銀座の蜘蛛は親に似ていても殺せ
銀座は昨年、妖怪による大火で消失した一帯を改造し、煉瓦の街となっていた。
列柱の二階から迫り出すバルコニーの下の歩廊はガラス張りだが、中は殆ど空だった。
「これじゃ異国じゃねえか」
「欧米列強に加わりたかったんだろ。今じゃ鎖国に逆戻りだけどな」
「日本も強くなるってか。そこは変わんねえなあ。俺にはわかんねえよ」
「最初から強い奴はそうだろうな」
「弱けりゃ群れられるじゃねえか。強い奴は火事と一緒だぜ。家を燃やせて羨ましいなんて誰も言わねえ。弱い奴らに揃って潰されるだけだ」
㬢は煉瓦の道を蹴って歩く。焼かれないよう補強された歩道にはまだ傷ひとつない。
「㬢、お前寂しかったのか」
「何?」
㬢は金の瞳を歪めた。洋装の親子連れが馬車で横切り、号刀はかぶりを振った。
「強い奴は孤独かもしれないが、独りの奴は強くなるしかないんだ」
「そりゃ手前のことかよ」
「どうだかな」
号刀は苦笑し、煉瓦街を眺めた。
ガス灯の向こうに白い十字架が見え、号刀は身構える。キリスト教の教会だった。街の人々は平然と十字架の下を通り過ぎる。江戸では想像できない光景だ。
「㬢、疫病神を使う。脅すなよ」
「はあ、何でだよ」
「人通りが多いと一般人を巻き込む危険がある。起こる"不幸"を俺に限定した方が動きやすい」
「自己犠牲かよ。聖人みてえだな」
皮肉めかした㬢に、号刀は肩を竦めて見せた。
「これは釣りだ。お前の餌を呼ぶ」
「悪くねえ」
白髪の男が獰猛に笑った。
号刀は御守りの紐を千切った。
辺りは変わらず賑わいを見せるだけだ。西洋料理屋から出てきた外国人の夫婦が笑い合う。
「何も起こらないか」
呟いた号刀の耳に、微かな啜り泣きが届いた。路地裏で少年が蹲っている。号刀は人混みを掻き分けて近寄った。
「迷子か」
「刑事さん?」
「そんなものだ。お父さんかお母さんは?」
屈んだ号刀の頬を鋭い痛みが焼く。少年がナイフを突き出していた。
「くそっ、妖魔か!」
抜刀した号刀に、少年が叫んだ。
「刑事さん、助けて……!」
号刀は目を見張る。少年の全身に鋼線のような銀の糸が絡みついていた。糸が蠢き、少年の筋肉に逆らってナイフを持つ腕を捻る。
号刀はサーベルを振るった。刃は糸に弾かれ、少年が悲痛な泣き声をあげた。
雑踏の向こうから汚れた草履の足が覗いた。
「㬢、この糸を食ってくれ!」
赤煉瓦の一部が白に変わり、現れた巨大な歯が少年の頭上を噛む。銀糸が空中で弛んで解けた。
「ジャリに構う暇はねえぞお、あっちはもっとひでえ」
号刀は気絶した少年を隅に寝かせる。
路地裏から取り出したふたりを粉塵と悲鳴が包んだ。
「何だ、あれは……」
空に蓋をするように、巨大な蜘蛛が煉瓦通りの端から端まで脚を渡していた。
「
八本の脚が蠢き、煉瓦街を破砕した。
逃げ惑う人々が銀糸に絡め取られ、ガス灯と列柱の間に貼りつけられていく。無数の足が宙でばたつくのが蜘蛛のように見え、号刀は奥歯を噛み締めた。
「あの蜘蛛だけ食えるか」
「人間共を巻き込まねえ保証はねえぞ」
「花屋敷ではできただろ。」
「昨日とは話が違えよ。あのスベタ、妙な力使ってやがる。奴と捕まってる人間が混じってるみてえな……」
「どういうことだ?」
㬢は眉間に皺を寄せて唸った。途端に、空中に囚われていた人々が次々と落下する。
彼は関節を無視した動きで身を震わせ、一斉に虚な目を向けた。
「蜘蛛が彼らを逃した訳じゃないよな?」
「んな訳ねえだろお」
号刀は剣を上段に構える。銀糸を絡めた人々が波のように押し寄せた。
「㬢、絶対に殺すな!」
号刀は素早く後退し、飛びかかった男のの横面を殴った。剣の鞘で洋装の夫人の爪を抑え、横から迫る車夫の脚を払う。回転がかかった車夫はそのまま人波に突っ込んで陣形を崩した。
「面倒くせえなあ。こんなにいるなら少し食ってもバレやしねえよ」
ぼやきつつ㬢は軽々と飛び、群衆の頭を踏みつけて跳躍する。
空に巨大な歯が浮かんだ。蜘蛛の脚の間から女の顔が覗く。
女は嗤い、糸を手繰り寄せた。
号刀と攻防を続けていた数人が宙に吊り上げられる。銀糸が真っ直ぐに張り、叫ぶ人々を盾の如く歯の前に晒した。
㬢は舌打ちして身を翻す。着地と同時に空中の歯が消えた。
「やっぱり奴だけ殺すっきゃなさそうだぜ」
「そうはいうが、埒が開かない!」
号刀は追い縋る手を剣の柄で押し返す。踊りかかった男の鳩尾に号刀の肘が入った。
「なら、俺が開けてやるよ。その"誤差"を食う」
㬢が手を翳した瞬間、肘打ちで弾かれた男と同様に人々が吹き飛んだ。後ろの列の人間は前の波に押されて狼狽える。
「こんなことまでできるのか」
「まあな。とっとと行くぜ」
㬢が手を振るい、鋭い歯がガス灯の支柱を砕いた。傾いだガラスを破って列柱の二階に橋を渡した。
㬢が先導するように駆け上がり、号刀も続く。
絡新婦がふたりに気づき、八本の脚を振り下ろした。鋭い先端が煉瓦を砕く。
一寸前にいた場所が崩落するバルコニーを駆け、㬢と号刀は煙幕を突っ切った。
「あれが
「かもな。絡新婦は昔からいたがここまで厄介じゃなかったぜ」
「なら、舶来の物なら効くかもしれないな」
号刀は肋骨服の胸ごと御守りを握った。
「疫病神、"不幸"だ。あの教会を俺に落とせ!」
絡新婦の脚が煉瓦通りを薙ぎ払った。将棋倒しに倒れた建物の余波が、最奥の教会を押し潰す。白い十字架が三角屋根ごとへし折れ、真っ逆さまに落下した。
「㬢、合わせろ!」
号刀はバルコニーから跳んだ。蜘蛛の糸が即座に絡みつき、身体を締め上げた。髪を振り乱した絡新婦が迫り来る。号刀は呻きつつ、視線で合図を送った。
㬢が蹴り上げた十字架が蜘蛛の腹を貫通する。青い血を撒き散す絡新婦の頭を巨大な歯がすり潰した。
糸が脆くほつれ、号刀は落下する。地に叩きつけられるより早く、㬢が受け止めた。
「助かった」
「面倒なことさせやがって。あの蜘蛛もクソ不味いしよお。鉄錆みてえな味だ」
㬢は舌を出す。煉瓦の山の間から拘束を解かれた人々が這い出していた。
「終わったみたいだな」
切れた頬を拭った号刀の後ろで、細い影が揺らめく。腹だけの蜘蛛が瓦礫を破った。
––––首を失くしても動くのか、まずい。
目の前に若い夫婦が倒れていた。蜘蛛の脚が振り下ろされる。咄嗟にふたりを庇った号刀を蹴撃が弾き飛ばした。
「正宗!」
㬢の声が轟音で掻き消えた。夫婦を抱えたままショーウィンドウに突っ込んだ号刀に破れたガラスが降り注ぐ。丸めた背を何も纏わないマネキン人形が打った。
眩む視界で八本の脚が蠢く。号刀はサーベルを握った。
黒煙を銀の軌道が閃いた。
瞬時に切断された脚二本が宙を舞う。
煙の中で長身の影が天狗のように踊り、蜘蛛の脚を切り裂いていく。
支えを失った蜘蛛の胴体を㬢の歯が磨り潰した。
事態が飲み込めず立ち尽くす号刀を、陰陽警察の制服を纏った影が見下ろした。
「軟弱な男だな。その剣は飾りか」
短く切った黒髪の刑事は刀を鞘に収める。
長身だが、声は男にしては高く、肋骨服の胸は微かに迫り出していた。
「女……?」
刑事は切長の目で号刀を睨んだ。
「私は
「自分で英雄って言っちゃうんだ」
彼女の後ろで小柄な金髪の男が呟いた。
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