あの空を歌う

ま行

第1話

 この日起きた出来事は偶然の連続だった。


 僕は本来ならしない事をして、馬鹿げてると思っているような、やってはいけないと理性が働くような事をした。


 だけどそれがなければ僕は出会えなかった。夢にも彼女にも、そしてかけがえのない友人達にも。


 深く澄みきった空を歌う、そんな未来が待っているとは僕は思いもしなかった。




 朝、設定したアラームは時刻通りに音を鳴らす。


 目をこすりながらアラームを止めようと画面を叩く、中々反応せずに少しだけ苛ついた。大抵は寝ぼけていて検討違いの所を触っている自分のせいなのだが、朝の苛立ちをスムーズに処理できる人なんて居るのだろうか。


 鬱陶しい音をやっと止めて起き上がる、カーテンを開くと眩しい朝日が差し込んできた。


 今日は晴れだろうか、しかし最近僕が見る天気予報はよく外れる。この前帰宅時に雨に降られた時には散々な目にあった。


 自室を出て階段を下りる、洗面所で顔を洗うとやっと目が覚めてきた。鏡を見て適当に寝癖を直して顔を見る、我ながらいつもと変わらず冴えない顔をしている。


 朝の挨拶と一緒にリビングに入る、キッチンでは母が忙しなく動き回っていた。


「おはよう葦正あしまさご飯できてるよ」


 母から料理の乗った皿を受け取って机に並べる、冷蔵庫を開けて麦茶をついで椅子に座った。


「いただきます」


 手を合わせて朝ごはんを食べ始める、白いご飯に温かな味噌汁、ベーコンエッグの塩気が寝起きの体に丁度いい、ちぎっただけとはいえレタスのサラダまでつけるのは母が几帳面だからだ。


 忙しい朝の時間にこれだけ用意するのも大変だ、いつもながら母の勤勉ぶりには感心する。


「そう言えば昨日兄ちゃんは帰ってきたの?」

昭忠あきただったらまーた夜中に帰ってきてね!それでまた鍵を締め忘れていたのよ!何度注意しても直らないったらないわよ」


 母は手を動かしながら怒っている、兄は大学で何やら仲間内で遅くまで研究をしていて、帰りは大体遅くなる。


 その際にたまに玄関の鍵をかけ忘れるので母はそれをいつも注意している、実際僕もそれは不用心だと思う、しかし楽しそうに大学での出来事を語る兄の話を聞く事が僕は好きなので、痛し痒しと言った所か。


「そういう訳で帰りが遅かったから今日は起きてこないわよ。まったく少しは葦正を見習って欲しいわ」


 母の言葉に適当に愛想笑いをして濁す。別に僕は偉い事だと思って早起きをしている訳じゃない、極めて利己的な理由で早起きをしている。


「おはよう、ああ春は起きても眠いな」


 父がボサボサの頭を掻きながら起きてくる、僕と同じように母から朝食を受け取ると向かいに座ってご飯を食べ始める、まだまだ眠気が抜けないのか目を何度もこすっている。


「いやあ今日こそは葦正より早く起きようかと思っていたんだが、やっぱり負けるな」

「父さんは何度もアラーム鳴ってるのに全部無視するからだよ」

「そうよ、結局お父さんの一番早いアラームで私が起きてるんだから」


 母は誰よりも早起きをするので、父の連続アラームの始まりを利用して起きている。健康の為に僕を見習うかと始めた事だったが、父の目覚める時間は変わらず大体同じだ。


「しょうがないだろ?アラームの方が勝手に止まるんだ」


 それはそうだろう、いつまでも鳴りっぱなしではこちらが迷惑だ。アラームだっていつまでも起きない人の為に鳴り続けるのも大変だろう。


「まあそれはいいか。母さん、昨日も言ったけど今日は弁当いいからね」

「あれ?そうだったっけ?」

「うん、部下の相談に乗るから外で食べるって言ったろ?」

「あらやだそうだった。もう作っちゃったわ、無駄になっちゃう」


 母はしっかり者だが、たまにこうしてうっかりする事もある。


「折角作ってくれたんだ。俺は母さんの弁当を食べるよ」

「でもそれじゃ相談したい人が可哀想よ」

「大丈夫、あいつにはカツサンドを奢るよ。高いけど美味い店があるんだ」


 父と母は仲がいい、こうした細かいすれ違いも互いの気遣いでフォローし合える。僕は食べ終えた食器を流しに持っていき、洗い流した後水を張った桶に入れる。


「ごちそうさま」

「葦正、お弁当用意してあるからね。忘れずに持っていくんだよ」

「うん、いつもありがとう」


 僕は身支度を整えると弁当を受け取って家を出た。登校するには早い時間だが、その分人が少ないのが良い。


 玄関を出ると隣に住む中谷さんが挨拶してくれた。


「おはようあっちゃん。今日も早いのね」

「おはようおばちゃん」


 僕がおばちゃんと呼ぶ中谷さんは、隣の家の老夫婦だ。二人共良い人達で、仲良くしてくれている。


「おばちゃんもいつも早いよね」

「私はお花の手入れもあるから。それにもう歳ね、朝早く目が覚めちゃうのよ」


 中谷さんは庭で色とりどりの花を育てている、とても見事なもので、近所の人から少し分けてくれないかと声がかかるほどだった。


「今日も花が綺麗だね」

「ありがとう、趣味にと思って始めてみたけれど、こうしてやってみると面白いものね」

「そっか…それは良いことだね。じゃあ僕行くね」

「行ってらっしゃい、気をつけてね」


 中谷さんに手を振って僕は歩き始めた。学校は家からそんなに遠くない場所を選んだので、徒歩で十分の距離だ。


 僕は中谷さんが言った言葉が少し羨ましかった。


 趣味で始めたと言っていたが、あれほど見事な花畑にするには努力だ必要な筈だ。春夏秋冬、手を変え品を変え手広く世話をしている。


 僕にはそんな情熱を傾けるようなものはない、成績もいつも平均的だし、得意なこともない、何をやってもそこそこしか出来ないし情熱も続かない。


 だから僕は兄の話しを聞くことや、中谷さんの花畑が好きだ。これといった特徴のない自分には、どれもこれも魅力的に映る。


 唯一特徴と言っていい特徴が僕にもあるが、僕にとってこの特徴は忌々しいものでしかない、そのせいで僕はからかわれる対象になり易いし、こうして人目を避けるようになった。


 絶望するほどでもないけど、意味のあるものでもない、人からすればくだらない悩みでも、僕からすればそういったものだった。




 学校について教室の扉を開ける、いつも通り一番乗りかと思っていたら、まさかの先客がいた。


「おはようございます。遠藤先生」

「おうおはよう高森、毎度毎度朝早くてすごいな」


 担任教師の遠藤先生がいた。朝のホームルームに合わせて教室を訪れるのが普通なのに、どうしたのだろうか。


「先生も早いですね、どうしたんですか?」

「それがな、浅田から自分の席の机の立て付けが悪いから見てくれって言われてて、すぐ見てやろうと思っていたんだが。俺も部活の顧問で忙しくてな、だから朝一番で来たのさ」


 遠藤先生は男子バレーボール部の顧問をやっている、うちの高校の中で強い部活では無いが、それでも教職と顧問の二足のわらじは大変そうだ。


「それで机はどうですか?」

「長年使っていて古いものだからな、歪んじゃってガタつくな。直してやろうかと思ったが俺には無理だな。こんな状態だったとは、浅田には悪いことしたな」


 遠藤先生は心底申し訳無さそうにしている。僕は教師がそもそもあまり好きではないが、いい先生なのは分かる。


「高森、申し訳ないんだが少し頼まれてくれないか?」

「それはまあ良いですけど、何をすれば?」

「俺はこの机を下まで運ぶ、高森は屋上手前の踊り場のスペースにある予備の机を持ってきてくれないか?」


 僕には特に断る理由もない、面倒ではあるがそれだけだ。


「分かりました。どれでもいいんですか?」

「助かるよ、どれ持ってきてもいいぞ。後の事は俺がやっておくから」


 先生は嬉しそうに何度も礼を述べた。そんなに大げさなことではない、ただ暇だっただけなのに。


 僕は階段を上がって屋上に向かった。先生の言う通り手前の広いスペースは、予備の机や椅子、雑多な物が置かれていた。


 適当に机を一つ選んで持ち上げる、その時ビュッと風が吹き込むのを感じた。


 いつも閉まっている筈の屋上の扉が開いていた。この学校に入学してから一度も屋上に足を踏み入れた事はない、開いている事を目にする方が稀だった。


 僕は辺りを見回して特に人の気配が無いのを確認する、そして恐る恐る屋上に出て見ることにした。


 学校を上から下に見下ろすのは、何だかとても不思議な気持ちにさせられた。グラウンドでは朝練に励む生徒がいたり、登校してくる生徒の姿も見える。


 僕は何故か腹の奥底がむず痒くなった。鬱憤やフラストレーションというものだろうか、上から見る景色は何だか分からないが、悩みも無く当たり前のように毎日を過ごす事にまるで不満がないように見えた。


 勿論僕の錯覚だ。悩みのない人間なんていないし、日々は不満をもつ事ばかりだ。だけどこの時溜まっていたストレスで膨らんだ風船が、弾けたような気がした。


「わーーーーーーーっ!!」


 気がつくと僕は空を見上げて叫んでいた。自分の行動に驚いて、やばいと思い汗が吹き出る。


 急いでその場を去ろうとした時、屋上の扉の前に三年生の色をしたリボンタイを着けた女の人が僕のことを見つめていた。


「君は…」


 やけに美人なその人が声を発しようとしたその時、用務員さんの怒鳴り声が聞こえてきた。


「コラーッ屋上で何をしてる!」


 僕の声を聞きつけたのだろう、混乱して恥ずかしくなった僕は慌ててその三年生の横を走り去って、机をひっつかむと階段を急いで下りた。


 何であんな事をしてしまったのか、あそこにいた人は誰だったのか、ドキドキと心臓がなるのを感じる、その心音に囃し立てられるように、僕は急いでその場所を離れた。

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