《Interval》 彼女を想う彼の十二年間 (1)

 つぐみという女の子を思い出すとき、ようはいつも頬を真っ赤にして病院の壁にくてっと寄りかかっている頼りないすがたを浮かべる。あるいは、そこに至るまえ、自分の背にあった重みを伴うぬくもりを。


 ある日、葉の住む部屋におやじが連れ帰ってきた、ちいさな女の子。

 きちんとしていて、言葉の使い方や箸の持ち方がやけにきれいで、でも終始何かにおびえているみたいに、葉の服の裾をずっと握っていた。葉よりちいさな手と、ぎゅっと服をつかんでくる力のちぐはぐさが切なくて、つぐみが裾を握りしめていると、葉はなんでもしてあげたくなった。目が合えば、冬空みたいに澄んだ眸に惹きこまれ、わらい返されると、胸にぽっと灯りがともった。

 あとから思い返せば、葉はあの女の子に恋をしていたのだろう。


 ――そうは言っても、葉はその後つぐみに再会するまでの長い時間、ずっと彼女のことだけを想い続けていたというわけではない。


 父親が死んで、天涯孤独の身になり、叔父夫婦に引き取られた一年間が葉にとっては人生でいちばんの荒波だった。叔父は子どもには関心がないひとで、夫婦のふたりの子どもたちは、葉の数少ない持ちものをきゃあきゃあ言って隠すような性悪で、血のつながらない叔母はといえば、イライラすることがあると、葉の服を引っぺがして火のついた煙草を押しつけた。

 はじめてされたとき、葉は衝撃を受けた。

 よその家ではこういう習慣があるのだろうか? 葉の家では一度もなかったけど。

 すこしして、よそのどこの家でもこんな習慣はないし、この家でも葉以外の誰もこんな辱めは受けていないときづいて、恥ずかしくて泣きたくなった。煙草を押しつけられるのは熱いし、いやだ。いやだけど、叔母にいやだとは言えない。ここを追い出されたら、行くところがないから。


 はなを啜りつつ、外の水道で火傷を冷やしていると、水が流れ続ける足元は暗く、家のなかはあかるくて、世界中の灯りがともった家々から自分だけが弾きだされたみたいなかなしい気持ちになった。

 たぶんもう誰も信じてくれないけど、でもおれにだって、カレーを作って帰るのを待つ相手だとか、頭をぐしゃぐしゃ撫でてくるあたたかな手だとか、そういうものがほんのすこしまえまで、皆とおなじようにあったのだ。

 もしかしたらもう二度と、手にできないのかもしれないけど……。

 またじわっと涙があふれてきたので、とりあえず空を仰いだ。下を向くと落涙するので、上を向いておこうというやつだ。

 大きな月が家々のあいまから顔を出していた。

 なんとかムーンっていうんだって、性悪のひとりが言っていた。なんだっけ、もう忘れた。なんでもいい。でも、夜闇に煌々と照る月はきれいで、ふしぎな力があってもおかしくなさそうだったから、葉はふいに思い出した「つぐみちゃん」のことを月に祈ることにした。

 どうかあの子の熱が下がっていますように。

 家に無事に帰れていますように。クリスマスには楽しみにしていたコンビニのチキンが食べられてますように。わらっていて、くれますように。

 自分のことはとても祈れない。だって、なんだか叶わなそうな気がするし、期待して叶わなかったらもっとみじめな気分になってしまう。だから、代わりにあの子のことをたくさん祈った。そのときだけ、葉のひりつくようなみじめさは痛みが引くように和らいだ。

 


 葉はそれでもだいぶ幸運な部類で、近くに偶然、以前児童養護施設で働いていた犀川さいかわさんというおばさんが住んでいて、ある日、児童相談所の職員を連れて叔父夫婦の家にやってきた。

 すこしまえ、いつものように外の水道で火傷を冷やしていると、通りがかった犀川さんが「どうしたの?」と声をかけてきた。――君、確か本郷さんが引き取った子だよね? その怪我どうしたの? おじさんとおばさんは知っているの? 

 叔母とふたりの性悪はちょうど留守だった。葉がもごもごとうまく答えられないでいると、犀川さんは義父がやっているという近くの医院に連れていってくれた。葉の手当をしたあと、まっしろな髪のおじいさん先生と犀川さんは難しそうな顔で何かを話し込んでいた。

 児童相談所の名札をつけた職員が叔父夫婦の家にやってきたのは、そのあとのことだ。職員ふたりが叔父夫婦への聞き取りを行うかたわら、犀川さんが葉のほうへやってきて訊いた。


「君はこの先もこの家で暮らしたいかな? それとも別の場所で暮らしたい?」


 別の場所で暮らすなんてできるのかとびっくりした。

 ずっと叔父夫婦に捨てられたら、路上で生活しなければならないと思っていた。こわいし、寒そうだ。「屋根はついてるよね?」と葉がおそるおそる訊くと、犀川さんはうなずいた。「ドアも……」とつぶやくと、犀川さんがまたうなずいたので、葉は叔父夫婦の家を出ることにした。

 以前犀川さんが働いていたという児童養護施設は、十五人の子どもたちがいて、葉は年上のほうだった。屋根もドアもついていたし、気難しいやつはいたけど、葉の持ちものを盗るような性悪はおらず、イライラすると服をひっぺがす大人もいなくて、葉はひさしぶりにぐっすり眠ることができた。

 その夜も、「つぐみちゃん」のことを月に祈った。

 さすがにもうコンビニのチキンは食べ終えていると思うので、代わりに、おねしょとかしてませんように、と願っておいた。それから、つぐみちゃんがいい夢を見られていますように、とつけ加えた。この世界のどこかに、あの子が眠っているベッドがあることに、一方的なしあわせを感じた。


 

 歳を重ねても、それは葉に習慣のように根づいていて、就職した会社が倒産して家賃が払えず、公園で生活することになったときとか、葉を拾ってよくしてくれた配送業者のおやじさんが病気で倒れてしまったときとか、すごくしんどいときに葉は自分の代わりにあの子のことを祈る。

 しあわせでいてくれますように。わらっていてくれますように。

 もう会うことはないひとだとわかっているから、やっている。

 当時はちゃんと理解していなかったけれど、いくら葉でも大人になった今はさすがにわかる。

 あの子を誘拐したのは俺の父親だ。

 あの部屋で起きていたのは監禁で、俺は部屋の鍵を締めてその片棒を担いでいた。

 だから、面と向かってはとてもこんなことしているなんて言えない。社会的に葉がすべきなのは謝罪や反省で、あとはできるだけあの子にちかづかないようにすることだ。できるだけちかづかないようにする。でも、あの子がどこで生きているのかも葉は知らなかったから、神さまの目を盗んでこっそり祈っている。

 あの子がしあわせでいてくれますように。わらっていてくれますように。

 でも、ほんとうは……誰にも言えないけれど、ほんとうは……。

 君に、会いたい。

 どこか遠い場所から、君にはきづかれなくていいから。

 たった一度でいいから。



 *…*…*



 絶対叶わないと思っていた願いが叶ったのは、彼女と別れてから十一年後の春のことだった。

 その頃、葉は美大の施設管理スタッフとして働いていて、空いた時間にときどき美大生のヌードデッサンのモデルをやって小遣いを稼いでいた。このバイトは内容のわりに単価がめちゃくちゃいい。だから、仕事の上がりに花菱はなびしに呼び出されたときも、またモデルに入ってくれとか、そんな話だと思っていた。


「実は君が描かれたデッサンを見せたら、すごく気に入った子がいてね。まだ十七歳の女の子なんだけど、僕の弟子みたいな子で」

「そうなんだー」


 花菱の話のゆくえが見えず、研究室の簡易キッチンでインスタントコーヒーを淹れながら適当な相槌を打つ。


「君を家に招いて描きたいって言うんだけど……」

「ええ?」


 さすがにそれってどうなの?と思った。

 いや、葉はとくに気にしないけれど、女の子のほうが、デッサンとはいえ、密室で裸の男とふたりきりって、親御さんが怒りださないだろうか。


「彼女、ちょっと特殊な環境で育った子でね。今は家を出て、雇ったお手伝いさんとふたりで暮らしてる。駆け出しだけど、いちおう、画家の卵でもあるんだよ」


 なんだか葉には想像もできないような世界だった。現代でお手伝いさんをナチュラルに雇っている人間の話をはじめて聞いた。若干のうさんくささも感じつつ、花菱が差し出した彼女の名刺を受け取る。


 ――ツグミ


 カタカナで書かれたシンプルな名前に心臓が大きく跳ねた。


「つぐみ……」

「本名をカタカナにしただけなんだけどね。まあ、つぐみちゃんらしいといえばらしい」


 まさか、と思った。ありえない。

 この世に何人、つぐみという名前の十代の女の子がいると思っている。

 こんな都合がいいこと、起こるわけがない。

 それでも指先が震えて、名刺を一度取り落とす。床に裏返った名刺をかがんで拾い、葉は今度こそ息を止めた。そこには、鹿名田かなだつぐみの名前と連絡先が手書きで添えてあった。


「葉くん? どうかした?」

「いや……。あ、スーパーが肉の日なので、もう俺帰ります」

「ええ? つぐみちゃんのモデルの件は?」

「やります。そう伝えておいて」


 言いながら、やるの!?と自分で自分に驚いていた。

 まだぜんぜん、なにも考えてない。こういうことはもっと悩んで、迷って、それで結論を出すような話だと葉も思う。でもどうせ、百回悩んだって、一週間悩み続けたって、葉の答えは決まっている。やります。


 花菱の研究室を出て、ひとり大学構内の坂をくだりながら、つぐみの名前が書かれた名刺を空に掲げるようにした。

 最初に思ったのは、

 ――なんで?

 という単純な疑問だった。

 いったいどういうつもりで本名と連絡先を書いた名刺を葉に渡したのだろう。

 俺が誰だかわかって……。

 そこまで考えたあと、あ、ちがうのか、と思い直す。

 葉は対外的には久瀬くぜ姓を使っていた。児童養護施設に入所したときに、犀川さんが万一にでも事件のことで周囲からいじめられないようにと心配して、母方の姓を使うように言ったのだ。べつに今は誰にいじめられるわけでもないので、本郷ほんごう姓を使えばいいのだけど、結局戻すタイミングを失ったまま久瀬姓を使っている。というか、自分でもときどきほんとうの苗字を忘れている。

 だから、おそらくつぐみも花菱からは葉を「久瀬」という男として紹介されているはずだ。

 顔はどうだろう? あの頃十歳で、今は二十一歳。

 面影は多少あるだろうが、背もだいぶ伸びたし、あの頃はひょろひょろしてて女の子みたいってよく言われていたけど、今はさすがにどこからどう見ても成人した男だし、ひと目でバレることはたぶんないだろう。

 だから。だから――。

 ひと目だけなら。

 一度だけなら。

 余計なことはしゃべらないで、あの子が元気そうにしているのを確かめたら、また遠くで想うだけの関係ないひとに戻るから。


(元気に……)


 ふとささくれのようにその言葉は葉の胸に刺さった。


(してるよね?)


 鹿名田の家を出たことは気になるけれど、花菱も画家の卵だと言っていたし、きっと葉のことなんか忘れて、自分の人生を謳歌している。そうであってほしい。でも、その「そうであってほしい」にはおやじの罪と葉の罪がじわじわと影のように侵食していて、純粋に彼女のしあわせを祈っているだけでもない気がして、うしろめたさから胸が痛くなった。



 そして、その日。


「鍵あいているから、入って」


 ガラス戸越しに、落ち着いた女の子の声を聞いたとき、葉はふるえた。

「はーい」と返事をして、おそるおそる重いガラス戸を引きあける。

 春の陽射しが上がり框に座る女の子の輪郭をきらきらとふちどっていた。

 まっすぐな長い黒髪は背にかかるほどで、十七歳というには華奢で折れそうな手足をしている。引き寄せられるように、芯が強そうな黒い眸と目が合う。

 ああ、この目だ。

 俺がはじめて恋した女の子の目だ。

 胸がじんとして、葉はなんだか泣いてしまいそうになった。どうしたらよいかわからなくて、ただへらっとわらった。


「はじめまして。花菱先生に紹介された久瀬です」


 ここに来るまえに何度も練習したので、次の言葉はよどみなく出てきた。


「は、はじめまして……」


 つぐみは不安そうに眸を揺らして、目を伏せる。

 それから、思い直したようすで顔を上げた。


「つぐみです」


 ――あいたかった。


「鹿名田つぐみです」


 君に会いたかった。びっくりするくらい俺は君に会いたかった。

 君がいま目のまえにいて、息をしていることが、ふるえるほどうれしい。

 これまでの十一年間がぐしゅっと砂糖が溶けるみたいに消えるほど。

 思わずぼーっとつぐみの顔を見つめてしまってから、「あ、はい、じゃあ鹿名田さん」とうわのそらで葉はうなずいた。こんなに見つめているとさすがに不審がられるだろう。


「えーと、上がってもへいき?」


 あふれてくる言葉のどれも口にすることはできなくて、ただそれだけを訊いた。

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