S12C5 駒

 夕刻、兎田はマンションに帰ってすぐに声を張り上げた。


「ショウちゃん、いる?」


 靴を脱ぐより先に、顔を出しかけていた別の誰かが背を向けて呼びにいく。とてとてと足音が近づき、馴染みの顔が現れた。


「はいほい、いますよ。おかえりなさいませ」


 未来翔は頭を下げて迎える。兎田の荷物を受け取るためのバスケットを持ち、コートを受け取ろうと手を伸ばす。


 兎田は普段通りに渡した。そのほうが話の続きを通しやすいと思ったから。


「クソレズサブカル探偵の蓮堂について教えて」


 文脈と前提知識を無視して問いかけた。


 兎田の考え通りならば、蓮堂を拐ってきたのは翔とあのトラック運転手だ。どちらもこのマンションに入る権限を持ち、すなわち竜胆の息がかかっている。兎田が国外へ同行すると決まれば国内に残る未練が気になり続ける。だから解消させれば同行を決意するように仕向ける。翔もアンノウンも臼井も、竜胆が握っている駒だ。兎田だけが完全には握られていない。


 竜胆はあの手この手で兎田を手に入れようとする。最初からお膳立てに誘導されて選ばされてきた。気づいてからも兎田は乗り続けた。自分を掌で転がせる相手を待ち望んでいた。


「すみません。調査はお時間をいただきます」

「とっくに知ってるはずでしょ。今日の昼間に蓮堂をトラックに乗せて廃倉庫に置いた。あいつは目や耳がいいから、体格には気づいてる。私があそこに行ったのは臼井の案内で、その前にあのトラック運転手の男がいた。このヒントは気づくように仕向けた結果でしょ。早く答えなさい」


 翔はコートに皺がよらないよう整えて、些細な汚れまでリントブラシで取り、ハンガーに掛ける。黙々と作業を進めながらも目は片方だけで兎田を捉えている。別の方向を同時に見る。その目のために表情筋を使うようで、普段の整った表情が薄れて、いびつに捻れて見えた。


 普段との違いだ。兎田の態度を値踏みしている。その期待に応えて、兎田も見つめ返す。譲らないし諦めない。確信は揺らがない。


「いい洞察です」


 作業を終えて、翔は訥々と連ねた。


「おっしゃる通り、蓮堂さんを用意したのは私とバカさんですよ。他でもないアルさんの命ですので」

「その呼び方は何?」

「ご存知ありませんか。V・A・C・A、牛を意味するスペイン語です。アルさんの趣味ですね」


 世界各地に支部を作り、現地で人員を擁立する。それらの呼び名は役職ごとに対応した同じ名前にする。こうすればどこへ行っても名前を覚えていられる寸法だ。メイドはオビスで、運転手はエクウスで、輸送屋はバカ。他の役職も、兎田がまだ知らないだけでいくつ潜んでいてもおかしくない。マスメディアや法曹とも繋がりがあれば有利になる。竜胆の手際なら必ずそうする。


「翔ちゃん以外に、アンノウンも臼井も私に都合のいい動きをしてる。私の未練を片付けようって考えね」

「話が早いですね」

「私は誘導なんかされない。私自身の意思で行く。答えはもう決めてるから、余計な手出しをするなら正面からさっさと済ませて。怪我でもしたら大変だから」


 兎田の要求はダメ元だ。翔の行動はあくまで竜胆の指示で、主導権は竜胆にある。強者だけが選択肢を決めて、弱者だけが選択肢を選ぶ。


「そうですか」


 翔の声色は冷たい。普段の可愛げをすっかり隠した。今なら戦闘マシーンにも見える。直立の姿勢を正面から見る機会は今日が初めてで、スカートの下では明らかに構えている。手を出せば取られる。


 警戒を強める。翔は背が小さく、すなわち重心が低い。さらには膝の動きを隠す服だ。この場で格闘戦が始まれば翔が確実に勝つ。障害物が多く、有利な間合いを得られない。


 地球上のあらゆる動きは回転運動だ。回転運動でなさそうな動きも回転運動の組み合わせだ。


 一直線に見えるパンチも、肩の関節を下から上へ回転させて、肘の関節を上から下へ回転させる。無意識のうちにクランク機構を作って回転運動を前後運動に変換している。


 では背が低い相手にパンチをするにはどうなるか。腰を前方向に回転させて、軌道を下へ傾ける。相手がサンドバッグなら簡単だが、相手が人間なら話が変わる。


 前に傾いた体は重心がずれて、普段の踏ん張りが効かなくなり、姿勢を崩しやすい。喧嘩は背比べではない。体格で劣っても戦い方がある。有利な戦場に引き込むところから戦いは始まっている。


 この場は翔の戦場だ。家具の配置、位置取り、道具の高さ。すべてが翔に味方する。


「卯月さんを信用します。もしお手伝いが必要になった時には、いつでも何なりとお申し付けくださいませ」


 だから翔の返事は兎田を安堵させた。ついでなので今のうちに、あわよくば使えるものをもらっておく。


「じゃあ早速ひとつ。ショウちゃんの過去と未来を教えて」


 アンノウンと似た内容がある。あとは翔が話す気があるかだ。


「食事の後で」


 翔の短い返事の直後に、背後からも声がかかった。「お食事の用意ができましたよ」と語った彼女は、新顔ちゃんだったはずの犬山成美だ。


「ナルミちゃん? どうしてここに?」

「ラビさんですか! ご無沙汰してます。実はオーナーさんから、バニーガールよりメイドはどうかってスカウトされたので、来てみました」


 言葉通りに服装は翔と同じくメイド、落ち着いたロング丈の本格派だ。


「あたしはやっぱり、地味な裏方が向いてるみたいで。けどこの仕事、みんなには内緒ですよ。後で驚かせたいとかだそうで」

「ふーん。ナルミちゃん、つかぬことを訊いてもいいかしら」

「まあ、どうぞ」

「家族はいない?」


 表情が凍った。


「答えなくていい。私もだし、そんな気がしたから」

「翠学金を返すために早く働きたくて。その質問は、そういう意味ですよね」

「友達は大事にしなさい。特に、三人組の帰っちゃった子は」

「リナッチを知ってるんですか」

「どんな子かは知らないけど、大事にした方がいい子なのは知ってる」


 話は飲み込めないものだ。やがて飲み込める日が来る。


 食卓へ向かった。今日は珍しく三人、賑やかになる。


 今日の献立はスパゲティを中心にしたミートボールやハンバーグの集まりだ。初心者でも簡単な、きっと成美の私生活に合わせたもの。レシピから別人の息遣いを感じた。


 食後に成美が帰った後で、話の続きをした。


「派遣型メイドカフェを計画しています」


 成美に任せていたのと同じ、家事を担う仕事を。想定した客層は金持ちなので、金を出す価値のために文化教養や暇つぶしに付き合える腕を身につける。日雇いから長期住み込みまで、昼から夜まで、広く対応するための養成所も併設する。


「金持ちの金の使い方といえば、女を金で買えると誇示する所だけど。私を売ってるみたいにね」

「真っ当に家政婦をしますよ。家事、育児、買い出し、おしもの処理、くだらない雑用がいくらでもあります。端金を渡すだけで全てを代行する需要があります。信用第一ですから、盗み出すのは情報だけにしましてね」

「やっぱり、やるのね。ハニートラップも?」

「卯月さんもご存知の通り、予定表と出張先を真っ先に貰えます。あとは遺伝情報も」


 兎田は手で表した。人差し指と中指を揃えて、親指と合わせて輪を作る。


「私たちはメイドですよ。そんな方法では余計な後始末が大変です。ゴミ箱から精子を拾うだけでいい。誰にも知られずに最良の遺伝子を選びます。次世代を確実に用意する特権は私たちの物です」

「闇から生まれた子は確実に同じ条件で、次の世代になる、なるほどね」


 子孫を遺せる思想だけが続く。人間は百年以内に死ぬから、子孫を無視した思想は百年以内に墓の下だ。二人を使って人口を増やすには一人あたり二・〇七人を産む必要がある。対するメイドは、どこからか精子を持ち出して意図的に女を産む。闇で育てれば半ばで絶える命も減らせるから、一人あたり一・〇一人で事足りる。


 ちょうど今日の兎田は、竜胆の手がかかった研究所を見てきた。きっと似たものが日本以外にも、いくつでも。公権力が弱い国家もあるし、弱らせる手もある。秘密裏の生産は決して絵空事ではない。


 障害となるのは、竜胆と同様に手腕を発揮する者どもだ。あまり目立てば地元のマフィアが目覚まし時計のボランティアを始めるだろうし、手間取れば法案が通る。


 話が膨らむほどに兎田の役目も膨らむ。人をいくつ使えるか、時間をいくつ使えるか、竜胆がどこまで動いているか、それらのうち知るべき範囲がどこまでか。応える自信はある。必要なのは要求だけだ。


「そうまでの決意の源が過去にある、ってわけね」

「私には何もなくて、そこにアルさんが全てをくれました。だからアルさんの理想のために捧げます。それだけですよ。きっとすでに聞いているでしょう」

「殊勝ね。私もだけど」

「仲間ですから。さて」


 翔は立ち上がり、普段の笑顔に戻した。


「お風呂の支度をしてきますね」


 綺麗で広い湯船も入り納めが近いかもしれない。兎田は長めに温まった。

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