S16D3 相対速度

 乗り心地の悪さは箱のせいだ。


 加速と減速と遠心力と時間、人間もこれらを見つけられるから理論上は自分の位置がわかる。困難になる理由は、言葉にならない感覚に頼る点と、わずかな誤差ですべてが狂う点にある。どんな困難でも突破してしまえば同じだが、それよりも堅実な動きがある。


 予定している経路と時間を照らし合わせる。信号待ちらしき停止と曲がる方向の順番で、走り続けられる直線で、およその現在地を割り出したら残りは出てから確認する。


 計画通りなら何も考えずとも決めた通りの場所に着く。物事は計画通りにはいかない。戦場では特に。


「卯月さん、翔です。応答を」

「どうぞ」

「経路変更です。自動車事故による。ゴルフが向かいます。どうぞ」


 これはフォネティックコード、アルファベットの聞き間違いを防ぐ言い方だ。同時に傍受のリスクを減らす暗号でもある。


 ゴルフはG、Gは七番目、七番目は午、午とは運転手の馬場昭午ばば・しょうごが来る。


 打ち合わせになかった問題なので誰の思惑もない。大したものではない。


「了解、ゴルフが来るまで待機でいい? どうぞ」

「いいえ、破ってください。トンネル内で三秒だけ止まるので、降りたら向かいから拾います。どうぞ」

「了解、直ちに準備する」


 リハーサルが活きた。ナイフでテープ部分から切断した。揺れるのでまだ四つん這いで、荷物は確実に持ち、空き箱は底も抜かせて似たような空き箱を畳んだ山に加える。


 このトラックは側面にも小さな扉がある。バンほど出入りしやすくはないが、出るだけなら簡単だ。開けて飛び出せば、勝手に閉まる。


 外の音はまだ響きが開放的で、現在地を屋外と示している。計画した道からトンネルへはそう遠くないのに、やけに遅い。


「卯月さん、応答を」

「さらにトラブル?」

「トンネル内で一般車が立ち往生しました」


 ドライブレコーダーだ。すべての車は監視カメラと等しい。余計な記録を残すと今後の活動に支障が出る。誰の目にも残らずに闇の中だけで動きたい。最適なトンネルを塞がれて、別の位置が必要になった。


 市街地だ。今も、この先のしばらくも。人の目がいくらでもある。外を歩くだけなら隙を探せるが、家の中までは見つけきれない。万が一にでも誰かの目に留まれば必ず広まる。井戸端会議から警察へ、警察からメディアへ、メディアから政治家へ。


 誰にも見つかってはいけない。しかし、異常な行動をしなければならない。


 片方だけなら簡単だ。両立する手段をこれから組み立てるする。


「卯月さんは、走行中に飛び降りる自信はありますか」

「二〇キロまでなら」


 原付でも制限速度は三〇キロで、遅いと交通の妨げになる。トラックゆえの安全運転と主張するにはここまでに速度を出しすぎた。急に遅くなれば筋が通らない。


「その二〇キロは、相対速度でもいいですか」

「飛び移れって? ボンネットに?」

「現状で他の手は、失敗を受け入れるのみです。もしくは他の案を待ちます」


 次のチャンスははるかに遠い。いつになるか、ないかもしれない。それでは計画が進まない。進まなければ兎田の道が閉じる。


 兎田は具体的な計画を知らない。末端の執行者として今回の指示だけで動く。可能な代替案は、目先の目標を達成する方法のみ。


「やってやろうじゃない。その程度を失敗する奴なんか、今のうちに失敗しておけばいいのよ」

「了解、秒で指定するので、見かけの直角で飛び出してください。その七秒後に逆方向へ飛んでください」


 無茶を言う。しかし、兎田ならできる。自信はあるし、周囲の全員も信用してくれる。


 何年も前の、美術館に忍び込んだ日はさらに難事だった。寸分違わぬ精度を分単位で維持する必要があり、兎田はそれを成功させた。今回は短時間で済み、多少のずれを調整できる。失敗したら怪我とお叱りのプレッシャーがあるだけだ。


 恐怖心は精度を下げる。白線の上を歩くのも、平均台を歩くのも、塀の上を歩くのも、難易度は同じでプレッシャーだけが違う。失敗するなら理由は自らの心に負けたときだ。


 恐怖心は知識の不足により生まれる。知識の不足は経験の不足により、経験の不足は意思の不足により、意思の不足は体力の不足により、体力の不足は充実の不足により、充実の不足は睡眠の不足により。兎田には知識がある。


 成功のために必要なものは四つだけだ。


 一に、タイミングを正しくする。


 二に、角度を正しくする。


 三に、仲間を信用する。


 四に、これ以外のあらゆる要素を無視する。気温も、天気も、場所も、通行人も、日経平均株価も、この場では一切の価値を持たない。兎田は先の三つだけに集中する。


「卯月さん、整いました。二十三秒になった瞬間に飛んでください」


 残り四十秒。嵐の前の静けさを味わう。


 次の一歩を踏み出した瞬間にすべてが覆り激動が始まる。このまま一歩を踏み出さずにいれば今の瞬間をずっと続けられそうな気がする。人の心は激動を恐れて凡庸を望む。死ななかった昨日までに縋りつこうとする。


 だけど、それじゃあだめだ。踏み出せなかった者は足元から崩れ去る。激動を恐れれば別の激動が来る。


 兎田の体は意思を手放して、手元に見える秒針にすべてを委ねた。止まるか、動くか。動くならどう動くか。


 思考停止ではなく思考完了だ。兎田は状況を整えた。だからこれ以上は何も考えない。思考は積み重ねるものだ。明日の可能性からいらない部分を削ぎ落とす。今日の思考が明日を決める。


 サイコロと同じだ。普通のサイコロの目は一二三四五六だが、兎田が持つサイコロの目は六六六四六六にした。大失敗はない。大成功か小成功か、もしくは勝負を降りるか。人生はギャンブルで、勝者は言うべき瞬間にレイズを選べた者だ。


 時計の秒針を睨む。弱い明かりで睨む。


 三、二、一。


 扉を開けて、見かけの直角に飛んだ。人の足はトラックより遅いので実際の軌道は鋭角になる。


 足場がない空中を漂った。短い時間でも脳が非常時だと思い込む。思考が加速し冴え渡る。周囲がゆっくりと流れる。人気ひとけのない道、追越し車線、住宅地だが窓がない方向、太陽は後ろから照らす。


 前方に車、運転席には翔がいる。相対速度二〇キロで追いつき、ちょうど屋根の後ろ端に着地した。滑らかな弾性によりボンネットまで転がり、窓枠を掴んで姿勢を止めた。


 運転席からの視界を尻で覆ったが、分かっていれば動じない。翔は速度を落として追い越し車線に寄った。周囲の車は二台だけだ。離れていくトラックと、向かいの追い越し車線から近づくひとつ。道路は動かない。目隠しがあっても走れる。翔はそのまま走る。


 対向車が止まった。約束の七秒後だ。見かけでは道路に落ちる気がしても信じて跳ぶ。同じく相対速度二〇キロで、今度は絶対速度も二〇キロで、対向車のボンネットをクッションに着地した。


 助手席の扉が開く。兎田は飛び込む。すぐに発車する。


「ラビ様、足元でまるまってください。すぐにカメラがあります」


 馬場の言葉に従いダッシュボードの下へ飛び込む。馬場は荷物を助手席に置き直し、車が再び走る。


「お怪我は」

「ないわ。おかげさまで」

「とんでもない。僕は何も」

「車を出した。十分でしょう」


 加速が兎田の右半身を押す。もぞもぞと動いて衝撃を受け止める構えにした。トランシーバーから連絡を送る。向こうからは安堵の息遣いが届く。すぐに続行のための微調整が始まった。


 誰も知らない受け渡しを完了させた。いるはずのない一人を乗せた車が大谷秀義の邸宅へ向かう。

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