第607話 夢を追いかける者達
固い握手と、心持ちだけは額を地面に擦りつけるほど深々と頭を下げて、志穂はハルに跨がったレジェンドの背中を見送った。何度となくプレミエトワールへ寄って、そのたびに『ぐえ!』と制されているハルの姿に不安を覚えない者など居ない。
「いつも通りでファイトですよ! ハルちゃん!」
「レジェンドを信じるしかないね」
ここまでずっと、ハルは姉と走るという夢を追いかけ続けてきた。
実質二歳馬での未勝利戦勝利から、菊花賞出走を目指したジャッカりの誓い。ハルと相性のいい中山でのステイヤーズステークス初制覇。長距離馬のテッペンとなるため挑んだ天皇賞・春。G1勝利も遂げたフランス遠征。
ここまでの蹄跡はすべて、ハルカエトワールが残した飛行機雲。
夢へ向かってひた走り、とうとう夢のグランプリ発走まで十五分を切っている。
「ハルーッ! 後悔しないようにねーッ!!!」
全盛期の姉と本気でぶつかる機会は、泣いても笑っても今回で最後。
パドックでの大暴れぶりにはどこまでも恥ずかしかったが、興奮してはしゃいでしまうのも無理はない。ならばせめて、どんな結果となったとしても悔いのない、姉妹にとってのラストランになることを祈って志穂は叫ぶ。
そんなハルの人気は十番人気まで落ち、オッズは四十倍だ。
一発が怖いとされる人気薄の逃げ馬にはなったが、日本競馬界のテッペンが揃った熾烈な有馬記念に紛れは起こらないというのが馬券師たちの見方であろう。それは一番人気を背負ったプレミエトワールのオッズにも表れている。
「うへへへ! プレミエトワール銀行に追加で口座作っちゃおーっと」
古谷先生は追加で五百万円、プレミエトワールの単勝馬券を握った。
そのオッズは単勝1.7番。流れに乗って大きく賭けた古谷先生の期待値計算は、もうとうの昔に崩壊している。手元に握った三連単馬券と併せて一千万円。古谷先生はFIREの夢をプレミエトワールに託している。
その一方で、アシュリンは買い目を変更せず、スタンド建物内でチュロスを頬張っていた。ぎゅうぎゅう詰めの観覧エリアでも観戦は早々に諦め、天井からぶら下がっているモニタを見つめている。
「晴翔の実家すげえな! 騎手より牧場継いだ方がいいんじゃね!」
「アホか! ノンデリすぎ!」
所変わって競馬学校の談話室は、騎手候補生がテレビの前に集合していた。
配慮のない三枝誉の発言は即座に双子の三枝静に諫められていたが、晴翔にはもう慣れたことだ。誉に悪意がないことは分かっているし、今後彼が何かしら舌禍を招いたとしても、それは自分のせいではない。
「偶然、強い馬が生まれてくれただけですよ」
「ちょっとは浮かれろよー。三頭出しなんて一流牧場以外じゃそう見ねーじゃん」
「来年には一頭も出ないなんてこともあるでしょうから」
洞爺温泉牧場の三頭出しは無論初めてだ。最強の九冠牝馬を輩出しただけでもお釣りが来るほどだというのに、凱旋門賞馬まで輩出している。
規模の上では大手牧場にはまるで敵わないが、実績だけは相当だ。少なくともこの二頭の活躍で、洞爺温泉牧場生産の競走馬は、「どこの馬の骨か」とバカにされることもなくなるだろう。
「そーだ、実家の馬に乗れたらラクに勝てんじゃね! だって実家すげーじゃん!」
相も変わらず配慮のない誉だが、晴翔は首を横に振った。
もちろん実家の躍進は嬉しいものの、晴翔にとっては同時に兜の緒を締めることでもある。
「うちの生産馬が評判になれば、みんな俺より優秀な騎手を乗せたがりますよ」
「もったいねーなー。自家生産馬に乗って勝つとかすげーカッケーのに」
「そんなことができるのは実家の洞爺ダービーくらいです」
評判が上がれば上がるほど、晴翔の乗鞍は減っていくだろう。はじめのうちこそお情けで何鞍か貰えるかもしれないが、馬主もそこまでお人好しじゃない。
父親の義徳からは、海外から買ってきた牝馬に好きな種を付けていいと告げられ、晴翔は迷わず《オルフェーヴル》を選択したが、受胎中の仔が無事に生まれてデビューしたとしても、その仔に誰を乗せるかは馬主次第だ。実家も馬主ではあるが、息子のために馬を用意するほどの親バカかどうかは疑わしいし、都合のいい話に期待したくもない。
「俺は実力で選んでもらいます。そうならないと意味ないんで」
仕事のためにコネクションを築くという生き様は、大切だとは頭で分かっている。コネクションを最大限に使っている志穂を見ていれば分かることだ。だが晴翔はまだ、志穂ほど思い切り良く行動に移せない。
まずはコネクションよりも基礎となる実力を作ること。
オトナのように器用にはこなせない晴翔は、たとえ無駄な努力に終わろうとも、場数をこなして経験を積む他ない。持てるリソースをありったけ注ぎ込まなければ、一人前のオトナにはなれないのだから。
「始まりますよ」
レース観戦もまた、経験値となる。
映像は、いよいよ今年を締めくくる大レースの本馬場入場。
第71回有馬記念のロゴが消えると、出走馬を送り出す軽快かつ勇壮なBGMが流れ始めた。
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