六 奥さんとはじめての恋 (3)
朝、目を覚ましたとき、しまった、と思った。
お尻のあたりが不穏につめたい。こんなこと、家では絶対にしたことがなかったのに。
布団のうえで蒼白になっていると、
「おーい
きづいたおじさんがあっけらかんと葉に言った。
狭いアパートには寝具がひとつしかなく、つぐみと葉とおじさんは敷布団を横にして三人で使った。掛け布団もやはり一枚しかなかったが、つぐみと葉が使い、おじさんはバスタオルをかけて寝た。あんなに緊張していたはずなのに、目を覚ましたとき、すでに葉とおじさんは起きていて、ジャンパーを着て出ていこうとするおじさんに、葉はハンカチで包んだおにぎりを持たせていた。
「葉、布団洗っておけよー」
「はいはい。いってらっしゃい」
手を振る葉の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜて、おじさんは部屋から出ていった。
ドアに内側から鍵をかけた葉が、布団のうえで固まったままのつぐみのほうに戻ってくる。独特のアンモニア臭が漂っている。「あーほんとだ」としゃがみこんだ葉が言うので、つぐみは頬を染めて俯いた。ひばりがおねしょをしたときはおねえさんぶって慰めたものだけど、自分がやるとすごく恥ずかしい。しかも、年上のよく知らない男の子に見られるなんて。
「ごめんなさい……」
「大丈夫だよ、洗えば落ちるし。お尻きもちわるくない?」
「……きもちわるい」
素直に打ち明けると、葉はつぐみの手を引いて風呂場に連れていった。
アパートの風呂場は、
「あ」
シャワーヘッドの向きがまちがって、つぐみの顔面に噴射される。
下肢だけでなく全身がずぶぬれになってしまい呆然とすると、「ごめんごめん」と葉がわらいだした。びっくりしたのに、葉のわらい声が軽やかで、つられてつぐみもすこしわらってしまう。濡れちゃったしもういーや、と葉がシャワーのお湯をつぐみにかける。あたたかくてくすぐったい。やだやだ、とつぐみは逃げて、葉からシャワーを奪い取る。やり返してやろうと思ったのに、シャワーヘッドの重さに手を滑らせ、床に落としてしまった。
水圧でぐるんっとシャワーが生きものみたいに回転する。ふたりで止めようとするのに、暴れるシャワーをつかまえられず、ますますびしょ濡れになった。
「すごい、シャワーつよい」
「つよいねー」
葉が蛇口を締めて、やっとシャワーはおとなしくなった。
急に静かになった風呂場で、ずぶ濡れになったまま突っ立っているのがへんてこで、また、ふふふっとわらってしまう。テンションがおかしい。きのうはすごくこわかったし、もうおうちに帰れないのかもしれないと絶望的な気持ちで寝たのに。
濡れてしまった服を洗濯機に突っ込むと、一枚のバスタオルで身体を拭き合った。つぐみには大きく感じられる葉のトレーナーとズボンを貸してもらい、敷布団も洗って外に出す。そのあと、葉が作ってくれたおにぎりと卵焼きと具なしのお味噌汁を食べた。
壁に掛けられた時計は九時過ぎを指している。今日は平日だ。ランドセルは置いてあったが、葉が学校に行く気配はなくて、「学校、行かないの?」と尋ねると、「うーん、行ったり行かなかったり」という返事が戻った。学校って行ったり行かなかったりできるものなのか。つぐみは衝撃を受けた。
――あとになって知ったことだが、葉の父親の
元従業員がお金を借りていたのは、闇金まがいのたちの悪い金融だったらしい。家のまえで連日取り立ての罵声が飛び交うようになり、本郷父子は逃げるように家を出てアパートで暮らしはじめる。工場の赤字も含め、積み上がった借金の総額は3000万円。
そして、この頃鹿名田本家には、つぐみの誘拐と3000万円の身代金を要求する最初の電話が入る。つぐみたちを送迎している運転手は顔を蒼褪めさせて報告した。公衆の喫煙所でときどき一緒になる男に、地元では有名な大地主の子どもたちの送迎をしていると漏らしてしまったと。
何日も、葉のとなりで絵を描いて過ごした。
いつになったら帰れるのだろう。ひばりはあのあとどうしたのだろう。つぐみが突然いなくなって泣いていないだろうか。おばあさまたちはつぐみを心配しているだろうか……。
徐々に不安がふくらんでいく一方、葉のとなりはふしぎなくらい居心地がいい。
鹿名田の家にいるとき、つぐみはいつも緊張していた。物心ついたときからそうだったから、考えたこともなかったけど、緊張していたのだと今はわかる。何かをまちがえれば、はしたないと眉をひそめられ、鹿名田の娘らしくしなさいと叱咤される。出来がよい自分のふりをするのに必死だった。ほんとうはぜんぜん、出来がよくなんかないのに。
「なに描いてんの?」
ちゃぶ台のうえで広告の裏紙に絵を描いていると、葉が手元から顔を上げて訊いた。学校に行ったり行かなかったりする葉は、家にいるときはチラシの折り込みとか、宛名シール貼りといった内職を父親の代わりにしていた。
「葉くん」
「俺?」
目を瞬かせた男の子に、広告の裏紙に描いた絵を見せる。
「わー、よくわかんないけどすごい」
「よくわかんないのに?」
「うん。でも、胸がぎゅってなったよ」
葉の語る言葉は飾りがひとつもついていないぶん、とてもわかりやすい。
絵画教室には、習い事のひとつとして通っていた。著名な先生が教えてくれているらしいけど、先生の言うとおり花やどんぐりを描くのはつまらなくて、つまらないけど出来がよいつぐみでいたいから巧く描いて、金賞をたくさんもらっていた。つぐみがやることはどれもそうだ。つまらないけど、巧くやりたい。でも、葉のとなりにいるときはちがっていて、はじめに心が動いて、あとから手がついてくる。絵は心が動いたとき描くものなのだと、はじめて知った。
「つぐみちゃん、ごはんにしよっか」
「……おじさんは?」
「んー、帰ってくるの遅いって言ってた。何食べたい?」
「焼きうどん」
それはここに連れられてきた翌日、葉が作ってくれたものだ。うどんが炒めてあるのにもびっくりしたし、具はもやしとキャベツと薄いにんじんで、肉は入っていなかったけど、マヨネーズとおかかがたっぷりのっていておいしかった。
「いいよー」と軽く請け負って、葉は冷蔵庫からうどんと野菜を出した。
狭い台所で野菜を洗う葉を、つぐみは背伸びをして眺める。葉はつぐみが何をしていてもだいたい好きにさせている。包丁を使うときだけ、「手を出しちゃだめだよ」と言われた。
葉はつぐみがおじさんに誘拐された子どもだと知らないらしい。
ただ、おじさんが預かってきた子を世話するつもりで接している。ほんとうのことを打ち明けたら、葉はつぐみをたすけてくれるだろうか。ここから逃がしてくれるだろうか。この部屋にはテレビや新聞がないし、葉はスマホを持っていないので、外で事件が話題になっているのかもわからない。
「……葉くん。あのね」
「うん?」
もじもじしていると、葉は包丁を置いて、つぐみに目を合わせてくれる。
色素がほかのひとよりもやや薄い、澄んだ眸を見つめていると、心がぐらぐら揺れた。出がけにおじさんにおにぎりを持たせる葉の横顔がよぎる。ぐしゃぐしゃに髪をかき回されるとき、葉はすごく子どもっぽくわらう。
この家に母親や祖父母はいないらしい。葉はほんとうにおじさんとふたりだけの世界で生きているのだ。おじさんを裏切ったら葉はどうなってしまうんだろう。おじさんが捕まったら、葉はどうやって生きていくんだろう……。
考えていると、つぐみは出口が見えない大海に投げ出された気分になる。
「な、なんでもない……」
「そう?」
葉はふしぎそうに瞬きをしたあと、つぐみの頭を軽く撫ぜた。
夜、ひとがしゃべる声で目を覚ました。
薄く目を開けると、くっついて眠っていたはずの葉はいなくなっていて、ほんのすこし開いたベランダの網戸から微かな煙草のにおいが漂っていた。ベランダの手すりに腕をのせるようにしておじさんと葉がいる。おじさんの手元では、煙草に橙の火が灯っていた。いつの間にか帰ってきていたのだ。
「おやじ、つぐみちゃん学校行かなくてだいじょうぶ?」
煙草を吸っているおじさんに葉が尋ねる。
紫煙を吐き出して、「金が支払われるまでな」とおじさんはぽつっと言った。
「あいつら無視を決め込んでるから」
「お金って?」
「おまえは知らなくていいよ」
「……お金ないならさあ、俺、お年玉貯めたのあるから、それ使う?」
「いくらだよ」
「五百円」
葉がどやっとした声で言うと、おじさんはわらいだした。
「おまえ、ばかだなー」
「そんなことないよ」
「うちはかあちゃんだけだったな、頭よかったの。家電買ったときも説明書とかいつもちゃんと読んでさ。えらかったよな。俺はだめだめだわ」
「そんなことないよ……」
「おー、慰めてんの?」
葉は不安そうだったが、おじさんはからかうような口調だ。
「おやじより俺のがしっかりしてるもん」
「うんうん、そうだな。おまえはすごくしっかりしてる」
煙草の先を手すりに押しつけると、おじさんは長身をかがめて葉に目線を合わせた。
「葉。かあちゃんが作ったあの薔薇棚、また見たいだろ」
「うん」
「また、家に帰りたいだろ」
「……うん」
「じゃああの子、外に出したらだめだからな」
ちいさく息をのむ気配がして、葉が俯いた。
「でも……」
「だいじょうぶ。終わったら、あの子もちゃんと家に帰すから」
うん、と言ったのか、葉の声はちいさすぎてつぐみには聞こえなかった。
おじさんは夕飯を食べるためだけに帰宅したらしく、葉が作るうどんをかきこむと、ジャンパーを着てまたすぐアパートから出ていってしまった。片づけを終えた葉がつぐみがくるまった布団にもぐりこんでくる。背中に男の子の息遣いを感じながら、つぐみは蒼白になっていた。
――金が支払われるまでな。
――あいつら無視を決め込んでるから。
おじさんが漏らした「あいつら」が鹿名田の両親であることをつぐみは察した。
おじさんはつぐみの身柄を盾に鹿名田の家に身代金を交渉し、両親はそれに応えなかったのだ。体温が下がっていく一方、どくどくと心臓が痛いほど打ち鳴る。
ことあるごとに「はしたない」と眉をひそめる祖母、持病が悪化して入院中の祖父、つぐみのことには関心がない父、おばあさまの顔色をいつもうかがってばかりいる母。家族の顔が次々つぐみの脳裏に現れた。仲が良い家族では決してない。でも、つぐみは彼らに愛されていると思っていた。当たり前のように、ほかの子が皆そうであるように、愛されて大事にされているのだと。
でも、ちがうのかもしれない。
わたしは見殺しにされるのかもしれない。だって、つぐみがいなくなったって、彼らにはひばりがいる。出来損ないのくせに必死に取り繕っているつぐみとはちがう、明るく天真爛漫な妹が。
身体を丸めて、長いあいだひとりで震えていた。
夜はなんて長いんだろう。窓から見えるビルに架かった月はすこしずつしか動かず、葉の寝息はすぅすぅとずっと途切れない。つぐみは布団から抜け出した。眠る葉をまたいで、足音を立てないようにドアに向かう。
鉄製の端が錆びたドアだ。触れると、ひんやりと氷のようにつめたい。
押し出し式のロックを静かに解錠する。
ノブを握り、ひねろうとする。
「つぐみちゃん」
背中から声がかかったので、つぐみはびくっと肩を跳ね上げた。
ノブを握っていた手を背後から伸びた手に押さえられる。葉だった。
「……だめだよ」
葉の手は寝起きで熱いくらいなのに、寒がるように震えていた。
「こ、こわいことが起きるよ」
手を押さえられたまま、つぐみは葉を振り返る。
葉はなんだか泣いてしまいそうだった。この子はきっと誰かに暴力をふるうことにも、脅すことにも慣れていなくて、すごく一生懸命考えて言ったのが「こわいことが起きる」という脅し文句だった。
背後から月光が射し込む薄闇のなか、しばらく見つめ合っていたが、やがて葉は耐えきれなくなったようすで手を下ろした。ドアはあいていた。わたしはどこへだって行ける。逃げられる。家に帰ることができる。それなのに、つぐみは急に自分がどこへ行こうとしていたのか、何をしたいと思っていたのか、わからなくなってしまった。
ノブから手を離して、葉をぎゅっと抱きしめる。葉は驚いた風に身体を強張らせたあと、ごめんなさい、とつぶやいた。首を振って、ますます腕の力をこめた。
どこへ行きたいのか、何がしたいのか、わからない。帰るのがこわい。おばあさまも、家族の誰も、もう信じられない。だけど、ここにいるのもこわい。どうしたらいいんだろう。わたしはどこへ行ったらいいのだろう。なにもわからなくて、ただ。ただ――わたしはこの男の子を抱きしめたい。
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