もうすぐ日没です。ただいまの東所沢は快晴、気温は23℃です。

mktbn

 ところざわに蟹が集まっている。大きな解体がありそうだというので、折りチャを借りて見に来たのだった。

 見頃の桜ばかりが並ぶ内地寄りの人道を北上して半日。景色を流し見た道中も、途中で休んだ公園でも、人に会うことはなかった。

 別に人類が死に絶えたわけじゃない。人の集まる街はまだあるし、大学も先週までは開いていた。解体の予報も個人のラジオで聞いたことだった。

 人道にしてもそうだ。人が移動するための道路は、移動する人がいるから保守されている。上り下り曲がりくねる路面は所々ひび割れ草が伸びて、確かにガタついていたけれど、橋や川の近くを通れば補修された人家や集落も見えた。

 海寄りの人道を行けば人の顔なんて飽きるほど見られる。向こうは物流のために路面も整備されているから大回りでも楽なはずだった。

 でも海寄りの道は面白くない。せめて海が見えればいいのに。同感。

 行程の最序盤、家を出てすぐの頃、高台で振り返るとようやく海が見えた。海岸線を維持して果てしなく延びる灰白の堤防の向こうで、海はいつも真っ白に霞んでいる。


 到着は昼過ぎになった。【サクラタウン解体 十一月吉日】道沿いにはためく青い幟は、案内というより祭りの賑やかしだった。

 入り口の手前に、桜に囲まれた公園があった。折りチャを畳んで肩に担ぐ。公園の中は切り株だらけで、外からの想像より空が広く見えた。今日のために切り拓いたのだとすれば、大胆を超えてヤケクソな話だ。

 桜を伐ることはできない。爆破も溶解もダメだった。学生が借りられる程度の重機では押しても引いても動かなかったし、地面を掘れば放射状の基盤に阻まれた。存在が噂される自己修復機能は確認することもできなかった。

 散ることのない桜──除染塔がそう簡単に壊れては困るけれど、壊せないものに囲まれた生活は間怠っこい。気持ちよくない。これはまあ、やや同感。筋道は理解できる。

 つまり切り株という状態は、伐採できる本物の樹木でなければありえない。桜に囲まれた園内は文字通りの殺風景で、不釣り合いに人が多かった。

 あちこちのベンチやブルーシートが飲み食いで賑わっている。立ち歩く人は少ない。どこもかなり出来上がっている。混ざって漂う醤油・砂糖・油の匂いからすると屋台も出ているらしい。もはや言い繕う余地もなく、祭りそのものだった。

 脇見をしながら進む。正面にはすでに、岩とコンクリートの唐突な構造物が見えていた。

 近付きすぎた。

「下がってください。この先は危険です」

 声が聞こえた瞬間、靴先に何かが当たった。

 公園を出て数歩のところだった。足下に目を落とすと、白く丸い硬球大の蟹が転がって遠ざかっていき──その先から入れ替わりに、全く同じ形の蟹が迫ってきた。

「下がってください。この先は危険です」

 警告音声も同じだった。両手を挙げて後ずさる。実際、前方不注意の非はこちらにある。「すみません」口を突いた謝罪が聞こえたのかどうか、蟹に反応はなかった。

 蟹──環境形成殻カゼマチを蹴り飛ばすことは子どもでも簡単で、そして完全に意味がない。彼らは人間が素手で破壊できる存在ではなく──試行内容は省略──、常に群生するから。

 目を上げれば短い階段の先に件の巨岩と低い社殿がある。そこまでの地面は白い凹凸に覆われていた。骨の表面に似た臨時の地層。個体を数える気も起こらなかった。

 カゼマチの領域に人間はいない。理屈は簡単で穏当だ。群れは連結して並ぶ。一機だけを蹴飛ばすようにはいかないし、背中を踏めば運ばれてしまう。足場と視界が勝手に後退する振動のあの感覚は、思い出すだけで舌が痺れる。

 そうして人を追い出した土地で、カゼマチは人工物を解体する。その資材で人道や堤防、桜、そしておそらく自分たちを増補するために。

 迂回して右手の緩やかな坂を下ることにした。食べ物を熱した匂いもそちらから上がってきていた。カゼマチは動かない。こちらが一線を越えない限り。


 屋台は近くの川沿いに並んでいた。ピークを過ぎた宴会客と相関してほとんどの店は火勢を落としていたけれど、それでも煙と匂いの暴力は目と鼻に、特に腹に効いた。

「兄さん、ベロがキュッとなったでしょ。ぜんざいが効くよ。ほぐれるよ」

 一件のおばちゃんにパイプ椅子から声を掛けられた。小豆色ののれんに白い文字の「善哉」。口の広い鍋と七輪。喉が鳴る。信憑性はさておき魅力的な提案だった。

「チャレンジしてないですよ。でも買います」

 PSP製の白い使い捨てどんぶりの中で、汁粉の赤が明るく鮮やかだった。小豆は煮溶けかけた粒あん。角が立った焼き餅が二つ。ほんの一口で容赦ない砂糖甘さが内蔵まで響いた。

「いいケッタ背負ってるね。どこから来たの?」

「神奈川です。山の方ですけど。あー、学術的興味で」

「そ。海沿いは大変だってね。まあ今日はあちこちから来てるから。私らは地元だけど」

「じゃあ、寂しくなりますね」

「それがさー、そう思って来たのに全然始まりやしない。兄ちゃんからしたら間に合ってラッキーだろうけど、こっちは待ちくたびれちゃったよ。宴会してる連中なんてもう、何で集まったのか忘れてるね」

 おばちゃんの話は確かに意外だった。到着が遅くなると分かった時点で──夜道を走るほど命を捨ててはいない──、解体の終わった空間を見ることになると予想していた。

「いつバラすんだろうね。聞いても仕方ないか」

「前に一度、廃校舎の解体を止めた人なら知っています。結局は一日遅らせただけでしたけど」

「へえ。どうやったの」

「そのままです。工事区域に入って逃げ回ったんですよ。カゼマチは生き物がいる間は動かない。そういう自説を叩くために」

「意外とやるね」

「俺じゃないですよ」

 おばちゃんのからかう視線が不意に、跳ねるように上がった。つられて振り向く。

 巨岩の屋上の縁で、逆光に立つ人影が見えた。

 影と単純な遠さで顔も背丈も識別はできない。ただデジャブが起こった。見たことのない情景がフラッシュバックするような直観。縁からはみ出る足が鮮明に見えた瞬間、この人影の行動を知っていた気がした。

 咄嗟に足が動いた。車道を挟んだ距離も、地上から40メートルの高さも、何も考えてはいなかった。蟹を蹴り飛ばす。次の一歩が地面に付く前に、爪先から腰までに大量の蟹が纏わり付く。動けなくなる。

 間抜けに静止した視線の先で、人影は屋上から足を踏み出して、落下した。そして外壁を駆け上がり連結して中空に延びたカゼマチたちに柔らかく受け止められた。

 一人は寝そべったまま、一人は走りながら固まった姿勢で、二人の人間が微動しながら運搬され、汁粉屋台の前で降ろされた。

 カゼマチから解放された瞬間、尻から座り込んでしまった。膝を立てて腕を置き、頭を間に入れてうなだれる。いっそアスファルトに転がりたかった。

「おかえり。おかわりは?」

 声はやけに遠くから聞こえた。餅と小豆には自力で再会できそうで、そう答える気力もなかった。放り出したお椀を片してくれたことに気付き、震える手を上げる。今できる反応はそれくらいだった。

「そっちのお姉さんは? お汁粉が効くよ」

 おばちゃんの目線を追う。屋台の右端から左端へ。

 その人も座り込んでうなだれていた。年齢は同じぐらいか少し下。肩までの髪が汗に濡れ、隙間に覗く耳と頬が紅潮している。汁粉以前のただの水が必要そうだった。

「じゃ、一杯」

 苦しげな横顔を見ながら低い声を聞いて、そのどちらも記憶にないことを確信した。知り合いの誰でもない。デジャヴはもう起こらなかった。

「何してたんですかあんなところで。迷子?」

 その人は驚いた顔で初めてこちらを見た。感情の出過ぎる表情に年齢の想定が下がる。たった今こちらの存在に気付いた、という様子に嘘はなさそうだった。

「迷子なのかな。気付いたら知らない部屋にいて、探検してたらあの白いボールに見つかって、何か言ってくるからビックリして蹴っ飛ばして逃げて、上に行って下に行って。で、今だけど」

「ド迷子じゃねえか」

「お兄さん、駆け寄ろうとしてた人だよね。キャッチできたとは思えないけど、志はありがとう」

「見えてたんですか。知り合いと見間違えてたので、あんまり誉められたもんじゃないっすね」

「飛び降りるタイプの知り合いがいるの?」

「や、実際飛ぶところは見てないんだけど……」

 餅を焼いていたおばちゃんが屋台から出てきて、さっきと同じように正面を見上げた。

 振り向いた時にはすでに、さくらタウン全体が──地表も階段も、巨岩の壁面や窓張りの施設も──カゼマチに埋め尽くされていた。巨大な泡が発生したか、雲が降りてきたようだった。

「なんなの?」

 彼女が呟くのと同時に、カゼマチたちは崩れ落ちた。その向こうに青空が広がる。視界の色彩が変わり、青の面積が大きくなる。そこに構造物は存在しない。残っていない。

 溶けるように音もなく、さくらタウンは消えた。

「これで終わりかい。呆気無いもんだねえ」

「そうですね。本当に」

 おばちゃんはお汁粉の椀を差し出した。まず彼女に、そして見向きもしないと悟ってこちらに。仕方が無いので受け取る。おばちゃんは屋台の火を消した。

「いやいやいや、さっきまで私がいたとこ、時間が戻ったみたいに消えたけど。えっ、何?」

 彼女は首と腕をやたらに振っている。お汁粉は渡せそうにない。食べる訳にもいかず、地面に置くのも悪い気がする。指の熱さをやり過ごすには持ち替え続けるしかなかった。

「時間は戻らないですよ。カゼマチが収容しただけで、この世から消えたわけでもない。解体です。あえて時間で捉えるなら、カゼマチの中で極限に遅滞されている、ことになる、らしいですけど」

「なにその超技術」

「本当に何も知らない感じですか。自分の名前と今がいつなのか、分かります?」

 彼女は慌ただしく周囲を見回した。

「今は、春」

「なるほど」

【サクラタウン解体 十一月吉日】

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