あたたかな夜道

日結月航路

第1話

 時刻は亥の刻に差し掛かろうとしていた、ある夜更け。

 一人の女中が、屋敷出入り口の数寄屋門の前で静かに佇んでいた。

 女中とはいえ、その凛とした様子からまるでどこか名家の出身ではないか、と思われるほどに彼女は美しかった。


 屋敷の外では物音もなく、街路沿いにほんの小さな灯篭がぽつんぽつんと置かれ、その周囲のみを照らしている。

 女は静かな表情で提灯を手に、ただ主人を待っていた。



 しばらくすると、屋敷の中が少しざわついたようで、ほどなく中から旦那衆が順に出てきた。

 少し疲れ気味の顔を幾人か見送ったあと、ようやく自分の主人が出てきた。


「すまないね、会合が長引いてしまった」と敷居をまたぎながら、若い男が声を掛けた。

「いいえ、お勤めご苦労様です」


 女中は、何の苦労もないというように、にっこりと微笑んだ。

 まるで、ここにもあかりが灯ったかのようだった。


「遅くなってしまった。さあ、帰ろう和紗」

「はい、旦那様」


 男の名は慎之介という。

 老舗問屋の長男で、歳の割に落ち着いており、徳もある人物だった。

 近い将来、店もこの男が継ぐこととなるだろう。



 提灯を少し前に、和紗といわれた女中は慎之介を導くように歩みはじめた。


 すると、わずかな茂みの中から、黒いものが急に飛び出し過ぎていった。

 黒い中から真黒いものが飛び出してきたので、意表を突かれたらしい。

 どすッ、と軽い音がした。


「きゃッ」

「はは、猫だね」



「……もう、驚かせないで下さい」


 尻もちをついた彼女は、暗闇へと走り去る猫に向かってため息をつく。


「かわいい猫だよ。さあ、立てるかい?」


 慎之介は手を差し出した。


「ええ。…あの、旦那様」

「どうしたんだい?」


「草履の前坪が切れてしまいました…」


 立ち上がりながら、和紗はうつむき加減に言った。

 白い吐息で恥ずかしそうに漏らす彼女には、どこか色気があった。


「おっと。…怪我は無いんだね?」

「はい、大丈夫です」、と軽く土をはらう。


「それは良かった。では…」


 そう言って彼は提灯を置くと、女中の前にかがみ込んだ。後ろ手に少し振り向く。


「おぶるよ。草履も僕が持つ」

「ええッ! いけません、そんな。ご迷惑です…」


 にこやかに優しく申し出てくれる慎之介とは反対に、和紗は思わず後ずさりしてしまった。


「いいんだよ。君は女性だし、気にする事は無い」

「しかし、私は御屋敷にお仕えする身です。それに、私をおぶると旦那様が潰れてしまいそうで…」


「では、命じよう。君は僕におぶられるように。右手は提灯を、左手にはしっかりと僕の着物をつかんでおくれ」

「………承知しました」


 慎之介は、よいしょと軽く掛け声をすると、まっすぐに立ち上がった。細身に見えて、彼にもそれなりの体力は備わっている。


「では行こう」

「はい」


 そうしてゆっくりと歩み始めた。


 夜はすっかり更けている。



 このような形であれ、慎之介の間近にいられることを和紗は幸せに思った。

 身分は違えど、一人の女として彼を慕い続け、また時を共にしてきた。

 彼の匂いと温かさを感じながら、今日の境遇に心の底から感謝した。



 そこで、ふと現実に戻る。


 夜道に照らされる提灯の規則的な動きに眼をやりながら、和紗が耳元で尋ねた。


「あの、重くないですか、旦那様」

「うん、重い、すこぶる重い。踏み込む度に埋まるようだ」


 経を読むように、彼は答えた。


「降ります、私おります」

「はは、半分は冗談だ。」


 と、今度は愉快に答えた。

 和紗は無言のまま、ゆっくりと額を彼の襟首へとあてる。

 着物をつかむ手が少し強くなった。



 そのまま慎之介が続けた。


「しかし、和紗。君は護身用とはいえ、柔術の腕はめっぽう強いのに、子猫には弱いのだね」

「急に跳び出してきた、あの子がいけないんです…」


 顔をあげ、横から主人を覗き込むように和紗は答えた。

 薄暗くてはっきりとは見えないが、慎之介の表情はやわらかだった。


「けれど、それが逆に安心するんだよ」

「どういうことですか」


「君は掃除に洗濯、炊事も御手のもので、おまけに達筆で腕も立つ。まるで、一分の隙もないようだ。それでも、さっきのような女性らしい一面を見ることができて僕は安心したのだよ」

「…私、女らしくありませんか?」


 着物をつかむ和紗の手が、不安そうに緩む。

 

「いいや、君は大変美しいし、魅力的だ。それにとても良い眼をしている」

「父からは眼つきが悪いとよく言われたのですが、旦那様にそう言っていただいて、すごく嬉しいです」


「それに私……」とまで和紗は言いかけ、言葉をのみ込んだ。

「なんだい?」

 

「……なんでもありません。そうだわ、旦那様。このお詫びに何か致します」

「そうだね。ふむ」


 慎之介は歩みをそのままに、夜空を見上げながら少し考えた。


 和紗はじっと待つ。

 たとえ沈黙が続いたとしても、彼女はこの二人だけの時間が好きだった。


「では、夜食に蕎麦が欲しいな。まだ余っていたかな」

「承知しました。それでは、一本お付けしますね」


 慎之介の耳元で、やさしく、そして嬉しそうな声で和紗は答えた。


「ありがとう。君が作る蕎麦は格別にうまい。こんな夜中に食すと、背徳感からなおの事、うまいだろうね」

「まあ、旦那様ったら。あれはお出汁の取り方にひと工夫あるんです。鰹節も厚削りのものでうまみを出すんですよ」


「はは。あと少し屋敷には着かないが、今から楽しみで仕方ない」

「……はい」


 こんな時間がずっと続けばいいと、和紗は切に願った。

 彼に想いを寄せれば寄せるほど、親密に時間を過ごすほど、分をわきまえよという理性的な自分が抑え込みにかかる。

 どれだけ苦しんでも、何者にも理解などできるはずもないこの気持ちを、どうしてくれよう。

 

 普段は抑え込める自分がいるのに、今宵は彼の間近にいるせいか、夜道と仄かな灯篭のあかりのせいか、

 押し寄せてくる切なさに耐えきれなくなった。


 どうやら自然と小刻みに震えていたらしい。

 そうして、父親から目つきが悪いと言われたところから、涙が出そうになった。


 慎之介は足元から視線をやや上げ、和紗の方へ問いかけた。



「しかし、今晩は少し冷えるね。大丈夫かい?和紗」

「いいえ、暖かいです。…とっても」


 慎之介の肩に額をあて、つかの間の幸せを感じる和紗だった。


 そうしているうちに、慎之介達の屋敷入口が見え、使用人の男がこちらに気づいた。心配して、門まで見に来たようだ。

 提灯を振り、合図している。



 慎之介は話題を変えようと、話しかけた。

 首を傾け、和紗の頭を優しく押す。 

 

「そういえばね、和紗」

「はい、旦那様」


「僕の祖父は、どうやら僕とよく似た人柄だったらしい」

「そのようですね。とてもお羨ましいです」


「それでね、有能かつ美人で腕のたつ女中と一緒になったらしい。そのお陰で、我が家は更に栄えたらしいよ」

「……え、それって」



 声にもならないほど小さな音だった。

 和紗の中で、時が止まったかのように、妙に静かになった。

 

 想いを寄せる男の足音と、自分の鼓動だけが聞こえ、顔がほてってゆくのを感じた。

 着物越しにほのかに伝わってくる体温が、更にそうさせた。



「和紗、君にはずっと僕のそばにいて欲しいんだ。もちろん、特別な意味でだよ。こんな僕でもよいだろうか」

「……わ、わた、わたしッ。その、どうしましょう」


 その動揺っぷりは和紗を落としそうになるほどだったが、慎之介は若さで持ちこたえた。

 そうして彼は女中の足をぽんぽん、とたたき落ち着かせる。

 すぐさま我に返った和紗はささやかな反撃に出た。


 しなやかに接近し、囁いた。


「慎之介様。私、待ってますね」


 今度は、息が吹きかかるくらいすぐそばまで唇を近づけたものだから、慎之介は力が抜けてしまった。


「……和紗、うわッ!」


 

 崩れ落ちはしなかったものの、片膝をつきかけた。

 和紗は構わず、後ろから目いっぱい慎之介を抱きしめ、彼の頬へ自分のを当てた。

 

 使用人の男は何事かと、こちらに向かって走りだす。

 

 澄んだ空には幾多もの輝く星がみられ、慎之介と和紗の笑いあう声が静かな夜に響いた。

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