二 奥さんと契約更新のしかた (2)

 今日は朝から絵に向かっている。きのうも、おとといもだ。

 九月のグループ展の納期が来月末に迫っているため、そろそろ本気で取りかからないと間に合わない。絵を納めたあとは表装のために専門の職人を入れることになるし、つぐみの今回の作品はどちらも大作なので、表装にも時間がかかる。

 墨で輪郭線をなぞった線画を完成させてしまうと、あとは地道に彩色をしていく作業だ。暗い背景に浮かんだ赤の曼殊沙華と白の曼殊沙華に、岩絵の具で少しずつ色を入れていく。彩色の作業はすきだけど、ずっと赤と濃い赤と淡い赤のあわいを見つめているような感覚があって、終わると目の奥がじーんと痛くなる。そんなことを言うと、葉は電子レンジで温めるアイピローを買ってきてくれた。

 制作室の隅に置かれた長椅子にくてっと横たわり、温めたアイピローを目のうえに置く。


「つぐちゃん」


 葉はふしぎとつぐみの作業を邪魔することがない。半分ひらいた障子戸から顔をのぞかせた葉に、「なに?」とアイピローを外してつぐみは訊き返した。葉は自転車の鍵がついたキーホルダーを指でくるりと回す。


「買い物いってくるね、俺。一時間くらいで戻るから」

「ん」

「玄関の鍵は閉めます。居間の引き戸と洗面所とトイレはあいてるから。オッケー?」

「オッケー」

「じゃ、いってくるね」

「いってらっしゃい」


 アイピローを目のうえに置き直し、部屋から離れていく葉の足音に耳を澄ませる。

 長椅子の背にかかった猫柄のブランケットを引き寄せ、目を瞑った。すこし休むだけと思ったのに、お昼以外はぶっ続けで作業をしていたからか、とろとろと寝入ってしまう。

 風除けのためにかけた簾の向こうで、さやさやと葉っぱ同士が揺れている。

 長椅子からは染みついた岩絵の具と膠のにおいがする。葉はすごいにおい、と顔をしかめるけれど、つぐみは膠のにおいはべつにきらいじゃない。わたしをかたちづくってきたものたちのにおいに安堵する。ここは平和だ。とても、とても平和だ。


 ――鹿名田さん、もしかしてそいつ殺ってたりする?


 油断していたので、急によみがえった声に背中がびくっとした。

 アイピローが目のうえから落ちる。拾い上げると、とっくに冷めていた。

 いったいどれくらい時間が経っていたのだろう。時計を確かめると、四時を過ぎていた。葉が家を出たのは昼食を食べてすこししてからだから、ゆうに二時間は経っている。

 長椅子からつぐみは立ち上がった。


「久瀬くん?」


 離れにある制作室から出て、母屋のほうに向かう。

 出がけに葉が言ったとおり、居間の引き戸は半分開けたままにしてあった。けれど、葉がいると思ったキッチンはしんと静まり返っている。

「久瀬くん」と声をかけながら歩いて、玄関にたどりつく。葉がいつも履いているスニーカーは、三和土のうえになかった。出かけたまま、まだ帰ってきていないのか。

 所在なく上がり框に腰掛けて、葉の帰りを待つ。

 格子が入った曇りガラスの引き戸は、鍵がかけられていた。夕方の薄くなりはじめた陽が射して、滲むようにひかる引き戸をぼんやり見つめる。紺のガウチョパンツからのぞいた足は素足だ。爪先が冷たくなってくる。両脚を引き寄せて顎をのせる。

 家から出られないつぐみは、いつも葉を待つ側だ。

 それがわかっているからか、葉は家を出るとき、何時に帰ると約束するのを忘れない。でもそんなのは口約束で、葉はほんとうはいつだって約束を反故にし、この家につぐみを置いてどこへだって行ける。つぐみがあげた三千万円を持って。

 五時のチャイムが聞こえてきたので、つぐみは膝から顔を上げた。

 遅い、と思う。もしかしたら何かあったのかもしれない。

 何かどうしても家に帰れないようなこと――事故とか。

 現実的な不安が膨らんできて、つぐみは三和土に下りた。鍵のかかった戸に手で触れる。

 指に力を入れようとすると、


 ――つぐみちゃん。


 すぐ耳元で「彼」の声が言った。


 ――出たらだめだよ。

 ――こわいことが起きるよ。


 戸に触れていた手が小刻みに震えだす。

 しばらく抗おうとしたけれど、やっぱりだめで、つぐみは戸から跳ねるように手を離して、その場に座り込んだ。胸がどきどきしている。こういうとき、普段は同じリズムを刻んでいるはずの鼓動がびくっと変なほうに跳ねて、戻そうとするのに好き勝手散らばってしまうかんじがして、こわい、こわい、と思う。

 でも、ほんとうは何も起こっていない。診てもらった病院でも、だいじょうぶですよ、と先生が安心させるようにつぐみに言った。心臓はちゃんと動いていますよ。だいじょうぶ。なにも問題はない。問題はない。

 それなら、だいじょうぶじゃないのはわたしの頭のほうなのだろうか。

 だったらそのほうがもっとこわい。ずっと、ずっとこわい。

 そのとき、がらがらがらと平穏な音を立てて引き戸がひらいた。


「ただいまー……ってあれ?」


 普段離れで作業をするつぐみに聞こえるように声を張った葉が、すぐ足元に座り込んだつぐみを見つけて瞬きをする。


「つぐちゃん、どしたの?」

「帰ってこないから」


 すこし強めの、かぶさるような口調になった。

 責めたつもりはないのに、責めた言い方になったのにおののいて、しどろもどろに言う。


「じ、事故にあったのかもって、おもって……」

「あ、ごめん。途中で自転車がパンクして、修理屋さんに行ってた」


 あっけらかんと返された言葉に、つぐみは呆けた。


「いちおう、スマホにメッセージ送っておいたんだけど、きづいて……ないよねえ……」


 つぐみのスマホは三日にいっぺんくらいしか稼働しなくて、あとはだいたい充電切れだ。画業関連の人間なら至急のときは家電にかけてくるし、スマホで連絡を取るような友だちもいない。今日もたぶん充電切れだろう。首を横に振ると、「既読つかないから、そうだと思った」と葉は肩をすくめた。

 ときどきわたしは葉に依存しすぎている、と思う。

 つぐみは幼少時の事件のせいで、「閉まった扉をあけること」ができない。

 鍵をかけられていても、いなくても、たとえ自分の手のなかに鍵があったとしても、扉が閉まっている、ただそれだけでどうしても開けられなくなってしまうのだ。

 だから、この家の扉はつぐみの部屋をはじめ、居間、洗面所、離れにある制作室、果てはトイレや風呂場に至るまですこしずつあけられている。夜は防犯のために雨戸を閉めるけど、つぐみが起きだすまえに葉があけてくれる。

 鹿名田本家の両親は、幼いつぐみを高名な医者のもとに連れて行った。カウンセリングに投薬治療。いろいろ受けたけれど、だめだった。そもそもつぐみは他人とふたりきりになるカウンセリングルームも苦手だ。

 高校を卒業したあと、両親から見合いを勧められた。

 勧められた、というよりほぼ決定事項だった。相手は鹿名田とおなじ明治時代からある名家の長男で、つぐみより一回り以上年上で、聞けば、もう二度妻に逃げられているという。あなたはただ好きな絵を描いていればいいから、と母は言った。屋敷のなかでただ絵を描いていれば、あとは周りがうまくやってくれるから。いいでしょ、それでもういいでしょ、つぐみ。

 いやだ、と言って、つぐみは通帳と印鑑を持って逃げ、その足で銀行から三千万円を下ろしてボストンバックに詰めた。それは鹿名田家の資産ではなく、つぐみが画業で稼いだお金だった。

 三千万円は、つぐみが誘拐されたときに犯人が身代金として要求した額だ。

 両親は難色を示したという。鹿名田家は在所一帯の広大な土地を所有するとともに地方銀行を経営しており、父は犯罪者に金が渡ることが銀行のイメージも下げかねないと考えたのだろう。でも、それらはある程度分別がつく年齢になってから考えたことで、六歳の子どもに過ぎなかった当時はただ衝撃を受けた。

 三千万円は、つぐみの値段として高いだろうか、安いだろうか。

 お金がないわけではないのに、用意してもらえなかった自分は、三千万円の対価には見合わない子どもだったということか。そうかもしれない。つぐみは不出来な子どもだった。でも。

 家を出るとき、わたしはわたしの三千万円で好きなものを買う、と決めた。

 久瀬葉を、わたしの夫を、買うのだと。

 愛も、買うのだと。

 この世にお金で買えないものはない。

 お金で心がぐしゃぐしゃになった自分が言うのだから、ただしい。絶対に。

 半ばやけっぱちだったと思う。けれど、断ると思っていた葉は「いいよ」と簡単に了承し、つぐみは今、七か月目の結婚生活を迎えている。

 画家として、ただの鹿名田つぐみとして、葉はつぐみという生に分かちがたく入り込んでおり、ある日突然いなくなったら、つぐみはたちまちつぐみとして機能できなくなるだろう。ひととしても、画家としても。

 脆い。弱い。ユーカリしか食べられないコアラか、笹しか食べられないパンダみたい。生物としてどうしようもない弱者だ。

 でも、直そうなんてひとつも思っていない。

 葉のほかに欲しいものは作らない。誰とも心を交わしたいと思わないし、一生だれとも身体はつなげなくていい。そういうつぐみを大丈夫ではないと、ひとは言うのかもしれないけれど、つぐみはどこかの屋敷に囲われて絵を描く毎日を送るよりは、わたしはわたしをすくったのだと思っている。


「久瀬くん。腰抜かした」


 立ち上がることができなくて葉のロングカーディガンの裾を引っ張ると、「ふふ、はいはい」となごやかにわらって葉が手を差し伸べてきた。いつものように抱き上げられる。その首に腕を回して、つぐみは葉の肩に頬をくっつけた。

 抱えられたまま廊下を歩いていると、紺色の影が視界の端を横切った。

「あ」とつぐみはつぶやく。すこし首を傾けるようにすると、軒下につくられたちいさな巣があった。


「見つけた、ツバメ」

「つぐみさん、知ってる? ツバメってしあわせな家にしか巣作んないらしいよ」

「そうなの?」

「鮫島さんが言ってた」


 情報もとが鮫島だととたんに嘘っぽい。

 ほんとうかなあ、とつぐみはつぶやいた。


「そうだといいなあ……」


 夕焼け空をまぶしげに仰ぐつぐみの頭上を、ツバメは悠々と横切っていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る