別れの曲

どこかで、ピアノの音が鳴っている。

ショパンの『別れの曲』だ。優しい曲調に、どこか切ない、悲しみの味が少し。素敵な曲。R4-Bは思う。この朝にはぴったりかもしれない。


山の麓。簡素な食べ物屋の屋根の下。今日も引き続き、天気は雨の予報だ。大雨ではないが、曇りと小雨を繰り返すらしい。どんよりとした空。灰色の空。しかしその空に、赤いアマリリスは映える。火のように、ロートヴァルの瞳のように、真っ赤な花。

「もう…行っちゃうの?」

R4-Bは寂しさと悲しみを抑えられない。

「いいや、まだだ。ゼロの好きな時間…そうだな、夕闇の空の時間に行こうと思う。と言ってもこの天気では、空の綺麗なオレンジと藍のグラデーションは拝めそうにないが…」

ロートヴァルは苦笑しながら、静かに言う。再びチェシャと“ふたりぼっち”になるR4-Bを、精一杯慰めるように。

カチ、カチ、カチ…時計の音。まだまだとはいえ、別れのときは、じりじりと確実に近づいてくる。

R4-Bはうつむく。ロートヴァルの顔を見ていたいのに、視線を向けられない。何と言えばいいのか、気の利いた言葉が思い浮かばない。心臓がドク、ドク、と鳴る。寂しい。悲しい。僕の人生に、こんなにもつらいお別れのときが来るなんて。

無言のR4-Bを見て、ロートヴァルは優しく微笑む。

「アル、そんな顔をするな。出発しにくいだろう。…大丈夫だ、永遠の別れではない」

嘘だ。R4-Bは思う。慰めようとしているのだろうけれど、これは嘘だ。永遠の別れなんだ。少なくとも、僕が何もしなければ。ロートヴァルは、メビウス様は…ゼロとともに、己ら自身を、神々そのものを別世界に封印するつもりだ。もう二度と、あんな悲しい戦争が起きないように。それくらい、僕にだってわかるんだから!

R4-Bはくっ、と顔を上げる。固い決意。

「永遠の別れになんて、させない」

ロートヴァルは両眉を少し上げ、きょとんとする。R4-Bは精一杯の笑顔をつくる。

「会いに行くよ。たとえどんなに遠くても」

ロートヴァルは今度は、眉を八の字にして戸惑う。

「い、いや、しかし…私が行くのは異空間だ。そんなところに行くなど、お前には…」

R4-Bはニッ、と笑って、覚悟を決めた顔をする。いたずらっぽい、可愛らしい顔。

「いいや、行ってみせる。どんなに難しくてもね!」

R4-Bのその様子を見て、ロートヴァルは安心したような、ほっとしたような顔をして、にっこりする。ただひとこと。

「…そうか」

それを見て、ジェイドが微笑む。無口なゴーレムは、別れのときが近づいても、人形ゆえに大きく表情を変えることはない。変えられない。しかし彼はふわりと、優しく口もとをほころばせる。温かな眼差しをふたりに向ける。じわじわと、確実に近づいてくる別れの瞬間を、彼はただ、優しく迎え入れる準備をする。

別れのときが、また一歩、近づいてくる。


ピアノの音がする。別れの曲。パリへと移ったショパンが、故国ポーランドを懐かしむ、悲しみと憧憬の曲…


山の町の宿屋にて。坂を登って食べ物屋から戻ってくると、R4-Bは洗面所で手を洗う。出てきては流れて消えていく、冷たい水。もうすぐ、もうすぐなんだ。R4-Bは自身に言い聞かせる。しかし、実感がわかない。まるで、ふわふわとおとぎ話の世界の中に入っていってしまったように感じる。お別れなど無い、永遠に幸せな世界。薄れていく現実。彼は頭をぶんぶんと振る。そんなのだめ、だめ。目の前の現実を、きちんと受けとめなくちゃ。R4-Bは、じんじんと熱くなる目頭からこぼれそうになる涙を、必死でおさえる。まだ、まだだめだよ。


ピアノの音は、もうしない。


ついに、その時が来た。

山の麓。夕闇の光。幸いなことに、雲は少しの間、晴れてくれるらしい。R4-Bは、コートのフードを脱いだジェイドとともに、赤い花畑の中に立つロートヴァルをじっと見つめる。その大きな手には、真っ赤な花束。ジェイドがぽつりとつぶやく。

「お別れは、悲しゅうございます」

そうだね。R4-Bは頷く。でも…

「会いに行けばいいんだよ」

ジェイドは少しだけ、きょとんとする。ロートヴァルとそっくり!そしてジェイドは、にっこりと笑う。優しくこたえる。

「ええ…その通りでございますね」

夕闇のオレンジ色の光に照らされたロートヴァルが顔を上げ、こちらを見る。ふたりも、ロートヴァルを見る。強い光。ロートヴァルは静かに微笑む。

「アル、ジェイド…これを一本ずつ、持っていてくれ」

そう言って、ロートヴァルは赤いアマリリスを一本ずつ、R4-Bとジェイドに手渡す。ふたりはそっと花を受け取る。赤い、赤い花。R4-Bは人差し指と中指で、花を、赤いアマリリスをそっと撫でる。

風が吹く。その時、その瞬間が来た。

赤い花がゆらゆらと揺れる。三人の世界に、甘い香りが飽和する。花畑の真ん中に立つロートヴァルが、さっ、と振り向く。

「…お別れだ。さらば、愛しいふたり!」

一陣の強い風がざあっ、と吹く。目を開けると、もうそこにロートヴァルはいない。

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