古文書屋文玲堂の『調査報告』 ~その侍は欧州最弱の城で、いかにして世界最強の陸軍を迎え撃つのか~

玄納守

文玲堂は古文書翻訳を承ります

第1話 オランダからの依頼 ①

 奇書のたぐいか。


 モニタに映し出されたその古文書は、綴じられているものの、恐らくは、メモか雑記ではなかろうか。手紙の下書きも混じっている。


 依頼主はオランダのライデン大学のハルトマン教授。長らく日蘭史を研究している女史であり、私とは旧知の仲だ。



「お久しぶりね。玲。

 添付の史料は、ホラント国立博物館の中国史関連倉庫に眠っていたものです。

 電子保存後に、実物を廃棄されるところでしたが、もしかしたら、日本史や朝鮮史に関係する可能性を考え、私のところに回ってきたものです。

 元々はライデン大学の史料庫のものらしく、これの入った黒い箱には、うちの大学の名前とロットナンバーがありました。

 ローマ数字でXとあるから、16世紀末から17世紀初頭くらいかと。大学の中でも最も古い史料のひとつになると思います。

 交易記録かもしれないけど、……字がよく読めないの。

 また文玲堂の力を貸してもらえないかしら?」



 メッセンジャーには、そう添えられており、何枚かの古文書を撮影した写真が贈られたのだ。詳しく聞いてみると、この資料は、長年、「明代の商家の記録」と考えられていたらしい。


 だが教授の見立てでは、江戸時代初期の交易記録ではないかとのことだ。


 果たして、文書は紛うことなく日本語であった。

 確かに漢文が主体であるが、ところどころに和文文法と欧文文字が混じっている。そして何よりも悪筆中の悪筆だ。

 これは読みにくい。漢字もかなり癖がある。


 普段我々文玲堂が扱う古文書の大半が、幕末期のものだ。だが、送られてきた古文書は、少し様子が違う。なるほど。江戸時代初期の線もあり得る。


 日本で見つかる古文書は大半が江戸時代のもの。期間は元禄期から幕末期、更には明治期のものだ。主に幕府や藩からの感謝状である。でなければ、商家の日誌。面白いところで恋文だ。


 捨てられないものというのは、そういう形で残り「代々の秘伝書」となって、最終的に子孫たちが「これ、なんだっけ?」になるものなのだ。


 そういう、市井の古文書を解読するのが私の仕事だ。

 しかし、大学の依頼となると、話が変わる。

 安い割に労力が問われ、そして難解なものが多い。

 よほど知的好奇心がくすぐられない限り、依頼は受けない。


 そう。

 今回は十分に知的好奇心がくすぐられる内容だった。

 最初に見た違和感が私を惹きつけた。


 違和感の原因は元号だ。

 悪筆ではあるが、冒頭に認める文字。あれは「元亀」に違いない。


 元亀といえば、西暦の一五七〇年から一五七三年までの僅か四年間で使われた年号である。しかしオランダと日本の交流は、一六〇〇年にリーフデ号が漂着したところから始まる。


 つまり三十年も差がある。

 その三十年も前の文書が、オランダに流れたというのが、解せない。

 

 それに元亀であれば、これは戦国時代のど真ん中の雑記だ。オランダに日本の文書が流れる時間帯ではない。


 私の最初の推理は、この頃の九州や堺の商人の古い日記や書付が、何かの拍子に、江戸時代まで残り、それが何故かオランダ商人に手に渡り、ホラント国立博物館に流れ着いたのではないか――だった。

 だとしたら、さして史料価値があるようには思えない。せいぜい、交易記録が見られるだけだろう。


 ところが、手にした史料には頻繁に『成田』という固有名詞が出る。

 ますますおかしい。


 もし、関東の後北条氏に味方した成田氏を意味しているとしたら、九州や堺の商人説は成り立たないどころか、当時の関東勢がオランダとの交易など、まずあり得ない。更に言えば、そこの土着商人の記録をオランダ人が持ち帰る理由がない。

 若しくは成田とは、成田山のような宗教関係か? とも疑ったが、前後の内容が、全く関係ない。


「ひとまず、お預かりします。他の文書もお送りください」


 私はハルトマン教授の求めに応じ、最初は数枚の翻訳を、気付けば、結局、数千枚に及ぶ、文書全ての翻訳をする羽目になった。


 一言で言えば、面白過ぎた。夢中になった。しまいには、早く次を寄越せと、教授に催促するほどになっていた。


 歴史的発見かもしれない。

 前半はただの備忘録と思えた走り書き、旅費の勘定など、何かの報告のための書類となっていたが、後半になるにつれ、その内容は凄まじい戦の記録になっていった。


 分量は相当のメモ魔であると示唆していた。しかも商人の書付ではない。


 書いたのは五代平次郎。薩摩の若侍である。

 五代は薩摩では珍しくない苗字だが、平次郎となると、薩摩の記録にはほんの僅かしかない。


 島津貴久の小姓として可愛がられ、義久の時代には戦目付として薩摩統一戦に出ている人物だ。その若さで目付を仰せつかるのであれば、相当周りから信頼された人物だろう。


 島津家に伝わる当時の戦台帳の余白に、戦で使用する硝石量の計算途中が残っているものがある。

 大変な悪筆で、推測するに、これが平次郎の文字ではないかと思われた。となると、算盤もできる聡明な人物であったと思われる。祐筆には向かなかったようである。


 鉄砲一射に必要な硝酸量から、戦争の時にどれくらいの硝酸が必要になるかを綿密に計算している。将来的に数千丁の鉄砲を数時間使う場合を想定している計算だった。まだ鉄砲が入ったばかりの頃の話だ。


 数千丁と言えば、長篠の戦いで、信長が三千丁の火縄銃を使った話が有名だが、あれは実は間違いだそうで、定説でも千丁止まりだ。しかし、少なくとも長篠の五年以上も前に、数千丁規模の運用を、この薩摩では検討している。


 なかなか先見の明のある運用方法である。


 その中で、恐らくはポルトガル商人から、大砲の話を聞きつけたのであろう。

 これを買うことに決めたらしい。


 五代平次郎は、同士らと共に、島津義久の命を受け、大砲と硝石の買付にポルトガルへ旅立った。これは、その旅日誌でもある。目的地はポルトガルの首都、リスボンであった。


 それがどういう訳か、流れ流されネーデルラント、つまり現在のオランダにまで大砲を捜し、しばらく欧州を右往左往している。

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