封神

 そこに思い至った瞬間、内側から正体の知れない感情が湧き上がった。無意識に唇が開き、肺いっぱいに空気を取り込む。


 それが解き放たれる前に、目いっぱいに張られていた規制テープがバツンバツンと音を立てて千切れた。霊異に対しての壁が綻ぶ。内側のモノを弱らす毒が効力を失っていく。


「やっば、もう保たな……」


 言い切る前に、志途さんはギリッと奥歯を噛み締めて、どんと私の身体を押した。逃げろというのだろう。私だけでも逃がそうというのだろう。


 強い瞳で彼女は、傍らに突き刺していた「車両進入禁止」の標識を握り締め、肉塊に向かって振りかぶった。


「志途さん!!」


 凶刃が振り下ろされる、その直前だった。



「先に僕の相手を頼むよ」


 誰よりも早く私達が狙われていると気が付いていたお兄さんが、肉塊の腕を殴り飛ばした。見た目通り大した膂力はないのか、それとも不意を打たれたからか、ゴム鞠のように弾かれたそれはひしゃげて折れている。


 お兄さんには術師のように「空」を捉える術はない。しかし彼は、志途さんが準備した規制テープを両の手足に巻き付け、限定的な攻撃力を手にしていた。


 そんなことをしているのを見た時は気休めにすらならないと思ったものだけれど、彼が駆けつけてくれていなければきっと私達は死んでいた。


 そのまま彼は私達を護るように『けてけて』の前に立ちはだかる。


「やっぱり。僕も狙うんだったら僕みたいなのよりも綺麗な女の子の方がいいから」


 軽口を叩きながらお兄さんは手数でも膂力でも劣るはずなのに、凶刃をさばき続けている。時に受け流し、時に叩き落とし、時に踏みつけ、時に奴の身体をすら利用し宙をも舞ってかわした。 


 彼が真っ当に闘っている姿を見るのは初めてだが、ここまで動けるとは思っていなかった。単純なスペックが高いというよりは、多分その異常なまでに怪我や死を厭わない精神による動きだろう。誰しもがそれを恐れて身体がすくむ。常に百パーセントのパフォーマンスを発揮できる人間などいる訳がない。それを経験によって克服していくのが普通なのに、彼にはその必要がないのだ。


「うおお、枢さん半端ねえっす! そのままやっちまってくださいっす!」


 恐怖し過ぎてテンションが振り切れているらしい志途さんの襟首を引っ掴む。


「なに馬鹿なこと言ってるんですか! 下がって!」


 この均衡は一瞬だ。今でこそなんとか生き延びてはいるけれど、お兄さんが有効な攻撃手段を持っていない事実は動かない。そもそもあの巨体で轢き潰そうとでも思い至られた時点でもう終わり。


「しっかりしてくださいよ! あなたしかアレを封じられないんですから!」


「そ、そうでした。すみません、いやあ氷華ちゃんはやっぱり頼りになるっすね」


「皮肉と受け取っておきますよ!」


 彼女に褒められた冷静さなんて一秒たりとも保てなかった。テンションが振り切れているのは私も同じらしい。勢いだけはそのままに、お兄さんの邪魔にならないように『けてけて』から離れる。


 もう隠れる術はない。だからもう逃げられない。私達が生きる為には、なんとかアレを封じなくちゃいけない。作戦は、続行だ。


 私達が充分離れたのを見て、初めて彼は『けてけて』に背を向けた。速度ではやはり敵いようもないけれど、結界の内側なら少なからず奴の動きは鈍るはずだ。逆に言えば本来の力を失って尚、志途さんの結界を数瞬で破壊せしめたということになる。


 ──げたげたげたげた!!


 狙いすましたかのように奴が嗤った。

 私達の身体が硬直する。一歩でも遠くに行かなくちゃいけない、そんなこと頭では分かっているのに、芯に刻まれた恐怖は簡単には拭えない。


 両手の凶刃が再び鳴り響く。振り向くと、あの洞のような瞳が真っ直ぐに私達を見つめていた。奪い取られた人々の脚が、こっちに向かって踏み出そうとした。


「意外と冷静だね」


 笑みの形に歪んでいた老いた顔が、今度は不快感に満ちた。

 奴の顔めがけて投げられた小石がぱちぱちと青白い火花を散らす。大したダメージは無さそうだが、無視できるほどではないのだろう。奴は身体を反転させて、自分の邪魔をするお兄さんを見た。


 尋常の物が霊異たる奴に当たるわけがない。あれは小石なんかじゃない。丸められた規制テープ……お兄さんの唯一の武器であるそれだ。


「ほら、僕は丸腰だよ──舐められたままでいいの?」


 ドン──と、『けてけて』の足元が爆ぜた。

 もう奴は嗤わない。ただ両手の刃を打ち鳴らし、自らを愚弄した彼を殺害せしめんと怨嗟を吐き散らす。


 線路に沿うようにして張り巡らせた規制テープの結界が悲鳴を上げる。十全にそれが効力を発揮しながらも、ぐんぐん『けてけて』とお兄さんの距離は縮まっていく。


 あと十秒。あと五秒。あと一秒。


 きっさきが彼の背中に届いた。真っ赤な鮮血が舞う。勝利を確信した奴が嗤った。


 もんどり打って倒れ込みながら、お兄さんも笑った。

 『けてけて』がいるそこは、死をもたらす花が咲き誇っている。


「志途ちゃん!」


 ふっと『けてけて』の顔に影がかかる。首も何もない奴には見えないだろう。高く高く跳躍し、役目を果たさんと志途さんが道路標識を振り下ろす。


「うぉおおらああ!!」


 「車両通行止め」の証が肉塊の脳天に突き刺さる。初めて奴が苦悶を漏らした。だが志途さんが練り上げたあれの真の姿は退魔の武器ではない、封神の祭具だ。

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