二 奥さんと契約更新のしかた (1)

 家の軒下にツバメが巣をつくっていたと、朝起きたときに葉が教えてくれた。

「どこの軒下?」と尋ねると、「探してみて」とふふーとわらう。

 こういうとき、つぐみはめあてのものを見つけられた試しがない。ちょっと探してみてすぐに投げ出し、「教えて」と駄々をこねたが、葉はわらうだけでまだ教えてくれない。


 今日は月一回の契約更新日だった。

 半年前、見切り発車で結婚をスタートさせたため、つぐみは月に一度契約更新日をもうけることにした。諸条件を月に一度見直し、契約続行の意志を甲(=つぐみ)と乙(=葉)に問うのである。つぐみは葉の雇用主のようなものであるし、労働環境改善の交渉には誠意をもって応じなければ。

 契約更新のための協議はいつも居間のちゃぶ台でひらかれた。

 葉はなぜかこの日だけはコンビニの中華まんやポテチやカップスイーツやサイダーを買ってきて、それらを山のようにちゃぶ台の上に置く。好きなときに好きなものを食べつつ、諸条件を確認するのである。まるで緊張感がない。

 ちなみにつぐみは第一回の契約更新日に人生ではじめて中華まんを食べた。肉まんとあんまんを半分ずつで、神の食べものかと疑うほどおいしかった。今はピザまんを食べている。チーズがむにょんと伸びて、これもおいしい。


「梅雨に入るまえに庭の伸びすぎてる樹をどうにかしたいなー。ホームセンターで剪定バサミ買っていい? なるべく一万円以内におさめます」

「いいよ」


 葉には生活費として定額を渡しているけれど、高額の出費が必要なときは事前に訊いてもらうようにしている。といっても、つぐみに剪定バサミの相場などわからないので、三万でも五万でもそうなのか、と思って許可しそうだが。


「あとキッチンで膠溶かしたときはちゃんと換気してね。あれにおいが籠もるんだよ」

「わ、わかった」

「それと先月持ち越しになった、お風呂のあとはつぐちゃんの髪をちゃんと乾かしたい件、その後の進展はいかがでしょうか?」


 小中高とほとんど学校に通っていない葉は悪筆で、メモ帳にはミミズがのたくったような字が並んでいるだけだが、本人はちゃんと何を話したか覚えているらしい。「うーん」とつぐみが鈍い反応をすると、「髪はちゃんと乾かそうよー」と葉が言った。


「つぐちゃんの髪、せっかくさらさらなのにごわごわになっちゃうよ?」

「うーん……」


 でも面倒くさいのである。放っておいたら勝手に乾くし。


「わかった。じゃあ、俺がドライヤーで乾かすから、つぐちゃんは座っていればいいよ」


 破格の条件を出されて、しぶしぶつぐみはうなずいた。

「やったー!」と葉は自分のことのようにほくほくしている。


「じゃあ、今月も契約更新でいい?」

「はーい」


 甲乙ともに合意に至り、第七回目の協議は終わった。

 協議と言いつつ、生活の細かなルールを決めたり、生活用品を購入するか決める場にしかなっていない。葉がつぐみに対して追加の支払いを要求してきたり、これは不当労働だなんて言い出すこともなかった。契約結婚はびっくりするほどつつがなく、七か月目を迎えようとしている。


「つぐみさん、最近ずっと絵を描いてるね」


 角煮まんとあんまんを食べた葉は、カップデザートの蓋をあけている。

 ピザまんをまだのろのろと食べながら、「九月に銀座の画廊でやるグループ展に出すの」とつぐみは説明する。つきあいがある画廊のオーナーの鮫島さめじまから誘いを受けたのは九か月ほどまえだ。鮫島が主宰で、「まほろば」をテーマに若手の画家十人が作品を出展するもので、その場で購入もできる販売会をかねている。

 つぐみはいつもと変わらず「花と葉シリーズ」を出そうと思っている。

 今回は二枚を屏風のように見立てて、赤の曼殊沙華と白の曼殊沙華を描いていた。曼殊沙華の季節は九月なので、今の時期は咲いておらず、写真を見てイメージをふくらませているのだけど、ちょっとした質感がわからないと迷子になり、筆が止まってしまう。つぐみにはそういう神経質なところがある。


「そういえば、あした鮫島さんが展示のことで相談に来るって言ってた」

「そうなんだ。何時?」

「二時」

「じゃあ、鮫島さんがすきな古暦堂の最中を用意しとこう」


 画商の鮫島は、葉も何度か顔を合わせている。

 はじめはどこの馬の骨かわからない葉を警戒しているようだったけれど、葉の毒気のなさに調子をくるわされて、いまでは毎度葉が出したお茶と和菓子に舌つづみを打っている。ちょろい。葉がひとの懐に入るのが異様にうまいのかもしれないけれど。


「つぐみさん、つぐみさん」


 すこしぬるくなったほうじ茶を飲んでいると、葉がカップスイーツの中身をスプーンですくって差し出してきた。パンナコッタにベリーソースがかかっている。ぱくんと口に入れると、コンビニスイーツらしい甘さがぎゅっとこめかみを痛ませる。まずくはないけど、葉がつくるもののほうがおいしい。


「久瀬くんのパンナコッタのほうがおいしい」

「そう? じゃあひさしぶりにつくろうかな」

「ほんとう?」


 思わず顔をほころばせると、葉はふにゃりとわらった。

 久瀬葉という男は、十人が見たら十人がうつくしい、と思う容姿をしている。

 染めていないのに淡いセピア色の髪は陽のひかりに透けると、金にふちどられていっそう輝き、膚の色は抜けるように白く、眸は長い睫毛のせいか憂いを帯びている。果敢なさとか憂いを感じさせる美貌だ。

 反面で、葉という男自身が見せている性格は陽だ。人懐っこくて、明朗で、生活力がある。そういう外見と中身が噛み合わないちぐはぐさが、この男を余計、目を惹かずにはいられない何かにしている。

 つぐみは、葉の顔と身体がすきだ。この男の指先からつま先まで、どこもかしこも、たまらなくうつくしいと思う。ただスケッチブック越しに見ているに飽き足らず、何をしてでも手に入れようとしてしまったところが自分は強欲だと思うけれど。


 

 鮫島は二時ぴったりにやってきた。

 インターホンを押した鮫島に「どうぞ」と中からつぐみがこたえると、勝手に引き戸を開けて入ってくる。つぐみが小学生の頃からつきあいがある鮫島は、礼儀なんてあってないようなものだ。


「やーやー、鹿名田先生、ご無沙汰してます。元気ですか」


 鮫島はもともと祖父――鹿名田本家の出入りの画商だった。年齢はもう五十近いはずだが、はじめて会ったときからまるで老けない。というか年齢不詳なのだ。鮫島は仕立てのよいブリティッシュスタイルのダークスーツを着て、色の入った眼鏡をかけていた。口元にはいつもの胡散臭い笑み。


「ご無沙汰って、一週間まえにも来てたじゃないですか。羊羹持って」


 鮫島は何かと理由をつけてこの家に足を運ぶ。

 はじめは葉とつぐみの仲を疑っているのかと勘繰ったが、単にこの家が居心地よいらしい。葉に胃袋をつかまれたともいえる。顔をしかめていたつぐみは、鮫島の後ろに見慣れない顔を見つけて瞬きをした。

 つぐみより四つか五つ上、葉と同世代だろう。Tシャツのうえに長袖のシャツを重ね、髪は目が覚めるようなフラミンゴ色だ。

 誰だろう。視線で問いかけたつぐみに「ああ、彼ね。羽風はかぜくん」と鮫島が言った。


「ここに来る前、打ち合わせしててさ。彼、つぐみちゃんの絵のファンなんだって」

「そうですか」


 ファンだかなんだか知らないが、赤の他人をひとの家に連れてくるな。

 気持ちが顔に出ていたのか、「……つぐみちゃん、まさかと思うけど」と鮫島が眉をひそめた。


「『まほろば』の参加者、把握してない? 羽風くんもメンバーのひとりだよ」


 してなかった。

 基本的に家に引きこもって制作を行い、自作が飾られていようが売られていようが展覧会にも画廊にもほとんど足を運ばないつぐみは、参加メンバーのひとりなんて言われても興味がない。そういえば、鮫島から企画書をもらったときに羽風の顔写真を見たような気もする。いや、見ていないかも。とりあえず、フラミンゴ色の髪の毛はいなかった。興味がないことは何もかもあやふやだ。


「ええと、じゃあどうぞ……」


 ぼそぼそと言って、もうひとりぶんのスリッパを用意する。

 鮫島相手だと油断していたから、つぐみひとりの出迎えで、葉はキッチンのほうにいる。夕飯のアクアパッツァの下ごしらえをしているのだ。鮫島と羽風を客間に通すと、つぐみはキッチンに向かった。


「久瀬くん」

「あー、鮫島さん来た?」

「うん、あとひとり、フラミンゴがいる……」

「フラミンゴ!?」


 つぐみは真面目に言ったのだが、「えっどこ!見たい!」と葉は興奮気味になった。菜箸を置いて飛びだそうとするので、つぐみは葉のパーカーの裾を両手で引っ張った。


「ちがうよ。フラミンゴ色の髪の男のひとだよ」

「え? あー、なんだ。色かあ」

「お茶とお菓子、一個多く用意してくれる?」

「大丈夫。多めに買っておいたからね」


 葉はコンロのうえに使い古した薬缶を置いた。

 お茶出しは葉に任せることにして、つぐみは客間に戻る。

 鮫島と羽風はすでにテーブルに出した資料を見て何かを言い合っていた。


「ああ、鹿名田先生」


 つぐみにきづいた鮫島が「これ展示案なんですけど見てくれます?」とカラー印刷された大きな図面をひろげる。


「鹿名田先生は今回、屏風に見立てた大作を二点でしたよね」

「そうです。対になるかたちで」


 企画の打ち合わせをした際に、つぐみのほうから提案をしたものだ。

 構想を練るスケッチは終えて、固めたデザインを転写し、墨を入れる作業に移っている。つぐみの作風の特徴が、異常に細かな刺繍を思わせる植物の細密画で、この描き込みにはふつうの画家の数倍の時間がかかる。屏風の大きさの大作ともなれば、ひと月は描き続けることになるだろう。


「えー、販売会で大作ってどうなんですか。小品のほうが売れるでしょ」


 そう言う羽風はF3からF6号の連作の出展を考えているらしい。家のインテリアにもしやすく、手が届きやすい値段設定ができるので人気のサイズだ。逆につぐみのような大作は、飾るスペースを考えても、ふつうは売れづらい。


「そうは言っても鹿名田先生だからね。売れますよ。今回も何人かが競るんじゃないかな?」


 つぐみは一般の知名度はまだ低いが、一部の層に熱狂的な人気を持つ画家だ。

 公開した「花と葉シリーズ」は軒並み売れて、いくつかは数百万円というとんでもない高額で取引されている。


「失礼しまーす」


 タイミングを読んだ明るい声が挟まれて、葉が顔を出した。


「鮫島さん、こんにちは。来るって聞いたから、古暦堂の最中買ってきたよ」

「ああ、あれ覚えててくれたの、葉くん!」


 いんげん豆を使った白あんがたっぷり詰まった古暦堂の最中は、鮫島の好物だ。それに新茶の爽やかな香りを漂わせる煎茶。礼儀作法というものを学んでいない葉は、ぽいぽいと無造作に茶器とお菓子を置いていく。だけど、ふしぎと嫌なかんじはしない。無造作だけど雑ではないし、葉はひとのことをよく見ている。

 フラミンゴこと羽風をちらっと見た葉は、ほんとうにフラミンゴ色だ、という顔をした。もちろん羽風相手には何も言わなかったし、「どうぞ。最中おいしいですよ」と当たり障りのない言葉だけをかけた。

 羽風のほうはなぜかじっと探るように葉を見つめた。前髪の下の目が猛禽のようで、なんだかいやだな、とつぐみは顔をしかめる。


 展示案についてひととおり確認を済ませると、鮫島は葉を連れて蔵に向かった。この家の蔵に眠っていた陶磁器が結構な名品だったらしく、陶磁器フェチの鮫島は前々から撮影の機会を狙っていたのだ。

 鮫島としては、ついでに画家同士の交流を、と気を利かせたのかもしれないが、羽風とふたりきりで残されたつぐみのほうはたまったものではない。鮫島や葉とちがって、つぐみには初対面の人間と打ち解けて盛り上がるなんて芸当はできない。


「あれ、花と葉シリーズのひと?」


 最中を手づかみで食べつつ、羽風が半分ひらいた障子の外へ視線を投げて訊いた。

 葉のことを言っているのだろう。なかなか鋭い。つぐみの作品に葉個人がわかるように描いたものはない。けれど、見るひとが見れば、顔貌をかたちづくるひとつひとつのパーツや、手や骨の形から「花と葉シリーズ」のモデルが葉であると見抜くだろう。

 ちがう、と言おうと思った。でも羽風のなかでそれはあらためて訊くまでもない確定事項なのだと、声の調子でわかった。


「……そうです」


 もごもごとこたえると、「やらしー」と羽風が咽喉を鳴らした。


「モデルを家に囲っているとか、明治大正期の画家かよ」

「か、囲ってはいない」


 葉との結婚は、金銭を伴う双方合意のうえでの契約だ。


「じゃあ、ほんとうにただの恋人?」

「……」

「あんたの絵って、えろいのに生の肉っぽさがないんだよなー。そこがいいんだけど」


 つぐみが黙っているのをいいことに、羽風は好き勝手言っている。

 生の肉っぽさがない。心当たりはある。つぐみは葉と関係を持ったことがない。出会って二年、同じ屋根の下で暮らしてからは七か月。夫婦の肩書を持ってからも、ただの一度もだ。

 でも面と向かって言われると、暴かれたくなかった部分を無理にさらされたような不快な痛みが走った。ひとから葉との関係をあれこれ邪推されるのは気分がわるい。


「鹿名田せんせー、子どもの頃、誘拐事件に遭ったってほんとう?」

「……誰から聞いたんですか、それ」


 表情を消して、つぐみは尋ねる。

 フラミンゴは意味深な微笑を浮かべて肩をすくめた。

 つぐみは本名、年齢、性別、出身地すべてを公表していない画家だ。ただ、画業で関わる人間相手にはそういうわけにもいかない。鮫島はあれで口が硬いが、つぐみが鹿名田本家の娘で、実家と半ば絶縁する形でモデルの葉と結婚したのは、同業者や画商のあいだでは公然の秘密だ。そして、鹿名田つぐみの名前を検索すれば、過去の事件の記事は今でも簡単に見つかる。


「身代金目的の誘拐で、容疑者死亡による不起訴だっけ。鹿名田さん、もしかしてそいつ殺ってたりする?」


 つぐみは思わずわらってしまった。


「当時、わたし六歳ですよ? どうやって」

「知らないけど、あなたの絵見たとき、あーこいつ絶対ひとりは殺ってそうって思ったんだ。鮫島さんに言ったことはほんとう。あなたの絵のファンなんですよ俺?」


 にっこりと羽風は口角を上げる。

 ありがとうございます、とつぐみは平坦に返した。人並みの賞賛をもらったってなにもうれしくない。フラミンゴは金輪際、出入り禁止にしようと心の中で固く決める。



 蔵の中の陶磁器たちを写真におさめて、見るからに上機嫌で鮫島は帰っていった。

 鮫島は現代アートや日本画を中心とした画商であるのに、なぜか陶磁器フェチなのだ。なら陶磁器のバイヤーになればいいのに、と前に言ったら、すきなものは仕事にしてはいかん、と真顔で返された。目が曇るからだそうだ。


「どしたの、つぐみさん」


 鮫島とフラミンゴを見送る葉の横で、葉のパーカーの裾を握っていると、顔のまえで手を振られた。「え?」と我に返って、こちらの顔をのぞきこんできた葉を見返す。


「さっきから足ばっか見てるから」

「……あのひと、すきじゃなかった」

「あのひと?」

「フラミンゴ」

「あー、ほんとに髪の毛、フラミンゴ色だったね?」


 坂の先で小さくなった羽風は、残照を受けてフラミンゴ色が燃えたつかのようだ。

 くすくすとわらって、「じゃ、塩まいとこうか」と葉は一度台所に戻った。ほんとうに塩が入ったプラスチックの容器を持ってきて、「えいっ」と空に塩をまく。

 ゆるやかな放物線を描いて、白い結晶が舞う。葉のパーカーは白くて、手足はのびのびとしなやかで、つぐみは一羽のかもめのような葉を見ていると泣きたくなってくる。わたしを捕らえてしまったさまざまなものが、このひとまで捕らえませんように、とこの一瞬は本気で祈る。でも次の瞬間にはさびしくて、葉のパーカーの裾に両手を伸ばしてしまう自分を知っている。


「つぐちゃんもやる?」

「うん」


 振り返った葉が容器とスプーンを差し出してくるので、つぐみはうなずき、こわごわ、葉の皺くちゃになったパーカーから手を離した。

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