五芒星まにまに奇譚

小浮あまお

第一話「影遊び」

一 

 秦野光里はたのみつりは焦っていた。

 背中に背負しょった短槍をカタカタと鳴らしながら、土埃の舞う道を駆けていく。

 道行く人々が、「あら光里さん、そんなに急いでどこ行くの?」、「好い男でも追っかけてるのかい、秦野さん」などと声をかけてくるが、うんとかまあとか適当に返しつつ、光里は足を止めることなく走っていた。

 秦野光里は定町廻じょうまちまわりの役人である。定町廻りとは、人殺しやかっぱらいなど、差配人や町名主では対応できない事件を調べる、町の治安を守るおおやけの役職である。

 その仕事のひとつとして、担当地域の見廻りがあるが、それにかこつけて馴染みの弁当屋に顔を出したことが、事の始まりであった。

 女二人の連れ合いが営む小さな弁当屋【まんじ屋】は、格式ばった店ではない。客も大店おおだなの主人といった金持ちなどではなく、周辺の長屋に住む人々がほとんどである。

 というのも、光里の担当地域である【三こま】は、裏長屋に住む振り売りや職人連中にしてもそれなりの収入があり、の端っこの端っこあたりに位置する町に比べれば、よっぽど生活は安定している。

 よって【三こま】の人々は、日々の食事を弁当や飯屋で済ませることが多いため、この町には食い物屋が多い。

 その中でも【卍屋】は、美味いと安いが揃った店として繁盛しており、昼飯時や夕飯時になればあっという間に弁当が無くなってしまう。光里もここの弁当が大好きなので、【卍屋】の周辺を見廻る際には、必ず顔を出すのである。


「あら、光里さん。いらっしゃい」


 常連客の姿に、店先で弁当を並べていた小菜こなが笑みを浮かべる。糸のように細い目が弧を描き、ふっくらと柔らかそうな唇が綻ぶ。

 一本に編み込んだ萌黄もえぎ色(黄緑色)の髪と、薄桃色の小袖が、まるで葉桜を思わせる。三十路半ばの、春の陽気を身に纏ったような優しげな女であった。


「こんにちは、小菜さん」

「こんにちは。今日も一番ですよ」

「やった!」


 一番と聞いて子どものように喜ぶ光里といえば、袖のすっきりした稽古着のような着物に、裾がすぼまった軽衫かるさん(袴の一種)といった、動きやすい恰好をしている。頭には刈安かりやす色(薄い黄色)の布を巻き、後ろでひとつにまとめた山吹色の髪を、その間から垂らしている。

 つり上がった目につんと立った鼻、尖った顎といった、いわゆる狐顔であるが、どこか柔らかい雰囲気をした二十三、四頃の女である。

 もじもじと身体を揺すって背負った短槍の位置を直すと、腰に下げた十手の朱房が揺れる。光里は並んだ弁当を眺めた。今日は五目飯に焼き魚の弁当と、鶏の揚げ物の二種類である。

 ちょっと迷って揚げ物の弁当を買い求めると、店表に置かれた床机に腰かけた。箸を借り、早速弁当を開く。

 すると、心得たように奥から白湯が出てきた。湯呑みを床机に置いた人物は、小菜の隣で薄っすらと微笑んだ。


「やあ、光里さん。毎度どうも」

佳弥よしやさん、お邪魔してます」


 佳弥は一言で表すと、美形である。美人というよりも、そちらの方がしっくりくる。

 キリッと整った眉に涼しげな目元、薄い唇。その整った顔と立ち居振る舞いは、そんじょそこらの役者どもなど屁でもないほど颯爽としており、道行く女子おなごの視線を惹きつける。

 さっぱりと短い赤紫色の髪に、足さばきの良い軽衫。地味な色柄の着物といい、渋さもまた格好の良い、三十路後半の女であった。


「佳弥さん。玉子焼き、もうひと切れ下さい」


 光里はここの玉子焼きが大好物である。ほのかな甘みと出汁の香りが丁度よく、初めて食べた時は「こんなに旨い玉子焼きがあるのか」と感激したものだ。

 弁当に入っている分だけでは足りなくて、店先に小売りされたおかずにちらと目を遣った。

 佳弥は一層笑みを深くすると、奥へ行き、小皿に玉子焼きを乗せて戻ってきた。つやつやと滑らかな玉子焼きは焼き立てのようで、切れ目からほかほかと湯気を立てている。


「大事なお得意さんだ。店の奢りだよ」


 光里の弁当に二切れ、箸で摘まんで、玉子焼きを乗せてくれる。光里は目を輝かせて礼を述べ、丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます!」

「これからもご贔屓に」


 佳弥と小菜が立ち働くのを眺めながら、弁当を食べ進めていると、客がちらほらとやって来た。

「おや、秦野さん。まーたここで油売ってんのかい」、「光里さん、ほんとここの弁当が好きだねえ」などと話しかけてくる。

 【卍屋】の弁当で昼飯を済ます時は、いつも店先で食べることにしている。

 よって、近隣の人々にとっては、槍を担いだ役人が弁当屋の軒先で弁当にがっついている光景は、もはやいつもの風景なのである。

 光里になにか用がある時は、陽が空の頂点に来る前であれば、まずは【卍屋】を覗きに来るくらいだ。

 佳弥はちょいちょいとたすきを直しながら、連れ合いを振り返った。


「そうだ、お小菜。光里さんに言っておくことがあるんじゃなかったかい?」


 小菜は客を見送ると、「そうそう」と前掛けで手を拭きながら光里の傍へとやって来た。


「光里さん、今朝のことなんですけどね。迷子がいたんですよ」

「おやまあ」


 店の脇の暗がりにしゃがみ込んでいたという。見たことのない顔だったから、ここら辺の子ではない。

 迷子だろうと察しをつけた小菜は、「どうしたの? 迷ったの?」と声をかけたが、返事は無く、子どもはただ黙ってこちらを見上げるだけだった。「こっちへおいで」と言っても来る気配はなく、ひたすらじっとしている。

 ならばと、こちらから近づこうとすれば、怯えたようにビクリと身体を跳ね上げた。

 仕方なく、「ちょっと待っててね。今、湯冷ましを持ってきてあげるから」と店へ戻り、湯呑みを片手に戻ってきた時には、子どもはもういなかった。


「歳は八つから十くらいでしょうか。男の子でしたよ」

「ふむ」

「差配さんにはもう話してありますから、光里さんも見廻りのついでに気にかけてやって下さいな」

「相、分かりました」


 光里は箱の隅をつつくようにして、米粒ひとつ残さず綺麗に弁当を食べ切ると、礼を言って【卍屋】を後にした。

 プラプラといつもの道順で町を廻る。今日も今日とて、町は何事もなく穏やかで、ゆったりと日々の暮らしが流れていく。

 やがて陽が傾き始めると、光里は「やれ、おやつ時だ」と、いそいそと菓子屋へ足を向けた。その時だった。

 昼に、弁当屋で話を聞いた迷子らしき子どもを路地の奥で見つけた。

 薄汚れた着物を着て、草鞋わらじを履いた足が土埃で茶色く染まっている。地面に座り込み、全身から疲れを滲ませたその子は、ただぼんやりと空を見つめている。


「坊や、迷子かい?」


 声をかけ近づくが、ふと子どもの足元に目が留まった。


「へ?」

「……!」


 あまりのことに呆気に取られている内に、子どもは光里に気づくと、パッと立ち上がり、だだっと通りを走って逃げてしまった。

 ハッと気がついた時にはすでに遅し。急いで路地を飛び出たが子どもの姿はどこにも無く、それから光里は大慌てで町中を駆けずり回っているのであった。


 ――ああ、困った……!


 光里の頭の中はしっちゃかめっちゃかに混乱していた。このままなにも見なかったことにして団子でも食いに行きたいが、役人としての義務感と責任感が、怖じ気づく心を押し留める。

 とにかく、早いとこあの子を見つけなければ。下手をすれば大騒ぎになってしまう。

 道行く人に揶揄やゆされるほど、さんざっぱら方々を探し回ると、ついに橋の下で子どもを見つけた。子どもは影に溶け込むように膝を抱え、うずくまっていた。


「ああ、やっと見つけた……」


 はあはあと肩で息をする光里の声に、子どもがこちらを見上げた。

 一歩踏み出すと、ビクリと身体を震わせたが、もう力が尽きたのだろう、逃げ出すことはなかった。

 できるだけ怖がらせないよう、光里はその場でしゃがみ込んだ。緊張のあまり声が裏返りそうになるが、努めて優しい声を出すよう心掛ける。


「私は役人だ。ほら、この頭に巻いている布がそのあかしさ。君のような迷子を保護するのも私の役目だから、安心していいよ」


 子どもはなにも言わず、まるい目をパチパチと瞬かせる。

 光里はふところから、懐紙に包まった饅頭をひとつ取り出した。小腹が空いたら食べようと思い、家から持ち出してきた物である。


「お腹が空いたろう? これをあげるよ」

「……」


 紙を剥がし二つに割ると、小さい方を自身の口に放り込んだ。


「ほら、おいしい」


 子どもの喉がこくりと鳴る。やはり腹が減っているのだ。

「今そっちへ行くからね」と、光里はゆっくりとした足取りで子どもに近づき、再びしゃがみ込んだ。中の餡子がちらと覗いた饅頭を差し出す。


「どうぞ」

「……」


 子どもはおそるおそる手を伸ばすと、饅頭を受け取った。ひと口食べて美味かったのだろう、猛然とかじりついた。

 子どもが落ち着くのを待ってから、光里は立ち上がると、中腰で手を差し出した。


「まだ腹が減っているだろう? 飯を食いに行こう。な?」


 子どもは甘みを求めてぺろぺろと指を舐めていたが、光里を見上げると、おそるおそる小さな手を伸ばし、そっと預けた。

 光里は優しくその手を握ると、子どもを立ち上がらせ、橋の下から歩き出た。

 傾き始めたとはいえ、空には燦然さんぜんとお天道様が光り輝き、その対照のように、黒々と濃い影があたりに落ちている。光里は子どもの足元に視線を落とすと、眉をひそめた。

 子どもには、影が無かった。

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