王女とその影

霞(@tera1012)

第1話

 俺の通称コードネーム、『まつろわぬ男』の由来? ……これから殺されようってのに、いい度胸だな。



 一番古い記憶は、大きくてごつごつと硬い手に、手首をつかまれて引かれていく光景だ。俺は裸で、吹きすさぶ寒風に体中がちぎれるほどに痛かった。


 そこから先は、ほとんど同じ記憶の繰り返しだ。ひもじい、寒い、痛い、苦しい。死の淵まで追い込まれ、無理矢理に力を引き出されては覚え込まされる。

 周りでは、たくさんの子供が連れてこられ、死んでいった。


 俺は生き延びた。

 名前もないまま、組織に来て10年が経っていた。



 その人に初めて会ったのは、夏の終わりの夜の庭だった。

 

「どうしてそんなところに座っているの」


 薄暗がりの縁側で、美しい緑色の瞳がこちらを向いて、唇が言葉を発した時、俺は庭のすみの闇の中、驚きで硬直した。


 ”影の者”が、年端もいかない子供に看破された。不始末の罰としての死を覚悟する。

 どうせ死ぬ、と思えば、怖いものなどない。


「……貴方様あなたさまを、お守りするためですよ」


 あどけない表情で俺を見つめ続けている少女に答える。

 この時、彼女は8歳。母を亡くしたばかりの庶出の王女だった。


「そんなところで、守っていただかなくても結構よ。無力な私を狙う者など、いるはずはないのだから」


 ひどく大人びた口調だった。


「あなた、お名前は」

「……ありません」


 彼女は軽く首をかしげる。


「それではお友達になれないわね」

「友達」


 聞きなれない単語に俺は顔をしかめる。


「そう。お友達になるときには、名前を交わして小指を結ぶのよ」


 彼女は無邪気に、右手の小指を差し出した。


「私が名前を、つけてあげる。……つるばみ、でどうかしら」

つるばみ……」


 胸にがちゃりと、かせがはまった音がした。

 こうして、彼女は俺のあるじになった。


 

 彼女は聡く美しい少女だった。政略結婚の駒としての教育を幼いころから施され、大陸の主だった言語を操り、たくさんの物語を知っていた。俺は彼女の声に乗って、砂漠を渡り、遠い国々の人々の暮らしを知った。


 彼女は巧みに楽器を奏で、美しく舞った。

 俺は、彼女が月の光の下で舞う姿を見るのが好きだった。その姿は羽根をもがれた天女のようで、俺の胸をいつも甘い痛みで満たした。


 華やかな王宮の一角の、ひっそりと忘れ去られた小さな屋敷で、そうしてゆっくりと、俺たちの時間は過ぎて行った。




 彼女が13歳の春、嫁ぎ先が決まった。砂漠の向こうの大国だ。

 俺は、密かに相手の王族の評判を調べて絶望した。彼女に幸福な未来が待っていようとは思われなかった。

 

 出立の朝、彼女は初めて会った時と同じ、庭に面した縁側に一人、ぽつりと立っていた。

 そして曙の光の中、初めて、自分の足で庭に降りた。俺は彼女に招かれ、その足元にひざまずく。


「お別れを」


 ぽつりと彼女が言った。

 それから、彼女の手が、出会ってから初めて、さらりと俺の頭に触れた。

 うつむいたまま、俺は歯を食いしばる。


「もしも、もしも貴方様がお望みになるならば、私は、……地の果てであろうと、何処へでも、貴方様をお連れ致します」


 彼女と出会って5年。俺は、他の誰にもできないくらい長く速く走ることも、素早くやいばを操ることもできるようになっていた。いつかここから、彼女を連れ出してやりたい、そのためだけに、俺はひたすらに修練を続けてきた。


 彼女はしばらく、黙って俺の髪をなでていた。それから、いつもの静かな、鈴の音のような彼女の声が聞こえた。


「思っていたより、ずいぶん柔らかいのね。……ごめんなさいね。一度、触ってみたかったの、あなたの髪。……ねえ、私たちが初めて会ったときのこと、覚えている?」

「……っ」

 忘れると、忘れられると、この方は思っていらっしゃるのだろうか。


「ねえ、つるばみ。あなたが今、言ってくれたこと、私、一生忘れないわ。……私は、自分に与えられた義務を果たします。かの国へ嫁ぎ、根を下ろします」

「自分も、お供を」

「許しません」


 彼女の声は揺ぎ無く、凛と響いた。


つるばみ。これまでありがとう。幼いころより尽くしてくれたあなたに、何も報いてあげられなかったこと、許してね。……私の最後の、お願いよ。この先何があろうとも、絶対に、命を無駄にしないで。生きるために努力し続けることを、手放さないで……」


 そこで彼女の声は途切れた。

 俺はただ、うつむいたまま、優しい指が自分の髪を撫で続けるのを感じていた。


 あの日の夜明けほど、美しい朝を俺は知らない。


 嫁ぎ先へと発った王女の一行は、砂漠の途中で消息を絶った。

 警護は驚くほど手薄だった。彼女の祖国は、あわよくば彼女が嫁ぎ先へ無事にたどり着かないことを狙っていたのだ。

 おそらく、彼女はそれを知っていた。



 あの日から俺は、彼女の最後のめいを果たすためだけに生き続けている。


 俺のあるじは、今でも彼女ただ一人だ。



 つまんねえ話だったろ。

 ……何でかな。お前のその眼、悪くないんだよな。

 また俺の気が変わらんうちに行きな。はまあ、こっちでからさ。

 ……生き抜けよ。

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