第146話 ひとつぶ一億円の味
「まさか——賭け金を食べて賭けを降りただとォ!?」
とっさの判断だった。
志穂は、末脚を使うセブンスワンダーに最後まで期待していた。
彼は一気に伸びてきた。結果は五着ではあったものの、三着馬との馬身差は二馬身そこそこ。馬券内も充分あり得る激走だったのだ。
そんな猛烈な末脚を見せられては、宏樹も財前も視線を奪われる。志穂はその隙をついていた。
すべては、この賭けを不成立にするため。
財前が勝手に決めた愚かな限界をぶち壊したかったがため。
「わらひわひーひゃんにはええほひふはい」
「志穂ちゃん、まずキャラメル食べな……」
「ん」
財前、宏樹、秘書の関口。そして財前が持ちかけた奇妙な賭けを見守っていた他の馬主たち全員の目を盗んで、志穂は卓上に賭けられたキャラメルを頬張っていた。
キャラメルの角が口内いたるところに刺さって痛い。そのまま丸呑みにしてしまいそうで嗚咽すら感じる。それでも吐き戻せば賭けが成立しかねないと、志穂は必死でキャラメルを噛み砕く。口直しのコーヒーでねばっこい甘味を押し流して、改めて告げた。
「……これで、まだ馬主やめらんないね」
「小娘、貴様は……」
「わかってたよ。ウチに財産寄付して馬主やめるつもりだったんでしょ。小切手には最初から、六億円って書いてあったし」
賭けのテーブルとして使われていた小切手。その表書きには、志穂が賭ける以前から払戻金が決まっていた。志穂がどう賭けるか。どう賭ければ確実に資金を得られるか、財前は初めから読んでいたのだ。
その小切手を破り捨てて、志穂は続ける。
「この六億は、じいちゃんとスワンが夢を追うためのおカネ。そんなの受け取れない」
「老体に無茶を言う」
「スワンにとっては無茶じゃない。さっき見たでしょ?」
なおも渋面を曇らせる財前に、志穂が願うことはひとつだ。
「夢は、限界を超えた先にあるんだよ」
志穂はずっと悩んできた。今も悩んでいる。そして悩みながらも、家族と一緒に戦ってきた。
クリスは二十歳。現役時代は一勝もできず、繁殖に上がっても不受胎と流産を何度となく経験してきた。周囲はきっと、彼女に限界を感じてきたはずだ。だが洞爺温泉牧場もクリスも諦めなかった。「元気な子が生まれてほしい」と、必死で限界と戦ってきた。
ハルは実質二歳馬。大きすぎるハンデを抱えて同世代と戦うなんて、初めから不利だ。成長速度には限界がある。それでも腐らず体を鍛え続けた結果、同世代に匹敵するタイムを計測できるようになってきた。
レインは競走馬としての限界に立たされていた。今にも使い潰してしまいそうだった限界を迎えた足を、レインはようやく乗り越えつつある。
みんな何度となく限界の苦汁を味わってきた。志穂も同じだ。
体力の限界、資金の限界、技術の限界。面倒を見たのが自分でなければと後悔することも何度もあった。
それでも限界を感じるたびに、同じく限界を超えて戦う家族の姿に奮い立たされてきた。
志穂は思う。
幸せな人間が幸せな馬を作っているのではない。
幸せな馬たちから、力をもらっているのだ。
「じいちゃん。私ね、ホースマンやってわかったんだよ」
「何?」
家族の他、これまで触れ合ってきた馬のことを思うと自然と笑みが溢れていた。
「馬が必死で頑張ってんのに、人間が諦めてどうするよ? こっちも限界超えなきゃね」
告げると、財前は志穂から視線を逸らした。ガラス越し、眼下に広がる府中のターフ、一コーナー付近まで惰性で走っていた夢の馬、セブンスワンダーに視線を向けている。
G2ダイヤモンドステークス。セブンスワンダーにとっての引退レースだ。
だが、彼の引退セレモニーが執り行われることはない。レース後、紙切れ一枚で中央での登録が抹消されれば、そこで競争人生は終わる。同時に、財前の半世紀に及ぶ馬主生活にもピリオドが打たれる。
「だから——」
「じいちゃん、頼む。馬主を続けてくれ!」
志穂が告げようとした言葉は、宏樹の口から飛び出していた。祖父の財前に頭を下げるどころか深々と土下座までして、宏樹は声を震わせる。
「あの時はカッとなって、やめろなんて言ったけど……俺は見たいんだ、名付けたセブンスワンダーが勝つところを! じいちゃんの好きだった馬の子孫が、現代でも通用するってところを!」
「宏樹……」
「それと、俺に。俺に……!」
宏樹は言い出しにくそうに言葉を詰まらせながらも、大きく息を吸い込んで叫んだ。
「俺に……《ザイゼン》を継がせてくれ!」
財前は目を見開いていた。それはまた志穂も同じだ。
現実的に考えれば、宏樹のような若者が馬主になるのは難しい。学歴もなければ資格もなく貯金もない。実家が太いとは言えど、宏樹の両親は馬主業にはビタ一文とて支払わないだろう。
だが宏樹には、血縁関係もない女子中学生に六億円を投げ銭しかけた財前がいる。その資産を継げばいい。そう志穂が思った矢先に、宏樹は告げる。
「カネは俺が稼ぐ! 俺の稼ぎで馬主になって、じいちゃんに認めてもらいたい!」
「……」
財前は黙っていた。その沈黙に耐えかねて、志穂は思わず口を滑らせる。
「さすがにそれは相当頑張んないと難しくない……?」
「わかってる、今は無理だ。でも俺は、荒んだ人生をやり直すチャンスをくれたセブンスワンダーに応えたい」
「やり直す、か……」
財前は瞑目し、過去を思う。
貧困の苦境にあった若き日の自身は、ダイナナホウシュウへの憧れで救われた。そして自身を育ててくれた、連中ばかりの競馬文化への感謝の念が、彼を馬主になるまで突き動かした。
そして孫に買い与えたのは、財前肝入りの血を引くセブンスワンダー。
彼もまた、ひとりの若者の人生を救おうとしている。
「血は争えんな」
財前は震えていた。小さく笑っていたのだ。
そして立ち上がるなり、猫背気味だった背筋を正して志穂に向き直る。
「小娘よ、悪いが先の賭けは不成立だ。それでいいな?」
不敵に口角を上げる財前に、志穂もまた皮肉めいて返す。
「小娘よりマシな使い途が見つかったならね」
「無論よ。行くぞ、関口」
「しかし、宏樹様は……」
秘書関口に問われた財前は、なおも土下座を続ける宏樹を前にカカと笑った。
そしてひと言言い残し、馬主席から去っていく。
「命短し、励めよ若人。《ザイセン》に相応しい男となれ」
立ち去る着流しにシャッポ姿の背中を見送って、志穂はどうしたものかと頭を掻いていた。
それもそのはず。大人しく観戦するのが暗黙のマナーである馬主席で、叫ぶわキャラメルを口に詰めるわ土下座するわの大立ち回りである。ただでさえ悪目立ちするウマ娘の志穂に、有名馬主の財前の組み合わせだ。周囲の馬主たちの視線が突き刺さって恥ずかしい。
なにより、財前の去り際だ。
「カッコつけすぎでしょ、あのジジイ……」
財前の態度には呆れるばかりだが、精神までは衰えていない。セブンスワンダーと同じく、老いてなお壮健だ。
あの口ぶりからして、セブンスワンダーの引退は先延ばしにされるだろう。本当の引退レースは十ヶ月後だ。どうか無事に出走できればいいと志穂は願う。
そして土下座したままの宏樹に、志穂はポケットに入っていたものを投げ当てた。
「宏樹くん、終わったよ。それ食べて帰ろ」
「……これは、キャラメルか?」
投げ当てたものの正体は、ひと粒一億円のキャラメルだ。
宏樹はそれだけで、すべてを悟って笑っていた。
「なんだ、全部食べきれてなかったのか。ははは……」
「一気に十二個も食えるワケないっしょ? 十個食べるので精いっぱい」
「充分すごいって」
ペロリと照れ隠し気味に舌を出して、志穂はもう片方のポケットからキャラメルを取り出す。その包み紙を今度は丁寧に開いて、口の中に放り込んだ。
味わい深い、ミルクと砂糖の甘味。財前の愛した褐色の恋人は、じっくりじっくりと口の中で溶けていく。
「じいちゃんのひと粒一億円の味はどう?」
尋ねると、宏樹は瞳を潤ませながら力いっぱい微笑んだ。
「食わないで取っておくよ。キャラメルの価値に見合う人間になるまでね」
キャラメルの賞味期限は約一年。だけれど、そんな些細なツッコミは野暮だろう。
気持ちのよい甘味の後味を口の中いっぱいに味わいながら、志穂は宏樹とともに馬主席を後にした。
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