六 奥さんとはじめての恋 (1)

「5000万出したら、わたしのお願いも聞いてくれますよね、久瀬くぜさん?」


 ひばりは不敵にわらい、声を一段低くした。


「――姉と別れて、わたしの犬になって」


 離れた場所に突っ立っているつぐみにちらりと視線を投げやり、ひばりがようを通したドアを閉める。ぱたんと音を立て、ふたりのすがたはドアの向こうへ完全に消えた。そこは子どもの頃、ひばりとつぐみがよく遊んでいた物置部屋だった。

 ひばりはいつからきづいていたんだろう。つぐみがいなくなった葉を探して、一階へ下りてきていたこと。隠れて密談するみたいなふたりにはじめ驚いて、とっさに壁を背にして隠れてしまったこと。途中でふたりが示し合わせて会ったわけではないらしいときづいたけれど、それでもさっきのひばりの言葉は明らかにつぐみに聞かせる会話で挑発だった。

 なぜ、どうしてこんなことをひばりはするんだろう。

 葉が気に入った? それとも、つぐみがそれほどに憎い?

 鹿名田の長女の役目を放棄して家を出て行ったつぐみが……。

 分厚いドアのまえに立ち、つぐみは金属製のノブに手を触れさせた。

 ふたりがしゃべっているらしい気配はあるものの、会話の内容はほとんど聞き取れない。途方に暮れそうになって、なにをしているのだ、と自分を叱咤する。

 意図はともかく、ひばりは葉につぐみとの契約金の3000万に加えて、さらに5000万を出すからつぐみと別れろと誘っているのだ。とても看過できる話じゃない。何をぼんやり突っ立って聞いているのだ。取り返せ、ひばりから。ただ奪われるな。自分から甘んじて奪われる側になるな。選択を他人の手にゆだねるな。おじいさまが死んだとき、そう決めただろう。

 ……でも、ドアがひらけない。ひらけない。ひらけない。

 ノブに触れているだけなのに、ドアをひらくことを考えると動悸がして、息がうまく吸えなくなる。視界がきゅーっと狭まり、意識がホワイトアウトしかける。ちがう。ドアをあけなくてもいい。声を出せば。葉を呼べば。ドアを叩くのでもいい。こんなところで息をひそめていたって誰にもきづいてもらえない。でも、できない、できない、できない、できない。なんで、できない?


 ――葉がうんって言ってたら。

 ――5000万の話に乗り気だったら。


 それなら、さらに金額を上乗せして再交渉すればいいだけの話だ。

 あいにく貯金は一度使いきってしまったけれど、向こう数年の仕事を受けまくって、鮫島に前借をして。大丈夫、画家としてのつぐみは順風満帆で、なんの問題もない。いくらでも金を稼いでやる。いくらでも……。

 ふらりとつぐみはドアノブから手を下ろした。

 ドアに背を向け、とぼとぼと捨て犬みたいに部屋から離れていく。頭で言ってることとやっていることがぜんぜんちがう。泣いてしまいそうだった。

 唇を噛んでうなだれていると、


「入らなくていいのか?」


 階段の腰壁に背を預けて、北條ほうじょうりつが言った。

 ひばりの婚約者で、北條グループ総帥の次男坊、いまは系列企業に勤める将来有望な男だ。ひばりとつぐみにとってははとこにあたり、その縁で六歳まで律はつぐみの許婚だった。例の事件のあと、心を閉ざして使いものにならなくなったつぐみに代わって、今はひばりの婚約者になっているけれど。

 何不自由なく育った御曹司のくせに、律という男の印象は「隙がない」だ。

 鋭利な刃をいちおう対外用に真綿でくるんでいる。そんなかんじ。前世は傭兵だったのかもしれない。


「あなたこそ、いいの? 婚約者と若い男をふたりきりにして」

「自分にできないことを俺に押しつけるなよ」

「なら、わたしにも指図しないで」


 なんとか崩れない声を出して、律の横を通り抜ける。腕をつかまれた。よろめきかけたのを踏みとどまって、つぐみは律を睨みつける。


「離して、腕」

「おまえはあの男が何者か知っているのか?」

「『おまえ』?」


 力で言うことをきかせるやつも、相手をおまえ呼ばわりするやつもきらいだ。男ならなおさらだ。こめかみに青筋を立てたつぐみに、律は鼻でわらった。


「知らないんですか、義姉ねえさん?」

「知ってるよ」

「すべて?」

「すべて。情報はお金でいくらでも買えるんだよ、律くん」


 ひばりとおなじ言葉をおなじように言う。律はつぐみより八つ上だが、立場はつぐみが律の「義姉」だ。家を出て行った以上、あってないような立場だが。

 あっけにとられた顔をしたあと、律はくっと咽喉を鳴らしてわらいだした。


「まさか調べたのか、結婚する男を。義姉さんにはストーカー的な才能があるな」

「うるさい」

「なんで戻ってきたんだ。こんな家、出て行ってせいせいしていたんだろ」


 律の言葉には微かな毒が含まれていた。

 つぐみが長女としての役割を放棄して家から出たせいで、ひばりと律は苦労している。おまえのせいだぞ、とでも言いたげな口調だ。


「……おばあさまが式に久瀬くんと参列したら、家と土地の権利書を渡すって言うから」

「権利書? ああ、青志せいしおじいさまから生前にもらった愛人宅か」

「おじいさまからあの家をもらったとき、十七歳だったからわたし。財産管理は父がすることになって、家と土地の権利書はおばあさまがこの家の金庫に保管したの」

「今年、君は成人するんだったか」

「そうだよ」


 それは名実ともにあの家と土地の所有者がつぐみになるということだ。

 勝手に売り払われる心配はなくなるし、反対に誰に譲るのでも、これからは自分の権限で好きにしていい。十二月の誕生日のまえに家と土地の権利書はどうしても手元に置いておきたかった。墓の下の祖父に報告することがあるのも理由のひとつだし、一周忌くらいは参列したい気持ちがあったのも嘘ではないけれど、それくらいで出て行った家に葉を連れて顔を見せるほど自分は感情的ではない。


「もういい? 君と話すことはないんだけど」


 惰性のようにつかまれたままだった右手を振り払う。


「……ひばりと話す気はないのか」

「ないよ」

「あの子がきらい?」

「きらいなのは、ひばちゃんのほうでしょう」


 こんな嫌がらせをしてくるくらいだ。

 呻くようにつぶやくと、あとは振り返ることなく階段をのぼった。プライドの高い男なので、追いかけてはこない。寝室に戻ってやっと息を吐き出す。あたりまえだが、葉はまだ戻ってきていなかった。

 つめたくなった布団のうえに足を抱えて座る。

 はやく戻ってきてほしい。戻ってきて、ひばりに絡まれてびっくりしたっていつものあっけらかんとした口調でわらってほしい。5000万円なんて、馬鹿げている。ひばりの嫌がらせだし、はったりだ。あんな馬鹿げた話に葉が乗るわけが――。


(……はやく戻ってきて)


 蒼褪めたまま震えているのに、葉は一向に戻ってこない。

 いったいどれくらい時間が経ったのだろう。一時間か二時間か。それとも、実はまだ十分も経っていないのか。時計を見るのもこわくて、抱えた膝に顔をうずめていると、ぎしっと階段が軋む音がした。

 つぐみは肩を跳ね上げる。葉が戻ってきたら、なんと言うつもりなのかまだ考えていなかった。ひばりと何を話していたのか問いたださないと……ちゃんと……。

 外から襖が引かれたとき、でもなぜかつぐみは葉に背を向けて寝たふりをしてしまった。畳のうえを歩く音が微かにして、葉がとなりの布団にもぐりこむ。背中に視線を向けられた気がした。つぐみはぎゅっと目を閉じたまま動けない。しばらくすると、ちいさな息をついて、葉が寝返りを打つ気配がした。

 となりのひとから寝息が立つまでのあいだを、息をひそめてやり過ごす。

 ひばりに――葉はなんとこたえたのだろう。

 それに対してひばりはなんと言って、いま、葉はどんな気持ちでここへ帰ってきたのだろう。

 どうしようもない不安がせりあがってくる。

 わかっているのだ。葉はつぐみをあいしているわけじゃない。ふつうの夫婦とはちがう。つぐみに惹かれて、恋して、夫婦になってくれたわけじゃない。葉はつぐみが支払った3000万円の対価として夫の役割をこなし、疑似的な愛情というサービスを返しているだけだ。それをつぐみが望んだ。葉に3000万円を突きつけて、結婚してほしい、愛してほしい、と迫ったのはつぐみだ。

 お金で買った愛情なら、お金で奪い返されることだってある。それでも欲しいなら、さらにお金を積むしかない。世のなかにお金で買えないものはないのだから。……それなのにどうして、こんなにも不安になる? 泣きそうになっているのだ?

 さっき、つぐみの背に触れてくれた大きなあたたかい手。

 あの手を失うのかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうになる。



 *…*…*



 翌朝は案の定というか、最悪の目覚めだった。

 たぶんほとんど一睡もできていない。ただ、夜明け近くに短いあいだ眠ってはいたらしく、目を開けると、もう葉はシャツと黒のスラックスに着替えていて、瞬きをするつぐみに「おはよう」と笑顔を向けた。


「おはよう……?」

「あ、待って待って、つぐちゃん、ぼんやりしたまま着替えはじめないで!? 今どくから、外に出るから」


 律義に外に出ていった葉を見送ってから、パジャマ代わりにしていた室内着を脱いで黒のフォーマルなワンピースに着替える。

 部屋の外にある洗面所で顔を洗ったあと、鏡を見ると、蒼白い幽鬼のような少女が立っていた。こんなところもぜんぶ、ひばりとはちがう。葉はひばりを見て、きっとがっかりしただろう。どうして自分を買ったのは、こっちの出来がよくて華やかで堂々としている妹のほうじゃないんだって。がっかりしただろう。祖母と両親、妹、そして親族たちが徐々につぐみを見放していったように。

 ひとつ崩れると、どんどんだめで卑屈な自分ばかりが顔を出す。

 緩く首を振って、つぐみは化粧ポーチを取り出した。血色のわるさや目の下の隈は化粧で多少はごまかせるはずだ。

 化粧を終えて部屋に戻ると、葉は鏡のまえでネクタイを苦心して結んでいた。ネクタイを結ぶのに葉は慣れていないのだ。「貸して」と言って、ネクタイを結び直す。ひとのをした経験はなかったが、完成形は知っているので、簡単にできる。


「ありがとう」

「うん」

「……あのさ、つぐちゃん。きのうなんだけどさ」


 葉が急に話してきたので、つぐみは大仰に顔を上げた。そば近くで視線がかち合ってしまう。動揺を悟られた気がして、ますます焦った。


「あ……な、なに?」


 声が上擦る。つぐみは一度俯いたあと、心を決めて目を上げた。

 にこりとわらう。


「うん、なに?」


 葉はなぜか痛ましげなものを見るような目をした。


「……いや、やっぱりいいや。たいしたことじゃないし、家帰ってからで」

「そ、そう」

「ごめんね、へんなこと言って。ほんとうにたいしたことじゃないから大丈夫」


 ――5000万出したら、わたしのお願いも聞いてくれますよね、久瀬さん?


 あれはたいしたことじゃないのだろうか、葉にとっては。

 家に帰ったら、わたしは葉に別れを告げられるのだろうか。

 どんなふうに?

 問いただしたかったけれど、聞き出す勇気がもうなかった。



 こんな日に限って気温は三十八度に達する酷暑で、黒の日傘を持っていったものの、暑さはまるでしのげない。

 祖父、青志が眠っているのは、鹿名田かなだ本家の墓だ。

 ただ、青志の左の小指の骨は、青志が生前あいして囲った女とともに眠っているのをつぐみは知っている。青志から今つぐみが暮らしているあの家を譲ってもらったときに、すでに鬼籍に入っていた女の墓所を親族で唯一教えてもらったのだ。青志は片目を瞑って、俺が死んだら左の小指はあいつの墓に入れてくれ、とつぐみに言った。青志が死んだのち、つぐみはこっそりそれを成し遂げた。

 権利書のことをのぞけば、今日ここに来たのは、そのことを青志に報告するためだ。おじいさまの左の小指は、約束どおりあのひとのところにいますから安心してくださいね、と。

 金融業を拡大させながらも、外で作った女を本気であいした祖父は、一族の皆からつめたい目で見られながら死んだ。つぐみはちがった。つぐみには青志の気持ちがわかった。愛とは、常にわかりやすいかたちをして、妻と夫のあいだや恋人のあいだにだけおさまっているわけではない。

 青志と直截的なことは何も語り合ったことはないけれど、なぜか青志もつぐみには心をゆるして、内側にこもりがちで、絵だけに心を打ち明けるようなつぐみをかわいがってくれた。住む家をくれただけでなく、青志のとりはからいで、つぐみは自身の絵に価値を見出してくれる画商の鮫島さめじまに出会った。鹿名田本家にあのままいたら、つぐみはただ朽ち果てていただろう。

 そして葉と出会わなければ。 

 たぶんつぐみは……。


「ねえさま」


 青志の墓前から立ち上がると、ひばりがかたわらにそっと立った。


「ね、きのう立ち聞きしていたでしょう」


 思わず視線を上げたつぐみに、ひばりは苦笑した。


「行儀のわるいねえさま」

「ひとのものを横から取るのは行儀がいいの?」

「交渉自体は自由でしょ。ねえさまの絵だって、販売会だっけ? いちばん高く値をつけたひとが買っていくんじゃないの?」


 あいかわらず、滑らかに口がよく回る。言葉に詰まると、「でも、わたしは行儀がいいから」とひばりは皮肉げに言った。


「ねえさまにも機会をあげる。わたしとあなたで話をしましょう。今晩十一時に、子どもの頃、よくふたりで遊んだあの部屋に来て」


 それはきのう、葉とひばりが話していたのとおなじ部屋だ。


「……わかった」


 顎を引くと、「じゃあまたあとで」とひばりはひらりと紋付の薄物をひるがえした。近い将来、鹿名田家を律とともに継ぐひばりは、親族たちの接待にいそがしい。

 性格が多少ゆがんでいたとして、この子はつぐみよりよほどまっとうで、真面目だ。つぐみが投げ出した家というものにまつわるすべてを彼女は引き継いだ。華やかな表舞台も、そこで得られる称賛も、裏側にある厄介な部分もすべて。

 この家でつぐみが疎まれ、ひばりが大切に扱われているのは正しい。尊重は責務を果たしてこそ得られるものだ。つぐみはなんの責務も果たさなかった。かたくなに変化を拒み、変形した心も治さなかった。なにも治したくなかったからだ。理由はだれにも言ってない。

 陽炎がたちのぼるアスファルトの道を日傘を差してひとり歩く。

 じゅわじゅわとけたたましい蝉時雨が降っている。普段、クーラーをかけた部屋にばかりいるせいで、つぐみは暑さに耐性がない。頭がぼーっとする。照り返しに焼かれて、視界がぐらぐらしてきた。


「――平気?」


 つぐみにきづいたらしい葉が、傾いていた日傘を取った。

 こちらの顔をのぞきこんで、「顔真っ赤だよ」と心配そうな声を出す。いつもならほっとするのに、今はなんだかむなしくなった。

 葉はつぐみを木陰に座らせると、一度離れて律に何かを言いにいった。戻ってきたときには、自販機で買ったらしいスポーツ飲料を手に持っていて、つぐみの頬にあてる。


「先に行ってもらったから、落ち着くまで休んでだいじょうぶだよ。軽い熱中症かも」

「……ありがとう」

「んーん」


 木陰にあった石は大きさ的にひとりしか座れなさそうだったので、葉は地面にしゃがんだ。

 君ももう行っていいよ。

 ひばりのとことか。

 卑屈な言葉が咽喉をせりあがってきて、唇を引き結んだ。


「……久瀬くんはやさしいよね」

「え?」


 でも、言葉がこぼれてしまう。

 じくじくと暴れだしてやまない胸の痛みをまぎらわせるように。


「お金は……お金はすごいよね。なんでも買える。買えないものなんてない」


 だいじょうぶ。なにもこわがることなんかない。

 わたしにはお金がある。お金があるから。


「すごいよね、ほんとう」


 欲しいものは買うから。

 与えられなくても、自分で買うから。

 手に入れるから、なにもかも、この手からこぼれ落ちたものはぜんぶ。

 ねえ、だからおねがい。


「わたしは取り戻した、取り戻してやったの。……そうだよね?」


 いくらでもあげるから、君は離れていかないで。


「つぐみ、」


 何かを言いかけてから、葉は言い直した。


「つぐちゃん、だいじょうぶ?」


 つぐみの頬に大きな手があてられる。火照っているせいで、今日は葉の手がひんやり感じられた。だいじょうぶ? つぐみさん、だいじょうぶ? その言葉に急に張り詰めていた糸が切れて、泣きたくなってくる。


 ――おねがい久瀬くん。お金あげるから、わたしと結婚して。


 つぐみがそう訴えたときも、葉はきもちわるがるでも、笑い飛ばすでもなく、腰をかがめてそう尋ねてきたのだ。ほんとうにつぐみを心配するような、やさしい声で。

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