第123話 いい先生がいたらな

 羽柴の心中は複雑だ。喜ばしいことなのに、喜ぶに喜べない。

 そんな複雑な心境では、調教馴致にもなかなか身は入らなかった。

 考えるのはクリュサーオルのこと。確かに実馬は健康そのもので、レースのみならず調教でも前向き。しかも半年前より筋量が増えている。黄金の血脈ならではの晩成性の高さと、今どき珍しいほど使い減りのしない管理馬だ。

 だが、だからと言って走らせ続けるローテーションには疑問もある。


「たしかにクリュサーオルは無事ですけど、有馬まで出るのはさすがに無茶じゃないです?」


 そんなクリュサーオルの年内最後は、G1有馬記念に決まった。

 たしかに調教助手としてクリュサーオルを一番に見てきた羽柴は「行けるとは思います」と返答はした。だがそれはどちらかといえば消極的なもの。その旨もまとめて上司である香元に伝えてあるのだが。


「ハッシーの気持ちは痛いほどわかるんだけど、オーナーにも考えがあるみたいでね」

「洞爺温泉牧場さんですか?」

「送られてきた今後の想定ローテだよ。まさかウチからこんな馬が出るとはなあ」


 週単位で使うレースのみならず放牧のタイミングまで記されたローテーションに目を落として、羽柴は驚愕した。

 実に年内九戦目になる有馬記念は状態次第で回避スクラッチと記されていてまだ温情もあるが、問題は来年のレースプランだ。


「凱旋門賞!? 本気で目指すんですか!?」


 クリュサーオルは来年、春競馬を全休する。冬場は滋賀の外厩で調整し、雪解けとともにすこやかファームでの預託。そして夏にフランスに渡ってG2フォワ賞を叩きに使い、一ヶ月後のG1凱旋門賞に挑むとある。


「なんだ、ハッシーの入れ知恵じゃないの? 志穂ちゃんづてにオーナーに伝わったと思ってたけど」

「いやいや! 確かに志穂ちゃんから凱旋門賞の目指し方は聞かれましたけど! 本気で目指してるなんて思わないですって!」


 羽柴が慌てているのは当然だ。なんせ香元厩舎は開業以来海外経験ゼロ。なんのノウハウもなければ現地の厩舎や牧場にコネもない。もちろんある程度の知識はあるが、あくまでも耳目した程度のもの。経験の裏付けがない知識に頼ることの愚かさは香元も羽柴も熟知している。


「すこやかファームか……。そういえばハッシーが見せてくれた動画があったね。あれもう一度見せて」


 件の動画とは、志穂から送られてきたもの。騎手視点での騎乗動画だ。ヘルメットにつけたゴープロで撮影されたためか上下に揺れているが、騎乗経験のある羽柴や香元は、一目見ただけでことの重大さは伝わる。

 香元は女子中学生の見事な騎乗に舌を巻くばかりだ。


「いろんな意味で信じられないよ。確かにロンシャンそっくりなコースのようだけども……」

「とんでもない女子中学生ですよね。育てて教えてコースまで作って乗ってるんですから」

「しかもこの馬もすごい。まるで人間の声に従って抑えたり追ってるようだ……」

「そう、ハルちゃんは賢いんです。ウチに預託予定ですよ」


 羽柴は志穂の「人馬の奇跡」を信じていたが、香元としては否定しないまでも聞き流す程度だった。だがこの動画を見ればその考えも改めざるを得ない。

 どうやら志穂は、何か特別な力で馬と繋がっている。ごく稀に競馬界に現れるという「馬の気持ちがわかる」人間の可能性だ。

 もちろんメディアが面白おかしく書き立てて、背びれ尾ひれがついて伝説化する眉唾物の典型なのだが、バカバカしい妄想だと思いつつも否定しきれない。


「志穂ちゃんは馬と喋れたりしてね」

「アレは絶対喋れますよ! 人馬のキセキ! キセキと言ったら大逃げ!」

「ともかく、オーナーはあの洞爺温泉牧場。それがすこやかファームをここまで信頼している。きっと勝算があるんだろうな」

「それで、有馬記念はどうしますか?」


 ファン投票上位の馬十頭に優先出走枠が与えられる有馬記念。クリュサーオルは十九位だったが、上位にランクインしたプレミエトワールやスランネージュら数頭が出走を回避したため、幸運にも枠が回ってきた。

 オーナーサイドは「回避も可」との通達だ。元よりクリュサーオルは来年ほとんど日本を走らない。せっかく養ったレース勘を、半年以上の休養で失ってしまう可能性もある。だが馬体には何の問題もないし、馬自体もやる気に満ちている。


「……やっぱり有馬には出ておこう。もう少し箔はつけておきたいからね」


 香元はうっすらと、洞爺温泉牧場の意図を察した。

 春を全休してすこやかファームの偽ロンシャンで調整を行うのは、日本の野芝を忘れさせるためだ。本番環境そっくりな外厩で現地に似た洋芝に慣れさせ、その答え合わせとしてフォワ賞に向かう。

 彼らは本気で、凱旋門を狙っている。であれば調教師としてできることは、凱旋門賞で除外されないために実績を積むこと。悪口とブーイングが大好きなパリジャンに「駄馬が来たぞ」と鼻で笑わせないことだ。


「ハッシー、有馬は勝たせてあげて。逸走の危険はあるけど、札幌オープンや共和国杯のときみたいなテンから行く前めの競馬で……いたた」

「こ、香元先生大丈夫ですか!?」


 羽柴に指示を出したところで、香元はお腹を抱えてうずくまっていた。とっさに羽柴が背中をさすると、消え入りそうな香元の声がする。


「ハッシー胃薬持ってない……? 緊張して胃が、ねえ……」

「ええ、もちろん! なんせ私、ですからね!」


 他厩舎へお喋りに行っては胃薬を差し入れて回る羽柴には、いつしかそんなあだ名がついていたのだった。 


 *


 ところ代わって、すこやかファーム。

 相変わらず放牧地は雪深くて使い物にならないが、とうとう厩舎の増築改修工事が完了した。


『わっ! おかーちゃん見て! おっきくなってる!』

『ホントねぇ〜。しかもちょっとあったかいわ』

「こっちにも温泉水暖房を引いてもらったからね。ちょっとカネはかかったけど」


 新しい厩舎は馬房数が四つ。冬場は温泉水パイプによる暖房、夏場は扇風機とミストによる冷房が効くように気密性を高めてもらったものだ。氷点下の外気温から、扉を開けると室温は十度台。外に比べれば充分暖かいここは、馬にとっても過ごしやすい環境である。


『部屋の数が増えたねー? もしかして他の子も来るの?』

「そ。春にはモタが来るし、近々セブンスワンダーって子もくるよ」

『モタおじさん! やったー! モタおじさんと遊べる!』

「まあモタが来るころには、ハルはここにいないんだけど」

『えっ……!? ボク、いらない子なの……?』


 ハルは盛大に勘違いしていた。急にしょげかえるのが可愛らしかったが、誤解を正そうと志穂は告げる。


「ハルもそろそろデビューだからね。プリンが待ってる香元厩舎に入るんだよ」

『……どうしてもそこ行かなきゃだめ? おかーちゃんやシホと離れ離れになるの?』

「…………」


 考えないようにしていたが、本人に言われると志穂も寂しいところはあった。

 特殊な例を除いて、一般的に放牧地から直接競馬場へ輸送することはできない。デビュー前であれば三十日間、デビューした後でも十日間は栗東か美浦のトレセンに滞在することが義務付けられているのだ。これは健康診断など様々な理由あってのこと。日本式競馬では当然のシステムだ。

 どんなに我が子が可愛くとも、親元を離れさせて旅をさせなければならない。


「……寂しいのはわかるよ。私も寂しいし」

『シホはついてこないの?』

「ついて行きたいけど学校も仕事もあるし、私はトレセンに入れないから」

『じゃあボクは誰乗せて走るの!? シホじゃないの!?』

「騎手免許持ってないから。代わりに私よりうまい騎手が乗ってくれるよ」

『やだ! やだやだやだー!!!』


 途端、珍しくハルは駄々をこね始めた。素直に言うことを聞いていた聞き分けのいい子だっただけに、さすがの志穂も戸惑ってしまう。首を振って地団駄を踏み締めるハルをどうにか抑えようとするも、シホは跳ね飛ばされた。


「ぐえー!」

『ワガママ言っちゃダメよぉ〜。シホでもしょうがないことはあるんだからぁ〜』

『だってボク、シホと勝ちたいもん! 他の人じゃ意味ないよ!!!』

「気持ちは嬉しいけどしょうがないんだってば……」

『知らない!』


 言って、ハルは雪深い放牧地へ駆けていってしまった。

 残された志穂はその背を見ながら、大きくため息をつく。


「どうしたもんだかね……」

『困ったものねえ〜……。いい先生がいればいいんだけどぉ……』

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