婚儀
旭が人の世へ発ってから九日後、九月初旬の夕刻。
痛みを堪えるように眉間を寄せた蝮と、目を泣き腫らした蒼鷺が、垓の額から城の欄干へと降りた。
二人は、瑞穂の居間で主に向け深々と額を伏せた。
「二人とも、大義であった。面を上げよ」
瑞穂の声に顔を上げ、瑞穂を見つめた二人は、新たに潤むものを押し戻すように唇を噛む。
「——人の世での旭の加減は、如何であったか」
「はい。旭様のお加減は、元通りのお健やかな状態に戻られました。瑞穂様のお母上様の梅酒が、旭様のお身体にはとてもよく合うようにございました。百合の毒が体内より消えてからは、私の薬湯と併せて梅酒を飲まれることによりお顔の色は急速に改善し、寝顔も安らかに変わられました」
「お目覚めになった際、旭様は大層驚かれ、最初は取り乱したご様子でしたが……あの夜以降の成り行きをお伝えしたところ、やがては状況をご理解されました。
『みんな、ありがとう』と。城の他の従者たちにもそう伝えて欲しいと仰っておられました」
二人の静かな説明を黙って聞いた瑞穂は、少しの間を置いて徐に眼差しを上げた。
「——そうか。
旭への手厚い看病、深く礼を申す。追って褒美を遣わそう。しばらくゆっくり休むと良い」
「ありがたき幸せにございます」
二人は再び深く額を伏せる。
蒼鷺が頭を上げぬうちに、蝮は意を決したように顔を上げると、揺るがぬ眼差しで瑞穂を見つめた。
「……旦那様。もう一つ、大切なお知らせがございます」
「大事な知らせ?」
その言葉に、瑞穂の表情が微かに緊張した。
「はい。
旭様は、記憶を全て消し去る術をお受けになることを、固く拒まれました。
旦那様よりの命である旨お伝えすると、激しくお怒りになり——術の札をそのまま瑞穂様へ返せ、と仰られました」
蝮は懐から札を静かに取り出し、畳へ置くと瑞穂へ向けてすっと押し出した。
札を見つめた瑞穂の表情が、みるみる強張っていく。
「……この術を、旭が受けておらぬと申すか……?
こちらの世での忌まわしい出来事を全て記憶に残したまま、人の世へ戻ったと……?」
「はい」
「——そ、それでは……
それでは、旭が元の世で心安く生きられようはずがない……
こちらの世で味わった苦痛を全て背負ったまま、旭は……
其の方、必ず為すようにとの命を反故にするとは一体——!!」
「旦那様、お待ちくださいませ!」
蒼鷺が、悲鳴にも似た声を上げた。
「蝮殿は、旭様のお心を深く汲み取った末、旭様のご意思を聞き入れたのでございます。旦那様のご意向を無視したわけでは断じてございませぬ。
私も、旦那様がなぜ旭様を人の世へ返さねばならなかったのか、全て旭様へお話しいたしました。旦那様より固く口止めされていたにも関わらず」
「——……」
「旭様は、どれほど苦痛を抱えようと、この結末の理由をお知りになりたかったのでございます。何故、自分が旦那様のそばを離れ、人の世に戻らねばならなかったのかを。
どれほど惨い事実があろうと、旭様にとってそれを明かしてもらえぬこと以上に惨い仕打ちはございませぬ。
旭様は、全てを知り、ひとかけらも消したくはないのでございます。旦那様に関わる全てのことを。
旦那様のお心が鎮まらぬならば、どのような罰もお受けいたします。いかなる叱責を受けようと、私共はこの選択を一切悔いてはおりませぬ」
「…………」
張り詰めた沈黙が、広間に満ちる。
やがて、震えるほどにきつく膝に握られていた瑞穂の拳が、ふっと緩んだ。
銀の髪を揺らし、瑞穂は伏せていた顔を僅かに上げて、小さく微笑んだ。
「——……私を、覚えていてくれるのか。
二度と会うことは叶わずとも、私を忘れずにいてくれるのだな」
蒼鷺と蝮は、再び深く額を伏せた。
蒼鷺の堪えきれぬ嗚咽が、主の静かな居間に密やかに響いた。
その日の夜。
仄明るい文机で
「——鴉、おるか」
襖がすいと静かに開き、廊下に膝をついた鴉が清しい動作で頭を下げた。
「お呼びにございますか、旦那様」
「これより星の守の城へ遣いを出し、この文を届けて欲しい」
「……これは……」
「彼の条件を受ける旨を
「……あの、旦那様……
返答の期日は、明日でございますが……」
「明日まで待たずとも良い。
むしろこの時間が長いほど、自らの心が彷徨い出してしまうのでな」
瑞穂の淡い微笑に、鴉は一瞬言葉を詰まらせたが、澱みない仕草で文を受け取ると再び深く首を垂れた。
「……かしこまりました。
すぐさま、遣いを発たせます」
退出する鴉へ小さく頷いた瑞穂は、障子の隙間から差し込む青白い月の光へ静かに顔を向けた。
銀の髪が、微かに秋めく夜風に音もなく揺れた。
*
星の守と瑞穂の婚儀は、星の守の城にてこの上なく盛大に執り行われた。
瑞穂からの文を確認した星の守は、待ち望んだ伴侶を逃すまいとでもするかのように婚儀の支度を整え、その七日後には挙式となった。
数多の神々が式に参列し、大広間の祝いの座に着いた星の守と瑞穂の面前へ恭しく額を伏せつつ祝辞を述べる。
「此度は、名のある神であるお二方のご婚礼、心よりお祝い申し上げます」
「これまで公にはどなたとも関わりをお持ちになられなかった瑞穂様が、星の守様の奥方様となられるとは、まさに晴天の霹靂にございました。美しき高嶺の花には一体誰の手が届くのかと思うておりましたが……流石は星の守様にございます」
「雨神様のご一族も、これにて御安泰にございますな」
列をなすように次々と祝いを述べに来る神々は皆、朗らかな笑みを浮かべ口を極めて
それらのことを星の守は一切意に介する様子もなく、満足げに杯の酒を呷る。
「これまで連れ添うたものは皆
のう、瑞穂」
瑞穂が決して頷きたくないだろうことを知った上で、星の守は隣に座る瑞穂へ冷酷な微笑で問いかける。
婚儀用の派手やかな装束を纏い、銀の髪を煌びやかな紅の組紐で飾り付けられた瑞穂は、ただ静かに額を伏せて抑揚のない声で答えた。
「此度は、身に余る幸せを賜り、恐悦至極に存じます」
「——聞けば、人の世から参った者の魔性に振り回されたとか」
ひそりと囁かれた言葉に瑞穂は思わず顔を上げ、目の前の男神の脂ぎった顔を見据えた。
男神は、ニヤリと楽しそうな笑みを一瞬浮かべ、すっと平静の表情を引き戻して言葉を続ける。
「それは大層災難にございましたな。やはり人間は煩悩に塗れた恐ろしい魔物にございます。ゆめゆめ引き込まれてはなりませぬな」
「——……」
突き上げる怒りに、畳についた指が震え、爪の先から青い光が散りかける。
それをぐっと封じ、瑞穂は再び静かに額を伏せた。
顔の両脇へかかった髪に隠れながら、瑞穂は奥歯を砕けるほどに噛み締めた。
婚儀が済み、しんと静まりかえった星の守の居室に、瑞穂は純白の寝衣で主を待つ。
傍には、純白の光沢を放つ床が既に並べ敷かれている。
全ては、自分自身が招いたことだ。
——だが。
どかどかと大股の足音が、廊下を近づく。
瑞穂は襖へ向け正座をすると、すっと額を伏せた。
「お疲れ様にございました、旦那様」
「言いつけ通り待っておったか、瑞穂」
襖が雑に開き、星の守は酒の酔いの抜けきらぬ様子で上機嫌の
「流石は我が妻じゃ。儂の言葉など聞き流して城へ戻るのではあるまいかと思ったが」
「——そのようなことは」
城へ戻すつもりなどさらさらない上でのいたぶるような言葉に、瑞穂は表情を微塵も動かさず顔を上げる。
同時に、すぐ目の前にどかりと座った星の守の太く逞しい腕にぐいと引き寄せられた。
「長々と焦らしおって。
焦らされた分、積もり積もっておる」
「——星の守様。
大切なお願いがございます」
「何も為さぬうちに願い事か」
抱き竦めようとする力を遠ざけるべく大きな肩を押し返し、瑞穂は星の守を強く見据えた。
「今は九月の初め、ここからは
雨神の役目も日に日に増えるこの時期、幾晩もこの城で過ごすわけには参りませぬ。
それ故、明日の早朝には、雨神の城へ戻りたく存じます。
——また、これより十月十日までのひと月は、公務に専心するため、
瑞穂の言葉を、星の守はさも楽しげに笑い飛ばした。
「はははっ!
そなた、そのような逃げ口上が通用すると本気で思うておるか?
今宵より、そなたは我が妻ぞ。新妻が床を拒むを許す夫がどこにおると申すのだ」
「逃げ口上ではございませぬ。
この星に必要な雨をもたらす術は、雨神以外には行えぬことにございます。いかに強大な神も、星に雨の恵みをもたらすことは
この婚姻により、私の雨神としての公務が立ち行かなくなったとなれば、夫である貴方様のお名前にも傷がつくのでは?」
「…………」
瑞穂の返答に、星の守は自らの髭を小さくしごくように暫し思案したが、何ということもないように再び口を開いた。
「よかろう。
ならば、明日は城へ戻るが良い。
その代わり、明日よりは毎晩儂がそなたの城へ通うこととしよう。さすれば不都合はなかろう? 儂の黒龍であればそなたの城まで翔ぶのは造作もない。いずれにせよ、今後も雨神の城主であり続けるそなたを、我が城へ嫁がせるわけにもゆかぬ。そなたが来ぬならば儂が毎晩通うまでじゃ。
——そして、そなたの言い分も
「——……」
「良いな、瑞穂。
懐妊は先送りとするが、夜伽を拒むなど許さぬ。
雨を
低い呟きと同時に、その腕に激しい力が篭り、傍の床に有無を言わさず組み伏せられた。
強く押さえ込まれた両手首が、思わず抵抗しようともがく。
「——いつもすましたそなたが、これほどに嫌がるとはな」
星の守は
渾身の力で身を
片手の自由を得た星の守は、瑞穂の寝衣の襟を乱暴に乱し、剥き出しになった白い首筋を味わうように唇でゆっくりとなぞる。
「気の済むまで抗え。
激しく抗われるほど、男は猛るものじゃ」
首筋にぐっと強く歯を立てられ、全身がびくりと震えた。
頭の芯が、奇妙に冷えていく。
もがいても、抗っても、逃げられない。ただこの獣を喜ばせるだけなのだ。
そして、例えここから逃げても——
自分には、もう、何もない。
抗う力も気力も、身体から抜けてゆく。
なすがままになりながら、瑞穂は顔を背けて目を閉じた。
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