第48話誠実な音楽(2)
「お疲れさまでした」
そう言ってグラスを当てて、ビールを勢いよく飲み込む。目の前に座る、あの日以来の奏に心臓は激しく拍動していて、どんな顔で何を話せばいいというのだろうか。久しぶりの有華に会話が集まる間も、私はただ静かにアルコールを飲み下していく。バンドの話から、就活の話まで流れていく会話の最中ふと前へ視線を向ければ奏と目が合った。
「じゃあ今はメジャーデビュー目指して頑張ってるんですね」
「そうそう、だから応援してくれんの有難いよな」
「そうだね」
すごいねと有華が笑って、私はそれに下手な笑みを返す。話が耳から零れ落ちて、脳まで届いてくれない。意識はいつだって目の前の彼女に向いていて、彼女が静かにビールを飲んだり枝豆に手を伸ばしたりするのを視界の隅でずっと伺っている。いつもより、静かな気がするのは気のせいだろうか。
「なんか奏静かじゃね?」
「え?」
私の言葉を代弁するかのように千羽さんが奏に語りかける。テーブルに落としたお刺身を拾い上げながら奏がなんでもないのだと答えるけれど、その声色は随分と震えているような気がして、見つめていれば視線が交わる。
「ま、奏は今日凄い緊張してたからね」
「確かになー。 今更なのにな!」
「奏さんってすごい真面目なんですね。 歌も前の時よりすっごく上手になってるし!」
「昔から音楽バカだよな、奏は」
乾いた笑いを返す奏はいつもの飄々とした印象とは遠く、私は静かにその様子を眺めながらお酒を進めていく。一杯目が空になって、すかさず千羽さんが次を頼んでくれる。
「まあ、前みたいにカッコ悪いところは見せたくなかったんじゃない?」
そう言って高槻くんが微笑みかければ、奏は思い切り高槻くんの背中を叩いた。確かに前回は全力を出し切れていなかったのかもしれないけれど、それは良く見ていなければ引っかからないような、そんな些細なものだったようにも思う。プロを目指すのならそういったものもやはり改善すべき点なのだろうか。
「梨紗」
「え、な、なに?」
「……お酒、多分ペース早いよ」
運ばれてきたビールを取り上げられて、代わりに水を渡される。ついでにと適当につまみとサラダを盛ったお皿も渡された。そう言えば、まだ何も食べていなかった気がする。
「奏はよく見てるねぇ」
「湊はさっきからうるさい」
高槻くんの肩を叩く奏は、私を見た後に逃げるように右へと視線を逸らす。確かに、そうか。お酒のペースを早いと判断されるのも、こうして注意されるのも、全部。本当によく見ている。どこまでが誰にでもすることで、どこからが特別になるのか、その尺度は人それぞれだから私は彼女のそれを普通誰にでもするものだと思っていた。でも、そうじゃないのだ。
「……ありがとう」
目の前の彼女に愛おしさが募る。これが己惚れるということなのだろうか。私が頬を緩ませてしまえば、彼女が同じように笑うからくすぐったくなる。喧騒の中、騒がしい居酒屋の中で、聞こえる音、見える景色全部、奏が中心になってしまっている。
それを、もう苦しいとは思わない。
「お刺身美味しかったよ」
「ん、もらう」
いつもよりずっと下手くそな会話。喧騒の中に溶けてしまうようなぎこちないそれが心地よく、そして嬉しかった。今まで散々会話をして、それ以上のことだって両手では数えられない位してきた。それなのに、なぜだろう。今までで一番下手なこの会話が、何故だか一番近くに感じるのだ。彼女とこんな風にいられたらどんなにいいだろう。あり得ない空想ではなく、地続きの未来として描けるのなら、それはどんなに嬉しいことだろう。
「あの電話のおかげでさ」
座布団の上で体育座りをしながら奏は言う。
「なんか吹っ切れたみたいで。 色んな事に集中できるようになったんだよね。 今日のライブも、そのおかげで本当に上手くいったなって思う。 うまくやろうじゃなくて、精一杯やろうって、改めて思えたっていうか」
ありがとう、なんて私がもらってもいいのだろうか。それは全部、奏が自分で決めて行動してきた結果じゃないのだろうか。私はいつだってただ受け止めることしか出来ていない。それでいいと奏は言ってくれているのかもしれないけれど、私は。
「飲み放題ラストオーダーだってよー」
「ビール」
「あ、じゃあレモンサワーで」
次はいつ会えるだろうか。そもそも、私が自分の意思で彼女に会いに行ったことがどれだけあっただろうか。私はいつまで待つだけなのだろう。踏み出せなきゃと思っていながら、後何度足踏みして、後何度奏の言葉を待つのだろう。
「奏」
「ん?」
喉奥が震える。何を言うべきか、どういえばいいのか。踏み出すって具体的にはなんなのだ。言葉が詰まって、私は咄嗟に忘れたと笑う。運ばれてきたレモンサワーを口に含んで、私はまた言葉を探す。
奏の言葉が少しずつ実感を持って伝わってきていること。奏が真っすぐに向き合っているのだと思うたび、それを嬉しいと感じること。信じてもらえるまで頑張ると言ってくれた奏の言葉に応えたい。その為に、私が出来ることについて。いや、もっとシンプルなのかもしれない。
もっと、奏といたい。
「有華ちゃんと梨紗ちゃんはJRで、陽菜さんは地下鉄か」
「俺と晃が陽菜さん送るよ。 奏、近藤さんと梨紗ちゃん、お願いできる?」
その言葉に奏が頷く。ああ、まただ。喉奥で言葉を詰まらせている間にどんどんと
周りから助けられている。私はきっと、自覚できていないところでもっとたくさん助けられてきたのかもしれない。でも、本当にそれだけでいいのだろうか。
誠実に向き合う奏を見ていて思う。私も、次に進みたいと。
「外寒くなってきたよね」
「ですね、特に夜は」
外に出れば、冬の気配すら感じるような風の冷たさに肩を竦めた。言葉の少ない私の代わりに、有華と奏が言葉を交わす。ライブの余韻を語る有華に、肩を揺らして笑う奏を隣から見つめる。新美さんの時のようなもやもやとした感情は沸いてこない。それは有華が相手だからかもしれないし、奏を少しは信じられているからかもしれない。ただ、もっと奏といられたらいいのに。そんな思考だけがずっと寂しさのような形をして心に居座る。寂しくて言葉が出てこない、そんな状況は初めてだ。
「じゃあ、気を付けて帰ってね」
「はい、奏さんも気を付けてください」
「ありがとう。 梨紗も、またね」
「……うん」
名残惜しく手を振り返せば、奏がじっと私を見つめる。私が吐き出そうか迷っている言葉をきっと待っている。有華が振り返って歩き出すから、私はそれに続いて歩き出す。二人きりじゃないこの状況で、奏は深追いはしてこなかった。
深追いしてくれたら話せたのだろうか。まだ一緒にいたいと。なんて、何度同じことを繰り返すのだ、私は。
「……」
残り約二分と表記された電光掲示板を見上げて立ち止まる。踏み出したいと、進みたいと思っているのに。何度その機会を見送っているのだろうか。本当に、このまま電車に乗ってしまっていいのだろうか。いや、もう奏が乗っていたら?
今日がこれで終わるのが、こんなにも寂しいのに。
「……ごめん、奏にちょっと言い忘れたことあった」
「え?」
「ごめん、先に帰ってて」
「え? そんなに重要なの?」
「大切。 大切なのに、私……まだ言えてない」
誰かが踏み出してくれるのも、誰かに背中を押されるのも、もう十分なはずだ。奏だって言ってくれたじゃないか。言葉はどれだけでも聞くって、どれだけ長くても、ちぐはぐになっても、ちゃんと聞くからって。言わなきゃ、私も。伝え方が分からないとか、言っていいのかなんて迷うのもやめよう。
上った階段を駆け下りて、奏が向かった乗り場の階段を駆け上がる。どうか、まだいますように。言いかけて言えなかった言葉を、今度はちゃんと聞いてほしいから。乗り場からアナウンスが聞こえる。まだ階段は長くて、私は必死に彼女の名前を呼んだ。どうかこの発車ベルの音にかき消されないで。
「奏!」
階段を上り切ったのと同時に電車の扉が閉まる音。必死に酸素を取り込んで、足元に落ちた視線をゆっくりと上げる。ああそうだ、先に携帯で連絡すれば早かったのに。そんな今更な事が酸素を取り込んだ脳にようやく浮かぶ。でも、
「梨紗?」
間に合ったのなら、それでいいか。
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