第77話 バカにルールは無用

 京都競馬場、通称をよど。向きは右回り。

 日本が世界に誇る古都京都の舞台、その最大の特徴と言えばやはり、向正面終わりから三コーナーにかけて聳える丘のような急坂だろう。

 外回りコースの場合、その高低差は四メートル。中山や阪神のゴール前の急勾配ほどではないにせよ、レース中盤でスタミナを使い切るようなことがあれば勝ち切ることは難しい。なぜなら、丘の頂上からゴールまでは下り坂。ただでさえスパートをかけて速度を増すラスト八百メートルに勢いがつく上に、残りの直線も四百メートルある。

 ゆえにレースは、いかに高さ四メートルの頂まで消耗を抑え、かつ好位に導けるかが明暗を分かつこととなる。


 そして、京都大賞典芝二千四百のゲート入りが始まった。四コーナーそばの引き込み線に設置されたスタート地点に、奇数番が先に収まっている。

 そして8番、クリュサーオルの番となる。クリュサーオルは軽やかな足取りでゲートに収まった。すぐ右には7番シルヴァグレンツェ。左には9番マリカアーティク。人気馬二頭に挟まれる格好だ。

 右隣のバカ野郎ことシルヴァグレンツェは興奮しきりに首を動かしていた。


『なあバカ野郎ども! 俺らで上位独占してやろうぜ!』

『あらンいいわねェ〜♪ アンタたちが着いてこれるならだけどォ。グフフ!』

『ハッ! オレ様に抜かされねェよう、せいぜい気合入れて走れよ!』


 パドックでのリラックスと闘志を燃やす三頭はいずれも気合充分。ただひとつの勝利に向けて、まっすぐ伸びた芝を、そして晴天に恵まれた高い秋の空を望む。

 この長い直線は、前頭にとって夢への滑走路。天を分かつように長くたなびく飛行機雲が、旅路の行方を祝福している。

 クリュサーオルはふとこぼした。


『いいモンだなァ……。バカできる仲間がいるってのはよ……』


 幼少の頃から放牧地でもひとり、厩舎でも隣と会話を交わすことのなかった当時の自身には考えられなかったことだ。今でこそ子分であるレインやハル、志穂がいるが、同じレベルで競える、気の合う顔見知りはいなかったのだ。

 その発言の途端、右隣から感涙に咽ぶような声が聞こえてくる。


『バッ、バカ野郎! 泣かせるようなこと言うんじゃねえよ!?』

『いいわねェ、男の子同士の友情ってェ! おいしいわァ!』

『大げさだっての。テメェら集中しろ。始まんぞ!』


 ちらりと大外、枠におさまろうとする大外の姿を見とめてクリュサーオルは告げた。残るは14番オシアノス。彼が収まれば間を開けずゲートが開いて戦いが始まる。

 すると集中しろと言ったのに、シルヴァグレンツェは大きく嘶いた。


『決めたぜバカ野郎! 俺は今日勝つ! お前らも勝て! 勝ってみんなで祝うぞ!』

『勝つのはひとりでしょう? ウケる〜!』

『あァ。勝つのは——オレ様だッ!』


 ゲートが開く。そして十四頭は芝の滑走路へ飛び出した。


「各馬一斉に整ったスタート。一番人気9番マリカアーティクは先行、二番人気7番シルヴァグレンツェは、8番クリュサーオルと殿を進む格好となっています。四番人気クリュサーオルは三連勝中で初の重賞挑戦、破竹の快進撃となるでしょうか」


 前走の札幌とは違い、後方競馬のクリュサーオル。隣には同じく後方競馬のシルヴァグレンツェがつけている。もうひとりのバカ、先行策のマリカアーティクは内ラチ沿いを強襲、しっかりと三番手の好位に収まっていた。


『あのアマいい位置取りやがったな!』

『おうよ! 最高のバカ野郎だな! ハハハッ!』


 十四頭がまず駆けるのは長いホームストレッチ。引き込み線からの発走になる二千四百コースでは、最初の一コーナーに入るまでに五百メートルの長い直線で隊列が整理されていく。人馬みな、思い思いのポジションを狙う椅子取りゲーム。シルヴァグレンツェに先行したクリュサーオルは、前方の位置取り争いを虎視眈々と眺めながら足を動かす。


「先頭から見ていきましょう。最初に一コーナーに入っていくのは1番ルーラーオブマキマ、その後方ぴったりつけて3番プライマルドリップ。そこから馬身差空けず9番マリカアーティクが三番手。その後方に12番ノペアスティ、14番オシアノス、13番アクタージュが四番手を窺おうというところ。ここまでほぼ差はありません」


 コーナー入って、前方は塊になっている。派手な逃げを打たないペースは、クリュサーオルにも心当たりがあった。前走札幌で見たスロー逃げは、全馬ともに体力を温存しやすく逃げ先行馬に有利に働く。


『ったく、なんだあの野郎。チンタラ走りやがって……!』

『おうバカ野郎、お前も気づいたか。あのペースじゃ俺らには不利だぜ』

『ハッ! バカのくせにわかんのか?』

『背中乗ってるヤツがヒリついてんだ。人間の感覚くらいはお見通しだっての』


 スローペースの馬群は一コーナーへ。なおもペースを上げないまま遅延作戦を見せるルーラーオブマキマ、それに追走するプライマルドロップ二頭が、他馬を塞ぐ壁かスピード制限標識のようにレースを支配し始めていた。

 決してハイペースは許さない。

 ルーラーオブマキマとその鞍上が、レースにルールを作り上げる。


「馬群中団は4番アンティックガール、6番ジョバノット。そしてコーナー外を回らせられている格好が11番カレイドクラウン。その後方ぴったりつけて2番オアガリヨ、5番メダリスト、10番ルソレイユソレーブと大混戦。8番クリュサーオル、半馬身後方で殿を進むシルヴァグレンツェも追いついてしまうほどのスロー展開です」


 馬群は団子のまま、一コーナーから二コーナーへ。千メートルの距離標識が近づいていた。

 そのときだ。左後方からの強烈な気配に、クリュサーオルの背筋が冷えたのは。


『悪りぃな、バカ野郎。先行くぜ! 人間サマからの合図だ。このふざけたルールをぶっ壊してくる!』

『テメェ、マジモンのバカ野郎だなァ!?』

『あんがとよ! バカならバカらしく暴れてやんぜェーッ!』


 ダービー馬のバカ野郎、シルヴァグレンツェが早めのスパートをかける。不利となるコーナー外目に膨らむことなど恐るるに足りずと猛烈な駆け上がり。それを意識してか、クリュサーオルも鞍上からの指示を受け取った。


『ゲハハッ! 乗ってるヤツもバカ野郎だな! いいぜ、オレ様もブッ壊してやんよ!』


 厳格な法に抗う、二頭の猛追に会場は大きくどよめく。

 ルーラーオブマキマの制定した速度制限に、終わりの時が近づいている。


「一、二コーナー中間、千メートル通過タイムはなんと1分4秒! 実績馬の多い重賞では珍しい超スローペースで展開していますが——あっと! ここで痺れを切らしたかシルヴァグレンツェ、クリュサーオルの二頭が猛追をかけていく! 一気に馬群中ほどから好位置へ! レースは大きく動きました!」


 スロー逃げを打たれては、末脚の瞬発力勝負の差しや追込には不利になる。であれば自分たちに有利なペースを作ってしまえばいい。至極単純な理論ではあるが、それを実行できる馬はひと握りだ。

 シルヴァグレンツェは、その類の馬だった。


『ようメスバカ野郎! お前チンタラ走って満足か!?』

『あらンボーヤ、よくわかったわね! 飽き飽きしてたトコ!』

『ならついてこい! このルールをブッ壊すぞ!』


 ニコーナー終えて向正面区間。早々に四番手まで上がったシルヴァグレンツェは勢いそのままにルールを作るルーラーオブマキマを抜き去ろうという様相だ。

 とはいえ、残りはまだ千メートル以上。さらには坂も残っている。三番手につけているマリカアーティクにとっては、このままのペースで進んだ方が圧倒的に有利だ。

 だがシルヴァグレンツェが先頭の逃げ馬二頭をめがけ駆け出していったところで、マリカアーティク鞍上も急遽作戦を変更する。このペースは先行馬たるマリカアーティクでも遅すぎる。さらには連対率百パーセントのバカみたいな博打には乗っておくべきというさらなる博打。

 わずかなチャンスにすべてを駆ける乾坤一擲の大博打は、バカの特権だ。


『アンタもついてくんでしょ、金色のオバカさん!』

『ハッ! わかりきったこと聞くんじゃねェよ!』


 そしてクリュサーオルもまた、バカだ。

 バカだからこそ抗える。バカだからこそ本気で戦い抜く。

 溜め込みすぎた力を放ち、三頭が勢いよく駆け上がった。


「これはとんでもないことになりました! 殿から飛び出したシルヴァグランツェ、まだ半分以上の距離を残したまま先頭に立ちました! 二番手はルーラーオブマキマからマリカアーティク! そして五番手から四番手にクリュサーオル上がって先団が再形成! ルーラーオブマキマが作っていた均衡は破壊されました!」


 支配者は打ち倒された。

 やってくるのはバカの時代。バカにルールは無用だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る