駆けていく花子さん
ぼくははじめて嘉勢を見る。嘉勢は落ち着いた表情で、萩尾を見ている。いつもの嘉勢らしい毅然とした態度だ。そのはずなのに、どこか不気味に思える。
芹澤さんは赤くなった目で嘉勢を睨む。
嘉勢は歯牙にもかけず、萩尾に切り出す。
「次はわたしの番でしょ、めぐるちゃん」
「そうだね。十日に静奈ちゃんがしたこと、教えてもらっていいかな」
嘉勢は居住まいを正した。
「わたしは上野くんと美術室で待ちあわせをした。ちゃんと午後六時だよ。もちろん鍵は持ち出してなんかいない。ただ上野くんと、お互いの関係について話すつもりだった。でも、上野くんはこなかった。それだけ」
静かな口調だけれど、有無をいわせぬ気迫があった。
芹澤さんがなにかいいたげに体を向けるも、萩尾は手で制す。
「あの日は早めに帰ったって、静奈ちゃんは最初いってたと思うけど」
「いい出しにくかったの。疑われたくないし」
「上野くんは、準備室にもいなかった?」
「……確認はしてない」
たぶん、準備室の扉はすでに閉まっていたのだ。
そしてその向こうには、上野がいたのではないか。
ごめんなさい、と嘉勢は小声で謝った。
「だから、ひき返した」
嘉勢は帰る。
上野は死ぬ。
これで、すべておわり。
上野の死は自殺で、密室は閉じたまま。
けっきょくは、ぜんぶ妄想だった?
濁った空気が室内に満ちていく気がする。粘りけのあるなにかが体中に絡みつく。やり場のない倦怠感と虚無感。
嘉勢は、それでも落ち着き払っていた。
昼間のためらいが嘘のように。それどころか、この十日間がなかったかのように。
嘉勢がなにかを隠していると思っていた。あれはぼくの錯覚だったのだろうか。けれどもう、わざわざ問う必要がない。紙切れと脅迫状の問題は残るけれど、少なくとも芹澤さんは嘉勢に追求しないだろう。
謎解きはもうおわりだ。
だめ押しのように萩尾が尋ねた。
「美術室へ向かう途中、誰かに会ったりしてないよね?」
「芹澤さんには会ったよ。廊下ですれ違った」
いわれて芹澤さんが嘉勢をふり返る。
「なにいってんの。あんたなんかと会ってない」
「とり乱してたから、気づかなかったんじゃないの」
「だったら、美術室から出てくる上野にも会ってるでしょ。あいつ、うちのこと追いかけてきたもん。途中で諦めたみたいだけど」
追いかけてきた?
「愛也くんには会わなかったよ」
嘉勢は静かに芹澤さんを睨む。
萩尾は眉根をよせた。
「静奈ちゃん、べつの誰かだったんじゃないの」
「でも、背格好も髪型も似てたよ。明るい髪で、冬服だった」
芹澤さんが答える。
「うちはもう夏服に替えてたって」
「じゃあ、違うね。静奈ちゃん、顔は見てないの?」
「見てないかも」
三人の会話を聞きつつ、ぼくは両手で顔を覆う。
嘉勢がすれ違ったのは芹澤さんではなかった。
いまさら登場人物が増えるのか?
けれど、美術室は校舎の端だ。ほかに出てくる場所はない。上野は芹澤以外の誰かと話していた。萩尾のいっていたマネキンの花子さんだろうか。冗談じゃない。
まさかその人が、上野の自殺の引き金なのだろうか。ぼくたちの知らない上野の交流関係ならば、この騒動はまさに徒労だったということだ。心底どうだっていいと思えてくる。もうつきあいきれない。
両手をおろす。視界が蛍光灯の眩しさにわずかに明滅する。外はもう暗くなりつつある。この無駄な会合のおわりを進言するときだ。
ぼくは立ちあがった。
「ちがうだろ」
背後で甲高い声がした。
ふり返ると、竹村くんも立ちあがっていた。
寒さに耐えるように首を縮こまらせ、肩をいからせている。小さい白い顔を突き出し、眉根をよせながら細い目を見開いて、上目づかいに萩尾を見つめる。額には玉の汗がうかんでいる。
尋常な様子ではない。怯えと敵愾心を必死に抑えこんでいるかのようだった。
ぼくはまた顔を覆いたくなる。
ここで、竹村くん? ただの傍聴者ではなかったのか。
「なにかな、竹村くん」
「いわずにすませるつもり?」
竹村くんは萩尾に向かっていう。ぼくを見てさえいない。
「いいたいことがあるならいってよ」
思わず怒気を含んだ声が出た。
竹村くんは瞬時、あっけにとられた顔でぼくを見た。けれど、すぐまた渋面をつくると、萩尾に向かって攻撃的な口調でいいはなった。
「萩尾さんもあの日、美術室にいたじゃないか」
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