喪女×魔王-Wo Es war , soll Ich werden.-
玉椿 沢
第1話「捜索願が出た日の事」
未成年を対象とした防犯教室や住民相談が主とした仕事であり、時には補導などもする立場である。
とはいえ、彼女が警察官を志した理由を知っている者には、今の所属には笑ってしまう者もいるかも知れない。
亜紀が警察官を志したのは幼児期であったといい、その理由は父親が見ていた再放送の刑事ドラマだったからだ。しかもバブル期に作られた、荒唐無稽としかいい用のないアクション系の。
――
そういう事を考えている亜紀は今、憧れた職場にいる訳ではない。
着ているのは高級スーツではなく、吊しの安物。
運転しているのはスポーツカーではなく、何なら運転ともいえない自転車を漕いでいるだけ。公務で自家用車を使う事は厳禁とされており、さりとて車輌も数に限りがある事もあって、防犯課少年班では自転車で移動する事も珍しくはない。
自転車を漕いでいく先は……、
「エルディム4……ここだったっけ」
カタカナが使われた名前とは裏腹に、古ぼけた印象のあるアパートだった。木造の築何十年というような物件ではなく、いい部屋だの何だのと名乗り、土地活用と賃貸管理を謳う不動産会社がサブリースに関わっている物件であるからこそ、という古ぼけ具合の。
駐輪場に自転車を停めた亜紀は、部屋番号を確かめていく。
――201、202、101、102。
探りながら思い出すのは、児童相談所から情報提供された部屋番号。
「202」
そこに母親と一緒に住んでいる
――興津くん……。
亜紀が職務上、他人と知り合う場合があるのは、大雑把にいって一つだけ。
補導した事があるからだ。
――コンビニの店内で、堂々とパンを盗み食いしてた……なんて。
最初は予想もしていなかった光景――棚の前に座り込み、その場で棚にあるパンの包装を破ってがっついている最中だったのだ。
鞄に入れる、服の下に入れて隠すなど、そういった手段を使って店から盗み出すのではなく、棚にあったパンを鷲掴みにし、そのまま食事を開始したという興津少年を見た店員は軽く混乱した後、警察に連絡した。
駆けつけた警官――亜紀だった。
――事情は、分かりました。
分かっていなくとも、そういうしかない事情――興津少年の母は離婚したシングルマザー。
――最もいい方法……一番、いい方法を考えましょう。例えば、哲矢くんを一時的に、児相が一時お預かりさせていただいて、その間にお母様に生活を立て直していただく形もあります。
児童相談所の職員も、興津母に対し、熱心な言葉を向けていたのだが、母親はどこか違い場所を見ているような目をしているだけだった。
――兎に角、今の状態では哲矢くんは……。
児童相談所の職員が口にしている言葉は、その辞典で亜紀にも届いていなかった。
室内の荒れようが、児相の職員が口にしている言葉「一番、いい方法を考えましょう」を絵空事のように感じさせている。
分別されていないゴミというよりも、買ってきたら片っ端から食べて、そのまま目についたビニール袋に突っ込んだだけの食品トレーや割り箸が乱雑に置かれてる状況は、この部屋そのものがゴミ箱だ。
――お母さんがしてるんじゃないわね。これは、何も教えてもらっていない子供がやってる。
興津少年の仕業だとは亜紀のカンに過ぎないが、正解だ。
母親は殆ど帰宅する事なく、彼氏の家に入り浸っているという。
――考えが纏まらない。
よくある事とは聞くが、実際に出会すのはレアケースだった。
児相の職員も、ハッキリと結論を自分の中で出して、それに向かって話をしているかと言えばそうでもなく、興津少年は、何も分からないという顔だ。
児相の職員は、相談して決めようと思ってきたのだろう。
だが母親が唯一、結論を出していた。
――児相だか何だか知らないけど、人ン家の事情に口突っ込むなっつーのよ。鬱陶しい。
話はそれっきりだったらしい。らしいというのは、亜紀が立ち会えた話し合いは、その一回だけだったからだ。後は亜紀が個人的に児相へ問い合わせて断片的な事を聞くしか手段がなかったのである。
「結果、何も進まなかったんでしょうね」
思わず亜紀が呟いた事が、興津親子に起こった事の結論だった。
「すみません」
101号室のチャイムを鳴らし、
「警察の甘粕といいます。お向かいの、興津さんの事で聞きたい事があるのですが……」
繰り返す。足で稼ぎ、目撃情報を蓄積していく事が、日本の検挙率を下支えしている重要な捜査だ。
とはいえ、このエルディム4では大した情報は得られなかったが。
「犬を飼ってるっていってました。外出する時でもテレビを付けっぱなしにするのは、寂しがらないようにだった」
「いってました、という事は、散歩させている所を見た事は?」
亜紀の問いかけに対し、住人は「さぁ……私はないですね」と答える。
その答えは、エルディム4の住人が皆一様に出した言葉だった。
「吠え声を聞いた事もないし、随分、大人しい子を飼ってるんだなぁ、って。興津さんも、テレビとエサがあれば、2、3日なら平気で静かにしてるっていってましたよ」
しかし亜紀には、興津親子が犬を飼っていたかは記憶にない。
――つまり、これは……。
口元に手を遣った亜紀は、眉間に皺を寄せて考える。
捜査願いを出したのは母親であるが、興津少年の境遇は児相に持っていった相談からこっち変わった様子は見られない。
――素直に捜索だけが仕事?
児相を始め、様々な機関、組織との連携を必要とするはずだ。その場合は防犯課少年班の職務からは離れてしまうという事になる。
持ち帰り、上司と相談して関係各所へ連絡をしていく――、
「ありえない」
亜紀が呟かされた言葉が、結論だ。
この事件は急を要する。
ならば亜紀は、防犯課少年班に所属する女性警察官とは別の顔を見せるしかない。
自分が必要だと感じた事件に全力で協力する事を、自らの魂と引き換えに契約を結んだ悪魔の力を借りて。
アパートの死角に入り、悪魔――亜紀の場合は魔王を呼び出す言葉を言の葉に乗せる。
「ヨッド・ハー・ヴァル・ハー」
呪文と共に空中に描かれる魔方陣に姿を現すのは、魔王という言葉から受けるイメージ――豪奢な衣装に、禍々しい角やヒゲといった事とは無縁の姿をしていた。
リネンのジャケットにシャツ、ノータックチノというファストファッションに身を包んだ男を、魔王・ベクターフィールドという。
その魔王は……、
「ほらよ。スモールサイズのバニラとジャモカコーヒーのダブル。モンジローさんのカップ付きだぜ」
アイスの入ったカップを、亜紀に差し出していた。
「……いらないけど……」
眉を潜める亜紀に対し、ベクターフィールドも頬を痙攣させ、
「俺もお前にやるために買ったんじゃねェ!」
右手にダブルのカップ、左手にシングルのカップを持っているという事は、誰かといたのだろう。
そしてペースを乱される事は、ベクターフィールドが最も嫌う事の一つ。いちいちアポイントメントを取って召喚していないのだから、仕方のない事とはいえ。
「とりあえず戻せ。今、立て込んでるんだ。南にあるモールの中野アイス屋だぜ」
「わかった」
頭を掻くベクターフィールドに、亜紀はもう一度、呪文を口にした。
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