンが走ってるようにしか見えないだろう。走りながらジャケットの内ポケットを確認する。冷たく堅い物はちゃんとある。まだ何も切っていない鋭さと冷たさを感じながら走る。
救急車が横を疾走していった。
運がよければあいつもあれに乗って処置をしてもらえるんだな、それは運次第だけどねと思いながら私も曲がる角を救急車が先に曲がっていった。曲がった先から二百メートルくらい進んだ所にやつの住んでいる場所がある。いよいよ実行が近づいてきて走ったせいもあるが、鼓動が乱れていた。
角を曲がると少し野次馬になっているエリアがあった。やつが住むアパートに近い。何かあったようだ。
こんなに人が多いと計画が実行できない。早く野次馬がいなくならないかと思いながら駆け足で近づいた。
二階建てアパートの外階段を救急隊員がストレッチャーに誰かを寝かせ下りているところだった。やつの部屋から出てくる姿が見えて、慌てて救急車に近づいていくと、やつが運ばれていた。
酸素マスクを付けられ意識はあるのか無いのか分からなかった。
どいうことなのか状況が掴めなかった。自分より先にやつを殺めに来た誰かがいるというのか?それはないだろうと思う。よっぽど人に憎まれているなら別だが、でも、こいつはそういうやつかもしれない。皆に恨まれるやつなんだと。
やつが乗った救急車が去っていく。
それをただボーっと見送っていた。
救急車の音が無くなった後、人だかりも消え私は一人になっていた。最初から何もなかったように、ただそこにはいつもの風景しかなかった。
今日は実行出来なかった。これは何か天からのお告げなのかもしれない。割り切ろうとした。やつが運ばれた病院を突き止め、部屋で仕留めてもよいのだが、そこまでする価値のある男なのだろうかと思い始めてきた。
面倒になってきた。
誰もいなくなった道を歩きながらある感情が湧いた。
憎しみほど哀れなことはないのかも。
そして、憎しみを抱き続けるのは疲れることを知った。
勘違いをしていたのかもしれないと私は気が付き始めていた。憎しみを抱いている自分が好きだったのかもしれないと。憎しみのエネルギーを自分の為に使えばよかったと、今までの自分の行動、言動を否定しようとした。
すべて間違いだったのでは。
今からなら取り戻せるだろうか。
そう思い始めると、なんだか急にバカらしくなり、彼女に会いたくなった。
懐にしまっていたナイフをゴミ集積所に投げた。見つかっても普通にゴミとして処理してくれるだろう。
ゴミ捨て場にナイフを捨てる姿をある青年に見られていたことを私は気が付いていなかった。笑みを浮かべながら舌をなめ回した口元で口を動かしていた。
「シネ」
私は彼女の元に急いでいた。途中、信号待ちをしている時間がいつもより長いと感じていた。歩行者の信号が点滅していた。緑になったら勢いよくダッシュしようと決めていた。
変わった瞬間、横断歩道のボーダーの白い部分だけを駆け抜けようとしていた。信号待ちは私だけだった。
信号が緑になる。
右足を踏み出す。
背中に冷たいものが入ってくる。
痛さは感じない。
冷たさの感覚の方が強い。
急に痛さがやってくる。
「お前……」
痛さは一気にやってきた。全身の力が抜けて倒れそうになっても、やつに支えられまだ倒れさせてもらえない。代わりに鋭利なモノが更に奥へと差し込まれていく。
「君が刺しに来るのを待ってたのに全然来ないからこっちから迎えに来ちゃったよ。感謝してよ」
さらに奥へと入る。
やつには感情がないのだろうか。
「だってお前、さっき救急車で……」
「なんだすごい近くまで来てたんじゃん。さっき運ばれたのは、俺のようだけど俺じゃないんだよ。もしかして忘れた?俺は、ふ……」
私はいまさら初歩的なことに気が付いた。
こいつらはあれだった。それを忘れていたことを後悔する。
「じゃあ俺そろそろ行くからさ。これからデートだからさ」
やつは背中からそれを抜いていった。
そのまま刺しておいてくれた方が、出血が酷くならなくて済むのに。
やっと倒させてくれた。アスファルトの匂いが鼻に入ってくる。生きていることを実感できる最後かもしれないと思いながら、私は閉じてしまいそうな瞼を気力で持ち上げていた。
空から小さな粒が落ち始めてきた。私が倒れたのを見計らったようにアスファルトを濡らしていく。
「やっぱり傘持ってこればよかったかもな。傘買うお金ならさっきもらったから何本でも買えるわ」
微かに口を動かして最後かもしれない言葉を口にしながら、体が雨に濡れて風邪を引くことを少しだけ気にした。
冷たい風も吹き始めた。
雷雨になりそうな予感だ。
辺りは一層暗みを増し、粒も大きくなり激しさを増していく。視界不良の道路では、私が倒れているのがやっと見えるくらいの雨だ。交差点を曲がってくる車は、私に気付かず轢いていくかもしれない。
遠くからトラックの音が聞こえてきた。運転手は気が付くだろうか。動きたくても全身の力を捨ててしまったようで、もう動けない。
夕方五時の街には、雨音に負けずうるさくカエルの鳴き声が響いていた。
意識はあの日の礼拝堂に入った時に戻っていた。
海からの風が今日も涼しく入ってくる。
椅子に座り静かに流れる音楽に身を任せ、目を閉じる。
手にはしわくしゃのお札が強く握りしめられ、私はそのお金で傘を買おうとしていた。
もし今日雨が降るならば、そういうことだろう 久芝 @hide5812
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