明治異聞 陰陽警察事件簿
木古おうみ
地獄の沙汰も飯次第 上
明治に改元されて五年、首都は薩長に代わって妖魔が跋扈し、遷都間も無く東京は穢土と呼ばれた。
***
「陰陽刑事・
号刀
漆黒の肋骨服の背中には金糸で"陰陽警察"と刺繍されている。
窮屈な首元のボタンをひとつ開け、号刀は眉間に皺を寄せた。短く切った黒髪と太い眉は真面目で融通の効かない印象を与える。鼻に一筋走った傷跡が険しい表情を更に険しく見せていた。
「戦う前からそんな顔するなよ、正宗くん」
肩を叩かれて、号刀は強張った表情を少し緩めた。
「陰陽刑事・
彼の同僚は護符にそう告げて、軽薄な笑みを見せた。
「わかってるよ。お前は妖怪も陰陽師も嫌いだもんな。これ、使いたくないんだろ?」
佐古は胸元の護符をひらつかせた。
「ああ、気に食わない。通信用って名目だが、要は監視だろ」
「そう言うなよ。離れた相手と会話できるんだから実際便利だぜ」
「電信が開発されていれば、陰陽師に頼らなくても事足りた」
「だが、そうならなかった。鎖国が始まって他国の技術は入らないし、文明開化どころか治安は戦国時代に逆戻りだしな」
「クソ妖怪どもめ……」
号刀は目の前の建物を睨んだ。
築地ホテル館。七年前に開業した、日本初の本格的ホテルだった。
二階建ての館に百室以上の客室を設けた豪華な擬洋式建築に今いるのは、金持ちでも旅行客でもない。妖怪だった。
佐古は肩を竦める。
「神仏の加護が失われて、東京が妖怪まみれになったのは、明治政府が廃仏毀釈を推し進めたせいだ。俺たちにも責任があるだろ」
そのとき、ホテルから甲高い悲鳴が聞こえた。
真っ白な枠で仕切られた二階の窓から少女が身を乗り出している。
洋風にリボンで結んだ少女の髪を、奥から黒い手が掴み、内側に引き摺り込んだ。
号刀は歯を軋ませる。
「あの娘にも責任があるか?」
佐古が答える前に、号刀は駆け出していた。
「正宗、落ち着けよ。上の連絡があるまで待って……」
号刀は足を止めることなく、腰に帯びた刀を抜く。彼は襟元から小さな御守りを取り出し、抜身の刃でその紐を切り裂いた。
「来い、疫病神。"不幸"を起こせ!」
鋭い声に呼応して、ホテルの外郭が崩れた。ガラスが砕け、漆喰塗りの壁が崩壊する。瓦礫が衝突したガス灯が傾ぎ、洋風の馬車が重い尻を振って逃げ出した。
煙の中から、ずるりと巨大な蛇が姿を現した。
降り注ぐガラスに構わず、呉刀は駆け抜ける。瓦礫を蹴って跳躍し、彼は袈裟斬りに刀を振り下ろした。
銀の閃光が輝き、大蛇の首が弧を描いて跳ぶ。青い血の雨が降り注いだ。
号刀は濡れた刃を手袋で拭い、周囲を見回す。瓦礫に隠れて先程の少女が震えていた。彼は青く染まった手袋を投げ捨て、少女に手を差し出した。
呆然と立ち尽くしていた佐古の胸元で女の声が響いた。
「守備はどうです?」
佐古は崩れたホテルと大蛇の死骸を見て苦笑する。
「号刀が全部やっちゃいましたよ」
号刀は少女を抱えて、瓦礫の山から踏み出した。
築地を陰陽警察の車が行き交う。
外国人居住区を設けて、貿易の窓口になるはずだった港も今は閑散としていた。
号刀と佐古は市場の外れの飯屋に入った。
席に着いて注文を終えるなり、号刀は妖怪の返り血を浴びた護符を外して机に置く。
「反抗的だな」
「妖怪を討伐して、人質も救出した。真面目にやってるだろ」
「お前が全部仕事を取っちまうし、上司には睨まれるし、散々だよ」
「お守りさせて悪かったな」
「本当だよ」
ふたりの前に焼魚定食が運ばれてくる。着物にエプロンをつけた給仕の女は彼らをしげしげと眺めてから去った。
「陰陽警察はここらじゃ珍しいのかな」
「去年できたばかりだから見慣れないんだろう」
「まさか無血開城までした明治政府が三年足らずで崩壊して、京の陰陽師と警察が協力するなんて考えられなかったよな」
「ああ、悪い冗談みたいだ」
号刀は箸をとり、魚の骨を剥がす。佐古は呆れたように笑う。
「お前も少しは陰陽師に媚び売ってくれなきゃ困るぜ。ただでさえ俺たち薩長出身は風当たりが強いんだから」
「お前は長州だったか」
「ああ、正宗は薩摩だろ。お互い辛いよな。政治家どもと同郷だからって恨まれる筋合いはないよ」
佐古は茶を啜り、既に半分魚を食べ終えた号刀を見た。
「よく化け物と戦った後飯を食えるよな」
「妹に言われてたんだ。どんなときでも飯は食えって」
号刀は箸を止め、少し目を伏せた。
「うちは両親が早いうちに死んでずっと貧しかった。飯に困ったとき、妹が『兄さんが何も食わないなら自分も食わない』って断食するんだ。仕方ないから、何とか兄妹ふたりで食えるように必死で働いてきた」
「だから、陰陽警察に入ったのか?」
「それもある」
佐古はふっと息を吐き、目を細めた。
「俺たち、このままじゃ終われないよな。もっと稼がないと」
「そうだな……」
号刀は空になった茶碗を寄せ、立ち上がった。
「悪いが先に行く。金は置いておくぞ」
「もう少しゆっくりしていけよ」
「妹の様子を見に行かないと行けない」
佐古は溜息をついて彼を見送った。
号刀は夕暮れの街を進んだ。
道端のまばらなガス灯は進むごとに少なくなり、赤黒い夕陽がどろりと垂れた。
号刀は江戸から取り残されたまま平屋の扉を押す。
「
答えはない。彼は靴を脱ぎ、腐りかけた畳を踏んだ。
暗い部屋に少女が横たわっていた。
湿気を吸った布団から覗く顔は血の気がない。彼は妹の額に垂れる髪を払って隣に座った。
支給品の煙草を取り出し、マッチで火をつける。
煙を吐いて、号刀は夕子を見つめた。
「今日は仕事で築地に行った。妖怪を倒して……女の子が人質になってて、お前を思い出した……」
少女は人形のように動かなかったが、布団の下の胸は呼吸で微かに上下していた。号刀は煙草の灰を落とし、前髪を掻き乱す。
東京に移り住んだのは故郷にいるより稼げると思ったからだ。
兄妹で食べていくために、危険を承知で陰陽警察に入った。
刑事はひとり一柱陰陽師が調伏した妖怪の携帯を許される。
号刀に与えられたのは、任意の不幸を引き寄せる疫病神だった。陰陽師の静止を張り切って廃仏毀釈を推し進めた政府高官と同じ、薩摩藩出身の彼への意趣返しだったのだろう。号刀はそれに応じた。
号刀は煙草を灰皿に置き、制服の襟から千切れた御守りを出した。
「疫病神、夕子が襲われたのもお前のせいか。それとも、俺のせいか?」
眠る少女の首元には蓮の花のような赤い痣がある。
東京に来て半月後に妖怪に襲われてから、夕子は目覚めない。襲撃者の正体は掴めず、陰陽師にも呪いは解けないと言われた。
号刀は煙草を咥え、取り出した糸と針で御守りの紐を繕う。
紫煙で霞む妹の姿はただ昼寝をしているように見えた。今にも目を覚まして口を開きそうだ。
「兄さん、ちゃんとご飯食べてる?」
懐かしい声が蘇り、号刀は深く煙を吸った。
「ちゃんと食べたよ……夕飯の時間だ。そろそろ起きてくれ……」
窓から射した夜空の色が忍び寄るように畳に伸びた。
静寂を上ずった声が切り裂いた。
「正宗、聞こえる?」
声は帰り際胸ポケットに捩じ込んだ護符から聞こえた。
「佐古か?」
「ああ、今すぐ来てくれないか」
「何があった」
「後で説明する。とにかく急いでくれ。場所は浅草だ。相当まずい」
言葉はそこで途切れた。
号刀は煙草を揉み消して立ち上がった。夕子の布団を整えて、縫い直した御守りを首にかける。
「言ってくる」
号刀は帯刀して平家を飛び出した。
灯り出したガス灯が路面に反射し、道の凹凸を鱗のようにぎらつかせた。
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