犬に味噌汁 猫に脚

 腐りかけの畳の上で号刀ごうなたは目を覚ます。


 昨夜の疲労で精神だけが昂り、胃の奥が鉛のように重い。微かな足音に号刀は身を起こした。



夕子ゆうこ……?」

 横たわる妹の足元に白髪の男が蹲っていた。

「何やってる!」

 駆け寄って肩を掴むと、あさひは事もなさげに答えた。


「この呪い、妙な味だな」

「何!?」

「妖怪は山ほど食ってきたがこんな味は知らねえ。腹も膨れねえし食い損だ」

 号刀は夕子の布団を捲る。傷はなく、頬は心なしか赤みがさしていた。


「鬼火のときみたいに呪いだけ食ったのか?」

「俺は何でも食うぜ」

 㬢は汚れた草履で足を組んだ。号刀は布団を整え、男の骨張った喉を見た。


「……朝飯食うか。冷飯と味噌汁しかないけどな」

「味噌? あの泥みてえなやつか?」

「泥はお前の脚についてるもんだ。ひとの家に住み着くなら靴くらい脱げ」


 台所で昨日炊いた米が冷えていた。号刀は棚から自分の食器を出す。奥に置いた夕子の茶碗と指が触れた。花柄の小さな器はもう一年近く使われていない。客も来ない二人暮らしの家に他の食器はなかった。


 㬢は固まった草履の紐を紐を解いている。号刀は溜息をついた。

「妙なことになったな……」



 昼を過ぎて、号刀は陰陽警察署に召喚された。

 道行く人が、白髪と擦り切れた喪服を靡かせて歩く㬢をしげしげと眺める。

「目立ち過ぎだ」


 号刀が呆れて呟いたとき、奇妙な建物が現れた。

 真新しい煉瓦造りの建物の入り口には門の代わりに巨大な赤の鳥居が聳えている。


 屯していた刑事ふたりが号刀を見留めて嘲笑混じりの視線を送った。

「薩摩の。何連れてるんだ? また妙なの押しつけられたのか」

「聞いたぞ。佐古さこが妖怪に乗っ取られたらしいな。お前も食われないように気をつけろ」


 号刀が無言で押し通ろうとしたとき、刑事たちが急に膝をついた。彼らは荒い息を吐き、喘ぎながら自分の腹を抑える。㬢の眼が爛々と輝いた。


「何してる。やめろ!」

 号刀が声を荒げると同時に、鳥居と同じ髪色の女が現れた。

「土でも草でも今すぐ口に入れなさい。ヒダル神に憑かれると極度の飢餓状態になるの」

 八坂やさかは薄笑いを浮かべて雑草を引き抜き、刑事に押しつける。


 震える手で草を口に運ぶ彼らを見て、㬢が「牛みてえだな」と、唇の端を吊り上げた。号刀は㬢の背中を叩く。

「二度とやるな」

「馬鹿にされっぱなしでいいのかよ。陰陽師も妖怪も舐められたら終わりだぜ」

「俺は陰陽師じゃない」

「俺は何度でもやるぜ。飼い主が舐められるのは気に食わねえ。嫌なら手前が止められるぐれえの力をつけるんだな」

「次やったら飯を食わせないぞ」

 㬢は不満げに目をぎらつかせた。


「ちゃんと首輪をつけてくれないと困るのだけれど」

 八坂はくすくすと笑い、煉瓦造りの建物の奥にふたりを招いた。



 署内は洋式の窓枠にステンドグラスが貼られていた。五色のガラスで描かれるのは聖画ではなく、浮世絵に似た奇妙な画だった。

「号刀くん、ここは初めて?」

「はい、本署に来るのは。すごいですね」

「明治政府が祭政一致を建前に神祇官を形だけでも優遇したからよ。予算が余ってあるの」

「内装もそうですが……」


 号刀は周囲を見回す。

 すれ違った事務員の制服は背中が丸ごとくり抜かれ、鴉の黒羽が突き出していた。真っ赤な肌に角を生やした刑事が、人間の隣を歩いて歓談している。

「彼らは妖怪ですか?」

「そう。本署では陰陽師が調伏した使い魔だけでなく、親人間派の妖怪も刑事として在籍しているわ」

「危険では?」

「貴方がそれを言うの?」

 廊下を進む妖怪たちの視線は一点に注がれていた。㬢は威嚇するように牙を見せて笑う。

「ここには元新撰組の隊士も尊王攘夷派の浪人もいる。因縁も出自も関係ないわ。実力がある者は全て使うの」


 言葉を失う号刀の脚に柔らかな感触が触れた。

 見下ろすと、白と茶色のマダラ模様の猫が纏わりついている。

「八坂さんの飼い猫ですか?」

 猫はちまちまと歩き、号刀のふくらはぎに柔らかな腹を擦り付けた。

「そんなところにいたら踏み潰されるぞ」


 号刀が抱き上げようとしたとき、汚れた草履が猫の鼻を掠めた。間一髪で㬢の爪先を避けた猫が地を蹴って跳躍する。

「㬢、ふざけるな! ただの猫だぞ!」

 号刀に胸倉を掴まれた㬢が低い声で唸った。

「猫じゃねえよお」


「相変わらず野蛮ですね、ヒダル神」

 若い男の声が答えた。猫の姿が歪み、栗色の髪の色白な青年に変わる。

「だから、嫌いなのです。貴方は人間を愛する妖怪の敵です」

「お前が好きなのはひとの脚だけだろうが、変態が」

「すねこすりが脚を触るのは当然でしょう」


 八坂が笑いかけた。

「彼は纏井まとい。陰陽警察の諜報員よ。猫にしか見えなかったでしょう?」

 号刀は唖然としながら㬢の襟から手を離す。纏井は猫らしく身を翻して、号刀の後ろについた。


「貴方はいい方だ。芯の強さがよく鍛えられた脚に出ています。悪いことは言いません。ヒダル神を使うのはおやめなさい」

「脚のことばっかり言いやがって」

 㬢が口を挟む。

「こいつはもう俺の契約したんだ。名前も白米と味噌汁ももらった。茶碗がやけに小さかったけどな」

「味噌汁かけご飯ですか。まるで犬ですね。猫の天敵です」



 八坂の手拍子が会話を打ち切った。

「おふざけは終わり。お仕事よ」

 彼女は表札のない黒い扉を押し開く。机と扉の先は革張りのソファ、洋書の並ぶ本棚と蓄音機がある事務室だった。


「随分洋風ですね」

「神社のようなところかと思ったかしら? これからは新しい物も取り入れなくちゃ。特に言葉はね」

 八坂は棚から一冊の本を取り出して開いた。


「明治になって日本にはなかった言葉と共に概念も持ち込まれ、翻訳されたわ。例えば愛、自由……意味はわかる?」

 号刀は首を振った。


「それが何の関係が?」

「陰陽師は言葉によって魔を縛る。妖怪が我々の手に追えなくなっているのは、今までの呪詛が通用しなくなったからかもしれないわ」

「つまり、敵は海外から持ち込まれた何かを使っていると?」

「飲み込みが早いのね」


 八坂は本を閉じ、目を伏せた。

「昨夜、貴方がヒダル神を起こしたのと同刻。銀座で陰陽警察所属の三名が襲撃される事件があったわ。そのうち、刑事の沖田おきた林太郎りんたろうが瀕死の重傷を負った。搬送された彼が掌にこれを握り込んでいたの」

 机に置かれたのは、血で赤茶けた数珠のようなものがついた木製の十字だった。


「ロザリオ、ですか?」

「そうね。切支丹が持つ祈りの用具。でも、十字が逆さだわ。本来は殉教した聖職者を表す意味らしいけれど、悪魔崇拝の表象として用いられることもあるみたい」


 纏井が言葉を引き継いだ。

「私が潜伏した結果、銀座から新橋周辺にかけて同様の意匠が散見されました。何かの暗号かもしれません」

「号刀くんには銀座に行って調査してほしいの。ヒダル神と共にね」


 㬢は筋の浮いた喉を鳴らした。

「敵は全部食っていいんだな?」

「勿論よ」

 八坂は目を細める。


 窓の外には変わり出した街と江戸から変わらない空が広がっていた。

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