第248話 お、メガリッチマン
《サトノクラウン》産駒、ファイングレイスの2025。
「九千六百まーん。九千六百万。九千六百万の方いらっしゃいませんか? 九千六百まーん」
「九千六百万だ!!!」
「後方の方、九千六百万円。続いて九千八百——」
「アーイ!!!」
苦悶の表情で入札を続ける五所川原とは対称的に、ボックス席の石油王ルックの男性は志穂に向けて微笑み、小刻みに頷くような仕草を繰り返していた。その視線の先にいるのはどう考えても自分自身だ。肉食獣に狙われた小動物のように、志穂は体を小さくしてドンナ様で身を隠す。
「あんな石油王っぽい人に目をつけられるようなことしてないって!?」
「目立つんだよお前は! だいたいなんだそのふざけたぬいぐるみ!」
「うるせー! 三冠牝馬タックル!」
「ぐふっ!?」
先ほどから石崎を——不可抗力で——押さえつけているドンナ様に隠れていても、チラリと覗くとなおもらんらんと眼光鋭い不気味な微笑みと目が合うばかりだ。
そんな中、入札価格はいよいよ大台に達しようとしていた。
「ボックス席の方、九千八百万円。続いて桁上がって一億えーん、一億円。一億えーん、一億円。一億円の方いらっしゃいませんか?」
他の馬主達はもう競りを下りていた。サンデーフリーの肌馬候補だからと入札する生産者もそこそこいたものの、さすがに出せる金額ではなくなっている。今競りあっているのは這々の体である五所川原だ。
「いいだろう……」
だらりと垂れ下がった手をゆっくり挙げ、五所川原は斜め上方に設置されたVIP用ボックス席を見上げる。白装束の男性にはまったく相手にされていなかったが、日本人らしく体側に両手をぴたりとつけ、深々と礼をして告げた。
「あなたにも覚悟があろうが、私にもすこやかファームへ報いるという覚悟がある! これは五所川原慎二の、チームすこやかとしての戦いだ! 一億円、入札させていただくッ!!!」
とうとう金額は九桁の大台へ。会場モニタや中継映像の金額表示が10000万円と五桁に変わる。一億円を超えるとそれまで二百万刻みだったビッドは五百万刻みに。札束の殴り合いはよりデスマッチの様相だ。
もちろん当歳セッションではすでに四億円近い落札馬も出ており億越えも十数頭いるので、たかが一億円ではしゃぎすぎと中継映像にはコメントがついていた。それでも五所川原にとって一億は大金なのだ。
「ヤバいな、予算一億だから次入札されたら負ける……」
「バカめ、もう予算オーバーだ。消費税のこと忘れてるだろ!」
つい忘れがちだが、入札金額は税抜だ。しっかり消費税が上乗せされることを忘れてはならない。
「一億の消費税って一千万でしょ? ハルが菊花賞勝てば稼げる!」
「牝馬に菊制覇なんでできるワケがないだろうが!?」
「はいじゃー、ハルが勝ったら一億円ね! てゆーか今くれ!」
「このガキいけしゃあしゃあと——」
「アアァァアイッ!!!」
一際大きい、入札の合図が会場に轟いた。ボックス席で手が挙がったのだ。いや、手を挙げるという風ではない。さも簡単そうに人差し指を一本ピッと立てるだけで、ファイングレイスの2025は一億円だ。
「うわ、ヤバいって!?」
オークショニアが次なる入札額、一億とんで五百万円を連呼する。ここまでほぼ二人で競ってきたので、石油王の次は五所川原のターンだがその表情は苦渋に歪んでいた。もう予算はオーバーしている。
「諦めろ! 下りなきゃ破産するぞ!?」
「でも落とすって馬と約束したんだよ! 宣言もしたし!」
「お前はバカか!? 相手は常軌を逸した中東のリッチマンなんだぞ!?」
「馬買って走らせてる時点で馬主なんて全員バカなんだよ!」
オークショニアに煽られて、志穂はとっさに石崎の腕を掴んで天高く掲げた。
「あーい! 石崎のおっさんが入札します!!!」
「おいそんなワケないだろうがやめろ!? 何考えてんだお前は!?」
「正面の方、一億五百万でビッド入りました。一億一千万の方いらっしゃいませんか? いらっしゃらないようなら一億五百万円で正面の方にハンマー落ちます」
「ちょっと待て待て待て入札なんてしてな——」
「三冠牝馬アタック!!!」
「ゴフッ!?」
志穂にできることは、ドンナ様で石崎を押さえつけることだけだ。すべては仔馬がすこやかに夢を育めるように有無を言わせず落札することにある。金を出してもらった分、最悪チームすこやかに石崎を混ぜて四者で共同所有すればいいのだ。あるいは志穂の稼ぎで石崎の分を買い取ればいい。
「いいからとにかく落札すんの! ハンマー落ちて——」
「ノオオオオオオオオオッ!!!」
だが、ハンマーの音の代わりに聞こえたのは断末魔のごとき野太い悲鳴だった。石油王ルックの男性が、大仰に両手を掲げて何やら抗議を叫んでいる。隣にいる通訳か代理人かオークション関係者は慌てて話を聞いていたが、とりあえず入札はされて値段は釣り上がる。現在一億一千万円だ。
再び石崎の手を掴んで入札しようとしたところで、石油王ルックの男性は再び英語らしき叫びを上げる。見上げた志穂に、男性は独特の英語で告げたのだった。
「プレゼント!!! フォー!!! クレイジーホースガール!!!」
「は……?」
あっけに取られているうちにハンマーが落ちた。
ファイングレイスの2025、一億一千万円(税抜)で落札。
落札者は中東。王族の経営する資産管理会社であった。
*
「どういうことなん!? アシュリン説明して!」
「説明も何も、本当にプレゼントだそうです。殿下はJRAの馬主登録もないので、日本では走らせられないそうで」
「なら母国で走らせたらいいじゃん? プレゼントって何!?」
「ですからプレゼントはプレゼントですよ。そんなに不思議なことですか?」
落札後。会場外に案内された志穂の前には、例の石油王っぽい男性と付き従っているスタッフがいた。ついでに懇意の仲だというオブライエン師とアシュリンがいたので説明を頼んだのだが、説明されても理解ができなかった。
頭を抱えながらも、志穂はどうにかジェスチャー混じりで石油王っぽい男性とやり取りをする。
「私、馬もらう、タダで! あなた、何ももらえない。OK!?」
「それ日本語なので伝わらないと思います」
「通訳して!?」
「さっきから同じこと伝えてますけどねー?」
アシュリンが通訳して流暢な英語を話すと、男性はにこやかに微笑みつつ自身のスマホを袖から取り出した。純金製っぽいキラキラ輝くケースをスタッフに預けたのち、男性は志穂の肩に手を回す。
「殿下は、たしかに馬は志穂さんにプレゼントしますと。写真撮ってくれたらいいって言ってますね」
「写真撮った後一億円請求されたりしない!?」
「それも通訳しなきゃいけません……?」
アシュリンは不服そうだったが、念のため通訳をしてくれている。志穂は志穂で、なんだか自分があまりにも物分かりが悪いかのように扱われていることが不服だ。
「……殿下は無料でプレゼントしますと。撮った写真をフェイスブックとマイスペースにアップさせてくれたらそれでいいって」
「意味がわからない……!」
「そんなにわかりませんか? お金持ちの考えそうなことじゃないですか。ある意味有名人な志穂さんと写真撮れるなんて、いい話題になるんですよ」
アシュリンはのんきに笑っていたし、父親のオブライエン師と一緒に写真に収まっていた。志穂は志穂で画角に収まっていたが「スマイル!」と言われてもまるで笑うことはできず、ただただ引きつった顔面のまま、落札したばかりの仔馬の所有権を預かることになるのだった。
「本物の金持ちヤバい……」
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