別離
ゆっくりと、瞼を開けた。
やたらに眩しい照明が降り注ぎ、ぼやけた視界が急速にはっきりしてくる。
「——お気づきになられましたか、旭様」
重い頭を声の方へ動かすと、侍医の
「旭様……」
その横には、蒼鷺の泣き出しそうな笑みがある。
儀式の夜の猛烈な苦しさを思い出し、ふっと息を吸い込んだ。
気道が針の穴になったかのような強烈な息苦しさと胸の圧迫感が、今は嘘のように消えている。
そして——
二人の背後に見える部屋の壁には……
見慣れたポスターと、カレンダー。
「……どうなったんだ」
激しく混乱した意識で、旭は声を上擦らせ半身を起こした。
「ここは、人の世での旭様のお部屋にございます」
蒼鷺が、静かに額を伏せながら感情を押し殺したような声で答える。
「この空間には固く結界を張っておりますゆえ、ご家族をはじめ部屋の外の方々には一切気づかれておりませぬ。
齢分の儀の最中にお倒れになり、瑞穂様の力にてお眠りになった旭様を、すぐさま垓に乗せてここまでお運びいたしました。その日より、今日で八日目にございます。私と蝮殿で、この間旭様の御看病をさせていただきました」
蝮も複雑な表情を伏せ、ここまでの経過を説明する。
「人の世の空気があの百合の毒を消す最善の薬となり、また、私の煎じた薬湯と瑞穂様の母上様の梅酒を少しずつお飲みいただいたことで、もはや百合の毒はほとんど体内には残っておりませぬ。血の状態も正常に戻り、呼吸も心拍もお健やかに戻っておられます。これでもうご心配はございませぬ」
二人の説明も、旭の頭にはろくに入ってこない。
あの夜の朧な記憶を、旭は必死に呼び戻す。
猛烈な苦しみに、齢分の杯を取り落として。自分を抱き寄せた瑞穂の後ろに、美しい女が立っていて。
自室に飾っていた美しい百合が、禍々しい魔物だったとは。
瑞穂が齢分の支度で部屋に篭もった隙を突き、あの女は柚季に化けて毎晩自分の身体に毒を流し込んだ、と——瑞穂に深く恋焦がれ、冷淡に切り捨てられた恨みで自分と瑞穂に復讐したのだ、と。
あの女は楽しげにそう言った。
瑞穂が、女の後を追って月光の夜空へ駆け出して行って。自分は、鴉と蝮に担がれて自室の床へ運ばれて。蝮から何か薬湯を与えられ、必死に喉へ流し込んだ。
朦朧とした意識のまま、どのくらい経ったのだろうか。重い足取りで廊下を小さく軋ませ、瑞穂が枕元へ戻ってきたのだ。疲れ切った顔と、雫の滴り落ちる髪をして。
『——そなたを、人の世に返す』
枕辺に座り、瑞穂は、静かにそう言った。
今にも動きを止めそうな心臓と呼吸をどうにもできぬまま、思わず身を起こして濡れた肩にしがみついた。
嫌だ、と。絶対に戻らない、と。
『そのように心を乱してはならぬ、旭。そなたの命は、今消えかけておる。
そなたの命をつなぐ方法は、人の世に戻ることだけなのだ。このままここにいては、そなたの命の火は……』
その呟きに、大声で叫んだ。命が繋がっても、この先瑞穂のいない場所で生きるなんてできない、と。
なのに。
『——済まぬ、旭』
掠れたような声と共に、しがみついた首筋から濃い水の匂いが立ち上った。
穏やかに優しいその匂いを吸い込んだ途端、瞼が重くなって——何も考えられなくなった。
瑞穂は、あの時、何か力を使ったのだ。
有無を言わさず自分を眠りに落とす術を。
何も、言えなかった。
何も、伝えられなかった。
瑞穂から、あんな一方的な別れの言葉を一言聞かされただけで。
何一つできずに、ここへ戻ってきてしまった。
「あの夜の旭様は、一刻を争うご容態でございました。これ以上僅かも心身を荒立てさせるわけにはいかぬとの瑞穂様のご判断でございました」
旭の心中を察したかのように、蝮が静かにそう告げる。
「——蝮先生」
呆然としていた旭の瞳が、にわかに焦点を結んで蝮を強く見据えた。
「先生、さっき、言ったよな……もう何の心配もない、って。
ならばもう一度、神の世に俺を連れて帰ってくれ」
「……それはできませぬ」
「何でだよ? 俺の命が危ないからこっちへ戻したんだろ? もう毒は抜けたんだし、これで神の世に戻れば全部元通りじゃないか?」
歯を食いしばるように俯いた蝮の両袖を、旭の手が激しく掴んで揺さぶる。
「なあ、頼む、先生、蒼鷺。
……それとも、何か戻れない理由があるのか?
そう言えば、あの夜、瑞穂の体が驚くほど濡れてて、髪から滴が落ちていて……瞳の色が、恐ろしいほどに昏く沈んで……
あの時、かのこを追っていった瑞穂に、何かあったのか?
どうして、何も言ってくれないんだ? 俺にはもう、何も聞かせてくれないのか。俺はもう要らなくなったのか。ただの下界の人間に戻れってことなのか!?」
我を忘れたように乱れる旭の言葉に、蒼鷺が堪え切れず顔を上げた。
「旦那様は、旭様には何も話してはならぬと仰いました。
けれど、何もお伝えせぬまま済む話ではございませぬな。
——旭様。私の知る限りのことを、全てお話しいたします」
普段は涼やかに落ち着いた瞳が強く旭を捉え、蒼鷺は静かに口を開いた。
「瑞穂様は、百合の精を追い、あの女を討つために凄まじい量の稲妻を山に落とし——神の山を炎に包んでしまわれました。
炎の上がる山中で百合の精は事切れ、その場へお出ましになった星の守様より、瑞穂様はその罪を問われることとなり——彼の方の求めに応じれば、山を焼いた罪を不問に伏す旨を告げれられたのでございます」
「……求め、って……」
「——星の守様の伴侶となる、との条件にございます。
応じるならば、神の地位も雨神の城も全て守ると約束しよう、と。
星の守様へのお返事には、十日間の猶予が与えられておりますが……旦那様は、我々家臣を必ず守る、と……」
「…………」
言葉が出ない。
星の守は、瑞穂へそのような欲望を抱いていたというのか。
けれど、そう聞かされると、合点がいく気もする。
謁見の際、瑞穂が星の守へ発していた無表情な冷ややかさ。梅雨の最後の日に、星の守が瑞穂へ仕掛けたあまりにも残酷な仕打ちと、どろりと粘りつくようだった星の守の瑞穂への言動。
星の守の瑞穂への執着を、瑞穂はずっと拒み続けていたのだろう。その上で、下界から人間を招いて傍に置くなど、高慢な神の神経を逆撫でする行為だったに違いない。だからあの時も、星の守は一歩間違えば命に関わるような仕打ちを瑞穂に施したのだ。
やはり、こうなってしまった。
瑞穂に起こった災いは、全て自分が引き寄せた。
そんな言葉が、胸の奥の闇からじわりと浮き上がり、動かし難い錨のように心を硬直させる。
「されど——これは、貴方様のせいではございませぬ。旭様」
蒼鷺の揺るがぬ声が、旭の耳に響く。
「誰のせいでもございませぬ。
ただ、瑞穂様が旭様を求めるその想いの強さが招いたことにございます。
これは、穢れでも災いでもございませぬ。
貴方様は、我々神の世の者へ、何より尊いものを分け与えてくださった——その結果でございます」
蒼鷺の目が大きく潤み、光る筋が幾つも頬を伝う。
「……うん。
ありがとう、蒼鷺」
目の奥が熱く突き上げられる感覚を必死に押さえ込むが、声は情けなく震える。
思わず唇を噛み締めた。
「旭様。ご回復、誠におめでとうございます。
貴方様が初めて神の世へいらっしゃった日の御髪は、つい昨日のことのように覚えております」
必死に涙を押さえ込んだ蒼鷺が、懐から小さな櫛と鋏を取り出して淡く微笑む。
見事な手捌きで髪は元とほぼ変わらぬ形に整えられ、フローリングに落ちた髪はまるでほうきで集めたように一瞬ですいと一つに纏まり、彼女の手の中へ束ねられた。
やはり込み上げるものを堪えたようなしかめ面をした蝮が、懐より小さな木札を取り出して旭へ額を伏せた。
「旭様。
瑞穂様より、大切なお札をお預かりしております」
「……大切な札?」
「神の世での出来事を全て記憶から消し去る術を込めたお札にございます。
人の世にて貴方様がご回復された際には、必ずこの術を施してくるようにとの旦那様の
この術の封印を解けば、今の旭様のお心の苦痛から解放されることと存じます」
「…………
記憶を……消す……」
この記憶が、自分の中から全て消えるならば。
どれほど楽になるだろうか。
学校でこっぴどく失恋して、梅雨入りして、傘がなくて、ずぶ濡れになったあの日。
美しい雨神がベランダへ降りてきた、あの日。
あの瞬間からのことが、全てなかったことになってしまえば。
無意識に頷きかけ——次の瞬間、旭は顔を蒼白にして首を激しく横に振った。
「……ふざけるな!!
何があっても、この記憶を消されてたまるか!!!
その札は、そのまま瑞穂に突っ返せ!!」
「——かしこまりました」
蝮は、困惑した様子もなく再び額を伏せると、木札を静かに懐へ戻した。
窓の外に、すうっと虹色の光が過ぎる。
あれは、垓の鱗の色だ。
二人を迎えにきたのだろう。
蒼鷺と蝮は、改めてフローリングに姿勢を正し、深々と額を伏せた。
「では、旭様。
我々は、そろそろお暇致します。
部屋の扉に貼り付けた札を取ると、結界は解けます。外界の方の意識には貴方様についての記憶の断絶は一切起こっておりませぬゆえ、ご家族を始め周囲の皆様も以前と何ら変わることなく貴方様を受けいられられることでしょう。
今はちょうど夕餉刻、お母上様の夕餉のお支度も整う頃にございましょう。
最初にお城へお持ちになられたお荷物とお召し物は、全てお部屋の隅に置いてございます。なお、御看病中、旭様は大層汗をかかれたため、お部屋の箪笥より衣装を無断でお借りいたしました。お許しくださいませ」
改めて自分の服装を見れば、いつも普段着にしていたパーカーとハーフパンツ姿だ。
——本当に、戻ってきてしまったんだ。こちらの世界へ。
もう、ここから空を見上げることしかできないんだ。どんなにあの面影が恋しくても。
今すぐに、駆け戻りたいのに。
瑞穂。
——瑞穂。
際限なく乱れていく感情を必死に押し殺し、無理やり笑みを作って答える。
「うん、わかった。
蒼鷺、蝮先生。今まで、ありがとう。
——城のみんなにも、そう伝えてくれる?」
「かしこまりました。
旭様。どうぞお幸せにお過ごしくださいませ」
それ以上何か口を開けば、どうにもならないものが一気に溢れてしまいそうで——旭は、顔を上げた二人の悲痛な面持ちをただじっと見つめた。
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