地獄の沙汰も飯次第 中

 号刀ごうなたが到着すると同時に、浅草に雨が降り出した。


 雷門は改元直前に火事で消失している。地面には人力車の轍と踏み潰された花弁が残っていた。

 車夫たちが散り散りになったのと入れ替わりに、佐古さこが現れた。


「遅いよ、家から来たのか」

「ああ、何があった」

「本当にまずいぞ。浅草五区が妖怪の巣窟になってる」

「何?」

「とにかく来いよ。見ればわかる」

 佐古の瞳が爛々と赤く輝いた。



 進むごとに闇は深まった。

 浅草寺周辺は公収されて都市公園になる予定だったが、政府が傾いた今では猥雑な歓楽街となっていた。

 見世物小屋の灯りや客寄せの声が滲み出し、暗がりに潜むのがひとか妖かも曖昧にさせる。



「ここだ、俺の鬼火が見つけたんだ」

 前を歩いていた佐古が立ち止まった。彼の前で霧雨の中でも消えない掌大の炎が揺れる。


「花屋敷か……」

 号刀は鬱蒼とした生垣を見上げた。庭園の枝葉が伸び放題に突き出し、奥から珍鳥の声が禍々しく響く。

 佐古は迷わず敷地に足を踏み入れた。号刀は一瞬躊躇ってから後に続いた。



 闇は一層深くなる。鬼火が照らすのは雨と枯れた花だけだった。

「佐古、本当にここに妖怪がいるのか?」

「間違いない、大量に隠れてる」

「もし、そうなら応援を……」

 号刀が護符に手を伸ばしたとき、佐古が急に振り返った。止める間もなく佐古の爪が護符を裂く。

 唖然とする号刀の前で紙吹雪が雨に溶けた。


「呼ぶなよ。俺たちで解決すれば大手柄だ。陰陽師の力なんて借りたくないだろ」

 佐古の瞳孔が赤く光る。鬼火も火勢を増して燃え盛った。

「お前おかしいぞ」



 後退りかけた号刀の鼓膜を悲鳴がつんざいた。

「誰か助けて!」

 幼い声に彼は振り返る。樹木から垂れる果実に人面が浮かび上がっていた。


「妖怪、木霊か!」

 号刀はサーベルに手をかける。

「声真似で誘き寄せられた人間がいるかもしれない。応援を呼べなくした責任は取れよ。俺たちで––––」


 脇腹に焼ける鉄を捩じ込まれたような熱が走った。

「何……」

 いつの間にか真後ろに回り込んだ佐古が抜き身のサーベルを構えていた。

「俺はこのままじゃ終われない」

 そのひっ先は号刀の脇腹を貫いていた。



 熱が遅れて痛みに変わった。目の前が反転し、号刀は膝を折った。


 揺れる視界に薄笑いを浮かべる佐古が映った。号刀は血を吐きながら呻きを上げる。

「佐古、お前……憑かれたな!」

 彼の唇から赤い息が漏れ、炎が膨れ上がった。


「馬鹿だよなぁ。『妖怪の巣窟を見つけた、まだ誰も気づいてない』なんて言ったら信用しやがった。妖怪が人間に味方する訳ねえだろ!」


 鬱蒼とした木々が形を変えた。

 獣の前肢、水掻きの生えた手、死人の腕。無数の手が闇から突き出した。


「妖怪だらけなのは本当だっただろ? 」

 炎が嘲るように笑い、火の粉が飛び散る。号刀は土に爪を立てた。

「佐古に何しやがった……」

「何言ってんだ、やるのはお前だよ」

 鬼火の声は氷のように冷たい。


「江戸の頃から浅草の何処かに最強の妖怪が封印されてる。結界は解くには沢山の血が必要だ。お前を殺して、その死骸を餌にして、何人刑事が寄ってくるかな?」


 腕たちが一斉に蠢いた。

 号刀はサーベルに縋って立ち上がり、刃を振るう。二本の腕を切り落としたが、すぐに無数の手が追ってくる。鋭い指が号刀の肩を抉った。


「逃げろ、逃げろ、血を撒き散らしてくれた方が好都合だ」

 赤い目の佐古が笑った。号刀は傷口を抑えながら剣を振るう。

「佐古、正気に戻れ! お前は陰陽警察だろ! このままじゃ終われないって……」



 鋭い爪が号刀の背中を切り裂いた。生温かい血が溢れ出す。号刀は地面に倒れ込んだ。

 震える手で掴もうとしたサーベルを、佐古が蹴飛ばした。

「こいつも哀れだよな。お前みたいな疫病神憑きと組まなきゃこんな目に遭わなかったかもしれないのに」


 号刀の指から力が抜けた。

 庭園の砂利に血の赤が広がっていく。傷だけが熱く、全身が急激に冷える。


「佐古……!」

 掠れた叫びは声にならなかった。佐古が去り、蠢く腕が徐々に号刀へとにじり寄る。

 遠のく意識の中で自分の声が反響した。


「俺のせいだ、俺が巻き込んだ、あいつだけでも助けないと……」

 闇を掻いた指が号刀の全身を啄む。痛みすら感じなくなったとき、目の前に汚れた草履の脚が見えた。



「お前、飯は食ったか?」

 嗄れた声だった。号刀は耳を疑う。

「俺は食ってねえ。もう何十年もだ。お前は食っただろ。いいよなあ、俺にも食わせろよ、手前の肉を……」

 鼓膜を粘るざらついた響きに、重なるはずのない妹の声が重なった。

 兄さん、ちゃんとご飯食べてる?

 繕ったばかりの御守りが襟から飛び出し、血で汚れていた。

夕子ゆうこ……」


 号刀は血塗れの手で男の脚に縋った。潰れそうな肺から声を絞り出す。

「食いたいなら全部やる。俺の肉でも骨でも好きに持っていけ。生きたまま食われても構わない。だから、妹と佐古は……」


 噎せ返った号刀の口から赤茶けた血が溢れた。

 草履履きの男はしばらく押し黙り、深く息を吐いた。

「二千年……俺は二千年生きてきた。その間、手前から食われに来た奴は初めてだ」



 号刀の頭を乾いた手が掴み、上を向かせる。老人のような総白髪が視界に広がった。

 月に似た金の瞳と、鋭い犬歯を持つ男が号刀を覗き込んでいた。


 男は号刀の顎から垂れた血を手で拭い、掌を舐めた。

「ひとまず、これで契約にしてやるよ」

 鈍い閃光が、周囲の闇を薙ぎ払った。



 全身に血が巡るのを感じ、号刀は立ち上がる。

 痛みは消え、裂けた制服の下から除く傷跡は塞がっていた。信じられないと脇腹を摩る彼の横で、男の笑い声が響いた。


「阿呆面晒すなよ。俺の妖力を回ったんだ。そんくらいの傷塞がるに決まってんだろ」

 荒れた白髪と対照的な擦り切れた黒の喪服。痩せぎすの男は肩を竦めた。


 号刀はまだ混乱する頭を回す。

「待て、何のことだ。契約とか妖力とか……」

「全部俺に寄越すつっただろうが。だから、お前の人生をもらった。陰陽師は妖怪を手前のもんにするが、俺は逆だ」

 がらがらと喉を鳴らす男に、号刀は言葉を失った。

「お前が俺を……」



 ざっと、砂利を踏む足音がした。鬼火を背に負った佐古が現れる。

「頑丈すぎだろ。まだ生きて……」

 彼は白髪の男を見留めて赤い目を剥いた。

「本気かよ。お前、封印を解いたのか!?」


 妖魔の顔に怯えと驚きの色を感じ、号刀は低く問いかける。

「お前は一体何者だ?」

 白髪の男は歯を覗かせた。


「ヒダル神」

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