六月十六日月曜日②

 剣呑な事情がなくとも、部活に参加するのはやぶさかではなかった。

「あ、太一くん」

 美術室に入るなり、嘉勢が声をかけてくれた。ぼくは軽く手をあげて返す。

 教室の前方はデッサンをする人のために机がどけられ、白布を敷いた台のうえの対象物を椅子が囲んでいる。うしろの二列だけは普段どおりの配置である。

 嘉勢はデッサン用の席についていた。

 対象物は、瓶に挿した青色の紫陽花だ。

 ぼくたちのほかには萩尾と竹村くんしかいない。萩尾は西側の窓際、最後尾の席で黙々とイラストをスケッチブックに描いている。竹村くんは反対の東側の席で、中庭に向かって水彩にとり組んでいる。

 ぼくは嘉勢の隣に立つ。

 彼女の画用紙では、無数の花びらが輪郭を整えつつある。

「嘉勢ってむかしから絵やってたんだっけ」

「やってないよ。中学から」

「二か月でこんなにうまくなるんだね」

「ありがとう。それっぽくやってるだけだけどね。太一くんも回数重ねればすぐできるようになるよ」

 嘉勢は微笑む。ぼくは思わず視線をそらす。

「そうなんだ。やってみようかな」

「ほんとに? そういってまた何日もこないんじゃないの」

「そんなに信用ないかな」

「めぐるちゃんが愚痴ってたよ」

 萩尾をふり返るも、顔をあげる様子はない。

 ぼくは出まかせをいう。

「こんどは本当だよ。ちゃんとやってみるつもり」

 道具を探しにいく。備品の配置は以前に出席したさいに聞いている。

 鉛筆と練り消しゴム。画用紙とカルトンとクリップ。

 イーゼルは美術準備室にある。

 美術室の扉と同じタイプの、二枚で一対の引き違い戸を開ける。抵抗感はない。

 室内は以前とあまり変わっていない。大量の血に濡れたであろう、棚や床に置かれていた段ボールが姿を消しているくらいで、上野が死んでいたなんて嘘みたいだ。

 イーゼルを抱えて退室する。

 すこし迷って、嘉勢からひとつ空けた席に座った。

 デッサンは小学校の授業でも何度かやったけれど、具体的なノウハウはほとんど記憶にない。ほとんど見様見真似で描いていく。

 全体の輪郭、花びら、茎、葉。葉だけが異様に大きくなったり、花全体が茎の伸びる位置からずれたり。だんだん収集がつかなくなる。

「うわ、やっちゃってんね、木皿儀」

 いつの間にか背後にきていた萩尾がいった。

 どこか印象が違うと思ったら、白のセーラー服姿だった。衣替えの移行期間は先週末でおわりだったのだ。もうそろそろ暑い時期なのに頑なに着つづけた冬服と比べ、夏服はあまり似あっていない。

 変ににやにやしながら萩尾はぼくの画用紙を指さす。

「もうつながんないよ、それ」

「そんなことない」

「ちゃんと構図考えたの? 全体のバランス考えながらやんなきゃだから、一部だけ描きすぎてもだめだよ。ちぐはぐになっちゃう」

 萩尾はしたり顔でそういって席に戻る。

「最初はみんなそうだよ。へこまなくてもいいって」

 隣から覗いていた嘉勢がいった。

「へこんじゃいないけど、こんなにもバランスが崩れるんだって驚いてる。ちゃんと見てるつもりなのに」

「部分はうまく描けてると思うよ。めぐるちゃんもいってたけど、全体を考えながら各々すこしずつ進めてくのがいいかな。部分として見えてるものを信用しすぎちゃだめ。見えたものぜんぶを紙のうえに再現しなきゃいけないわけでもないし」

「そうなの?」

「そうだよ。素人の意見だけど、要所をおさえてそれっぽくなればいいんだよ。リアルとリアリティは違うっていうか」

「なるほど」

 そもそも目的が違っていたのだ。

 嘉勢は自分の席に戻った。ぼくも頑張ろうと思って鉛筆を削りだして、ふと冷静になる。なんだってデッサンに夢中になっているのだ。芹澤さんはいないけれど、ほかにできないことはないはずだ。

「嘉勢さ、例の紙切れってどうしたの」

「え、捨てたよ」

「捨てたの」

 そういえば握りつぶしていた。

 嘉勢は鉛筆を動かしながら、軽い口調でいう。

「気持ち悪いじゃん」

「先生にいったりもしてないんだ」

「いっても犯人わかんないだろうし。べつに先生たちが頼りないとかじゃなくてね。それに大ごとになるのは、やだよ」

 やりすごしたほうがいい。あの嘉勢もそう思うのだ。ぼくと同じはずなのに、胸のどこかにちくりとするものがある。かすかな違和感。

「誰が入れたんだろうね」

「さあ。おおかた、愛也くんのファンとかなんじゃないの」

「ファンいそうだよね、上野」

「いるいる。つきあってたのって二か月もなかったわけだけど、その間にもいろいろあったよ。嫌味いわれたりとか、わたしがいる目の前で愛也くんに告白してきたりとか」

「なんか、すごいね」

「すごいのかな。まあ、愛也まなやくんはすごいのかも」

「よくつきあってたよね。嘉勢と上野、どっちから告白したんだっけ」

 嘉勢は首を傾げる。

「どっちだったかな。はじめて話したのが、そこの渡り廊下じゃん」

 第一校舎と第二校舎には、それぞれの二階をつなぐ渡り廊下が南北に二本かかっている。嘉勢は一組と二組に近い北のほうを指さす。

「その次の週のことだったと思うけど」

「よく覚えてるね」

「太一くんが愛也くん紹介してくれたんじゃん」

「あれ、そうだったっけ。でも、嘉勢と上野ってクラス一緒でしょ? ぼくじゃないんじゃないの」

「話すきっかけつくったのは太一くんだよ。愛也くんが頼んだんじゃなかったの?」

「そうだっけ」

 四月のことは、あまり覚えていない。

 でも、だとしたら、ぼくにもことの責任はあるのだろうか。

 ぼくが上野を嘉勢に紹介する。上野が死んで、嘉勢が責められる。そして萩尾が出ばり、ぼくまでひっぱり出される。

 でたらめだ。因果関係とは呼べない。

 魔法少女の使い魔が語る、胡散くさい設定程度のもの。

「ぼくが間に入らなくても、いつか上野は嘉勢に声かけてたと思うよ」

「そうなのかな」

 絵のほうに集中しはじめているのか、嘉勢の口調は素っ気ない。鉛筆が画用紙のうえを滑る乾いた音がつづく。

「けっきょく嘉勢って、上野のこと好きだったの」

 ふと疑問が漏れる。

 嘉勢の手がとまる。

「そう見えるかな」

「いや、この前もわかんないっていってたけど、いまのいいかたもけっこうドライだし」

「ドライかあ。でもそうなのかも」

 すこし考えるように、嘉勢は片手で練り消しをもてあそぶ。

「よく知りたいとは思ってたんだよ。わたしなんかに興味もってくれてるんだし、ちゃんと報いたいと思ってた」

 しまった、とまた思う。

「ごめん、勝手なこといった」

「いいの。たぶん、好きじゃなかったんだよ。後悔はあるけど、感情が追いついてこない。こういういいかげんなところが、誰かの気に障るんだね」

「気にしなくていいよ。上野が好きだったのは、嘉勢なんだから」

 嘉勢は目を伏せ、口角をすこしつりあげた。

 無力さに満ちた笑みだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る