空と人形

怪人X


 美しい景色だった。

 足元は穢れなく真っ白で、ふんわりとした雲。そして一面が空色で、よく晴れた世界。天国とは、このような世界だろうと、多くの人は想像するだろう。


 けれど今、そこにあるのは、じんわりと染みていく黒ずんだ赤色だった。

 真っ白な雲に染み込み、澱ませ、赤黒く染め上げる。そこにあるのは既に事切れた死体だった。

 そのすぐ側、無惨に切り刻まれたそれを無感情に見つめる白い子供。白かった子供、と言った方が正しいだろうか。髪や目、肌や服に至るまでどこまでも真っ白であっただろうその子供には、返り血が付いている。その小さな両手には、同じく血に濡れた双剣が握られている。

「終わりましたか、ソラ」

 その子供に近付き、声を掛ける青年。

 青年は子供とは真逆で、髪や目、服は上から下まで真っ黒だった。肌の色と、スーツの中に着ているシャツだけが白くぼんやりとしている。

 血も浴びていない青年は涼しげな表情で、けれど柔らかな声をしていた。まだ十代のような幼なさが残る顔立ちにも見えるし、その落ち着き払った佇まいは三十を過ぎているようにも見える。カチャリ、と細い指で眼鏡を直し、ソラ、と呼んだ子供のすぐ隣までくる。

「おわった」

 こくり、と頷いてソラは返事をする。

 まだ十にも満たない見た目に反し、その声は抑揚のない機械音のようだった。子供特有の少し高い音ではあるものの、感情というものを一切含んでいないような音の羅列は、かえって不気味さを加速させている。

「……馬鹿なやつ。裏切るから、こうなるんだ」

 物言わぬ死体を見て、青年の表情は歪む。

 そこに浮かぶ感情は複雑で、少なくとも起伏の薄いソラには読み取ることは出来ない。ただ、じ、と青年を見つめて黙っている。


「マスター」

 上から、鈴の音を鳴らすような涼やかで可憐な声が降ってくる。

 ふわり、とまるでドレスのような豪奢なワンピースを揺らして、空から愛らしい、人形のような少女が訪れる。その背中からは大きく真っ白な羽が生えていた。

「いばら。早いですね」

「ええ。神様が、そろそろ終わるだろうと」

「何でもお見通しですね、あの方は」

「これは回収していきますね」

 青年といばらと呼ばれた少女が二、三回話をする。どちらも淡々と、必要最低限、といった対応だ。

 ただ一つ、いばらの表情と声音はとても柔らかい。優しさや暖かさをまるごと詰め込んで柔らかく煮たような、慈愛に溢れたものだった。まさにイメージ通りの、天使のような。

 切り刻まれた死体をいばらが持ち上げる。華奢な腕なのに軽々と、質量も重力も感じさせない。不思議な光景だ。

 持ち上げたそばから、血が消えていく。死体についているものも、雲に染みたものも。何もかもなかったかのように、痕跡が消えていく。

 そのまま、細腕で死体を抱えて再び空へと飛び立ついばらを見送った。

 あとに残ったのは二人だけ。真っ黒な青年と、白く血に濡れた子供だけ。

「シキ」

 詩季。それがこの青年の名前だった。その名を、表情が変わらないままソラが呼ぶ。

 ソラの背丈は詩季の胸下ほどしかない。腹部のあたりにちょうど顔がある。だからソラは顔を上げて、詩季をじっと見つめている。最初に名前を呼んで以降、物言わず、ただ。

 これはいつも仕事が終わったあとのソラの定番の行動だった。

 最初にこれをしたのが、いつだったかは覚えていない。気付いたら、こうなっていた。

 詩季は無表情のまま見つめてくるソラに手を伸ばし、その手を頭に乗せる。白く細い髪は少年らしく柔らかく、手を動かして撫でるとくしゃりと髪が崩れる。

 詩季もソラも何も言わない。ただしばらく、こうして詩季がソラの頭を撫でるだけ。それだけだった。








 詩季とソラ。二人の仕事は、『汚れ仕事』とそう表現して相違ない。

 裏切り者を調査して、必要なら始末する。シンプルに言ってしまえば、それだけだ。


 ソラが泉で返り血を洗い流している間に、詩季は神様へ報告に向かう。先ほどいばらが死体を回収した時点でもう仔細はわかっているのだろうが。


 ここは人間の住む世界ではない。

 人が死んだあと、正確に言うのなら、死を待つ間に訪れる世界、だろうか。だから住むというよりは、一時的に滞在する場所だ。天国か地獄、どちらかに行く前の。あるいは、生まれ変わる前の。

 人は死んだら審判を受ける。生前の行いに対しての審判だ。それによってこの世界を訪れた魂の、行き先が決まる。

 その審判が確定するまでは魂はここに留まり、まだ現世の体は意識がないまま生存を続ける。そして審判が確定したら魂はあるべきところへと行き、現世の体も死が確定するのだ。

 体がまだ生きているとはいえ、魂が離れ、ここに来ている時点で死は確定している。

 けれど時々、ああしたトラブルが起こる。内容は様々だが、多くは死を受け入れず、現世に帰ろうとする、というものだ。そんな方法はないというのに。

 先ほど死体となった人間の魂も、審判を受ける前に逃げようとしたために、切り刻まれて地獄へと送られたのだ。あれは生前、随分悪いことをしてきたようだったから、どちらにせよ地獄行きだっただろうけれど。

 ともあれ、そういったトラブル全般を解決するのが詩季とソラの仕事で、補佐をしているのがいばらだ。そしてその仕事を依頼するのが、神様。そういう仕組みになっている。


「失礼します」

 入室の許可を貰い、詩季は部屋の中へと入る。

 だだっ広く物がない部屋には、椅子が一脚あるだけだ。そしてそこに座っているのが神様。彼はいつも楽しげに笑っている。

 二十代後半ほどの若々しい男性の姿をとっているが、神様に決まった姿や性別はない。先日詩季が会った時は、十代の女性の姿をしていた。その前はおじいさんだったか。神様にとっては姿などどうでも良いものなのだろう。

 けれどどんなに姿が変わっても、神様のことはすぐにわかる。それほど圧倒的な存在感を持っているから。オーラ、とでも言うのだろうか。


「詩季、お疲れ。今回も早かったな」

「いえ。また今回も黒でした。……学習しないやつばかりです」

「ま、仕方ないさ。人間がやることだから、感情移入するのはな」

 肩をすくめて冗談がてら話す神様と対照的に、詩季は苦虫を噛み潰したような表情だった。


 必ず、いるのだ。魂の行き場を決める審判を嫌がる輩が。

 その粛清対象は、先ほどのような死んだのに死を確定されたくなくて逃げ出す魂ばかりではない。審判を待つ魂に感情移入して、それを救おうなどと思い上がる魂もだ。

 今回、粛清した人間が同情を誘い、唆された審判員もいた。最後に踏みとどまったから今回は殺さなかったが、名と顔はしっかり把握した。次はない。

 魂の審判をするのは、人間。それが神様が決めたルールだから。とはいえ、人間はひどく醜い。嫌気がさす。神様から許可さえおりれば、あの審判員もきちんと殺したのに。

 どちらにしても、神様に対する裏切り行為には違いない。

「例えもとが人間だったとしても、神様に認められて仕事をいただいた存在。それなのに、何故裏切るのかわかりません。審判だって、受けるのは義務です」

「あー。詩季は真面目だからなあ」

「どうしても、人間の審判を行うのは人間でなければならないのですか?天使ではいけないと?」

「人間がやってきた行いを審判するのは、人間にさせるべきだ。天使には感情がないからな」

「審判に感情は不要です」

「まあ、そう言うなよ」

 ふつふつと憤る詩季に、神様は逆にへらへらと笑っていた。いつもこうだ。

「ソラはどうだ?」

 露骨に話を逸らされたが、詩季は気にしない。元々、神様に意見することさえ烏滸がましいことだ。神様には神様にしかわからない考えがあるのだろうとも思う。

「変わりません」

「お前の前では笑ったりしないのか?俺が話しかけると、あいつほぼ動かないんだけど」

「……ほとんど表情は変わらないですよ。仕事以外では、あまり動きもしません」

「つくづく、不思議なやつだよなあ。ソラは。いばらなんていつもニコニコしてるし、小言も五月蝿いぞ」

「さあ。性格じゃないですか」

 そう答えたものの、詩季にもその実よくわからない。

 ソラといばらは同じ天使だ。感情のない天使。神様に仕えている存在。けれど、物事を円滑に進めるために、表情等はある。天使たちは感情を模倣して、微笑んでいるのだ。

 けれどソラは生まれた時から、それが欠陥していた。







 神様への報告を終えて、詩季は自室へと戻る。ソラも同じ部屋で暮らしているから、泉で水浴びしたあとはここに戻ってきているはずだ。

 部屋の扉を開けて中へ入ると、やはりソラは戻ってきていた。リビングにある椅子に座り、じっとしている。髪や服はすっかり綺麗になっていて、もとの真白に戻っている。ただ、ぽたぽたと水滴がソラの肩や床に落ちていく。そのことを除けば。

「ソラ。また拭かないで……」

 天使は風邪等はひかない。けれど、水浸しのまま歩き回るのは良くないと詩季は考えているし、そう話している。

 けれど毎回毎回、水浴びを終えたソラは、びしょ濡れのままこうして座って待機しているのだ。

 ここまで来る途中、廊下が濡れている時点で、またやったんだろうなと詩季は思った。この世界には自浄作用があるから、廊下等の建物はそのうち勝手に乾いて綺麗にはなるけれど。

 何度も注意したし、タオルはすぐ取れる場所に準備した。それでもこれだ。そのうち詩季は諦めて、タオルを取り出してソラの髪や体を拭いてあげるようになった。詩季が拭かないと、自然乾燥待ちだからだ。流石にそれでは時間が掛かりすぎる。同じ部屋にいる以上、視界に入れば気にもなるし。

 仕方なく今回も、座ったままのソラをタオルで頭から拭いてやる。こうしてタオルドライするのが嫌なのかと思えば、詩季がするぶんには大人しくしているからよくわからない。

 ソラは終始無言だし、表情もない。されるがままだ。

 水浴びもどうやら服ごといっているようだ。だから中までビシャビシャなのだが、着替えはしたがらないから表面だけをよく拭いて、結局自然乾燥待ちになる。それでもまったく拭かないよりは、随分早く乾く。


 いばらの背には大きく美しい真っ白な、天使らしい羽がある。

 けれどソラの背にあるのは、とても小さく未熟な羽だ。だから空を飛ぶことも出来ない。

 だからこそ、ソラは詩季と一緒にいるわけだが。いばらのように立派に育てば、神様に仕えるようになる。そうなれば、こうして同じ部屋でともにいることもないだろう。

 それが良いことなのか悪いことなのかは詩季には判断がつかないけれど。

 ただ、じっとそこにいるだけの存在であるソラは、詩季にとって苦ではない。それは確かな事実だ。

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