第63話 泡吹いて倒れました

《札幌競馬場、第11レース。リステッド競争、札幌日経オープン。十二頭で争われます、芝二千六百メートル。天候晴れ、馬場状態は良》


 テレビ放送の実況とは異なる、淡々とした実況が場内に響いていた。

 ローカル開催、さらには土曜日でそこまで混み合ってはいないスタンド最奥、ゴール番の前で、志穂たち馬事研メンバーは遥か彼方、向正面に現れたゲートとターフビジョンを交互に見ながら様子を伺っていた。

 全員が二重丸を打った大本命、クリュサーオルは三番人気で単勝オッズは6倍。格上挑戦といえども過去二戦での好走が、馬券師たちに買われた格好だ。


「モターッ! 勝ちまくれーッ!」


 自分へ気合を入れるように、そしてゲート入りを待つクリュサーオルに届くことを願って志穂は叫ぶ。ターフビジョンに映る4番ゼッケンの栗毛は振り返ることなく、誘導員の指示で自身の枠に収まった。

 遥かなる目標に向けて、勝ち切ることに集中している。日を浴びて煌めく馬体が頼もしい。

 そんな志穂の傍らでは、茜音たちが楽しげに展開の予想を繰り広げていた。


「さあ二万で勝負の古谷先生。ズバリ展開は?」

「スローペース! 逃げ馬のカルトマリーヌがスロー逃げ打って、ついてった挙句の前残りでおしまい!」

「それじゃモタ勝てないじゃんやる気あんの!?」

「いやいや、クリュサーオルはたぶん前目の競馬するよ。調教コメントに書いてあったし」


 小脇に抱えていた競馬新聞の片隅に、助手羽柴の短観が書かれていた。いわく、スロー展開は折り込み済。新しい競馬を試したいとある。


「オルフェーブルもやっていましたね。あの時はうまく折り合えず二着でしたが」

「あれでも二着に食い込む! さすがオルフェ! そもそも阪神大賞典での逸走は凱旋門賞に向けて脚質を変える作戦を試してたからで——」

「でも加賀屋さん聞いて、今回は荒れ模様! 一人気はトんで後方差しトリステラと、なんか来る気がする名前が好きなアンティックガールが——」

「もうなんもわからーん! とにかく勝てーッ!」


 過去の名レースを引き合いに出して盛り上がる晴翔と茜音や持論を展開する古谷先生から意識を切り離して、志穂は叫んでいた。

 そして大外12番が枠入り完了。誘導員が速やかに退避し、間を開けずにゲートが開いた。


《スタートしました!》


 十二頭は向正面中腹からスタート。好スタートを決めたのは古谷先生も予想した通りのカルトマリーヌ。先へ行きたい馬が他にいないこともあって、真っ先に先頭に立ってレースを引っ張り始める。


《先頭から9番カルトマリーヌ。すぐ後方には1番ソーファラウェイと2番アイルトンセーナ。そして5番ブギーマン、7番アンティックガールに合わせる格好が一番人気10番メキシカンフライト。ここまでが先団》


 どこが前目だ、と志穂はターフビジョンをヤキモキしながら見つめていたが、すぐさま内ラチ沿いを走る4番のゼッケンを見つけて声を上げていた。


《その後方に今日は中ほどからのスタート4番クリュサーオル。その外には8番グランノース、合わせるように11番マキナマイスター。後方には3番サダコ、6番ジーグファルカルテ、殿を12番トリステラで、三コーナーに入っていきます》


 先頭から殿まで、まるで通勤列車のように詰まった馬群がコーナーを回っている。オークスで見た、他馬を引き離していく大逃げとは正反対、ド派手さのないのどかにも見えるレース展開だ。


「よくあんなギュウギュウ詰めで走れるよね。ちんたら走んなってイラついて飛び出しそう」

「あまりにペースが遅くて不利になるようだと、飛び出させる場合もありますね」

「騎手は全員、脳に時計か速度計でも埋め込んでるワケ?」

「似たようなものです」


 晴翔とストップウォッチで十秒きっかりを計る勝負はしないようにしようと志穂は思った。

 コーナーを回る馬群は、地味ながらも動きを見せていた。


《先頭は変わらずカルトマリーヌ、二馬身ほど空けてソーファラウェイの背後にアイルトンセーナ。10番メキシカンフライトは上がって四番手までつけています。最後方、殿のトリステラは二馬身ほど離される格好。馬群は縦長になってきました》


 4番クリュサーオルを目で追いながらも、志穂は馬群の動きにも注目していた。そこでわかったことがある。

 スタート直後は二頭や三頭横並びで走っていたような馬たちが、コーナーを周り終える頃には綺麗に縦一列に並んでいるのだ。


「なるほど、みんなコーナーを内側で回りたいから縦長になっていくワケか」

「ええ。特にコーナーが占める割合が高い札幌はイン突きが鉄則です」


 さすがに騎手になりたいだけあって、レースのことは晴翔が詳しい。ならばと志穂は一周目のスタンド前、ホームストレッチにかかった馬群を見ながら尋ねる。


「でもこのまま一列になってたら勝ち目ないじゃん。どうすんの?」

「距離ロスのない直線で順位を上げるんです。ほら、モタも上げてきましたよ」


 まばらな歓声の中、コーナーでは七番手につけていたクリュサーオルが外に膨らんでいた。短い直線で早めのスパートをかけて順位を上げている。


「志穂ちゃん、モタ来てる! 応援!」

「負けんなよーッ!!!」


 クリュサーオルは落ち着いていた。短い直線のうちに馬身差を詰めつつ前を抜き去り、コーナー直前でうまく内ラチ沿いにコースを戻している。さながら追越車線に入って前の車を追い抜き、車線変更して元の車線に戻るようだ。

 いたずらに闘志を燃やすばかりじゃない。勝ち切るための冷静さが光る。


《千メートル通過が1分4秒のスローペースの中、一コーナーから二コーナーにかかるところ。五番手に上がってきたクリュサーオル、前を詰めてメキシカンフライトを窺う格好。そして先頭カルトマリーヌと後続との差が一馬身ほどまで縮んで向正面に入ります》


 馬券を握りしめる手に汗がにじむ。内ラチ沿いを駆ける経済コースの方が効率はいいとわかっていても、いまだ五番手を走っているクリュサーオルの姿は心臓によくない。今すぐにでもスパートをかけて全員ブッちぎって勝ってほしいなんて、あり得ない展開を望んでしまう。

 だが、ここで大きくレースは動いた。


《ここで殿トリステラ一気に仕掛けました! 馬群の中ほどから一気に上位へ! 三コーナー目前にして先頭はカルトマリーヌ! その一馬身後方にメキシカンフライトつけているが外目を塞ぐようにトリステラ上がってきてコーナーに入っていきます! クリュサーオルは経済コース、追走四番手から差を詰めていく!》


 それまでのスローペースが一転、ラスト八百メートルに入ったところで加速する。

 後方には不利とされる札幌の地。最後方から仕掛けたトリステラが先頭の隣にぴったりつけて外側を回る。一方のクリュサーオルは熾烈な先頭争いをじっと待っているだけだ。もどかしくて仕方がない。


「ねえ後方は不利じゃなかったん!? なんなん今の!? 先頭に並んだじゃん!」

「あくまでデータの上では、です。走ってみないとわかりません」

「捨てちまえそんなデータ!?」


 データ、サイン、トラックマンのイチオシ、推しの単複。

 馬券を買う根拠にはいろいろあるが、究極のところすべては馬次第だ。人間にできることなど応援以外にありはしない。


「モターッ! 私が目印になってやるから飛び込んでこーいッ!!!」


 真っ赤なドレス姿で声を張り上げても返事は返ってこない。馬の耳には届いても、志穂の耳には届かないのだ。聴力には限界がある。だからただ叫んで、ドレスの裾を翻しながら手を振る。


「いけーッ!!!」


 馬事研全員の言葉が重なった。

 馬群はとうとうホームストレッチ、二百メートル足らずの直線に突入する。


《先頭はトリステラ、先頭はトリステラ! しかし外回したクリュサーオルが伸びていく! 内ラチ沿いカルトマリーヌは伸びがよくありません! 巻き込まれるように一番人気メキシカンフライト後退! 垂れ馬かわしてアンティックガール上がってくる!》


 短い直線、トリステラとアンティックガール、そしてクリュサーオルの追い比べ。

 すでに二千メートル以上を走った上、早めのスパートをかけている先頭トリステラは必死に首を上下に振り乱す。鞍上も短鞭を入れるが、もうひと伸びは期待できない。

 そんな好機を、貯めに貯めた黄金の末脚が見逃すはずはない。


《ここでクリュサーオル前に出た! そのまま差し切ってゴールイン! 二着アンティックガール、三着トリステラ! 格上挑戦のクリュサーオルは三連勝でオープンクラス入り! 一番人気メキシカンフライトは七着に沈みました!》


 ゴール板の前。一番に駆け抜けたのは黄金の一族、クリュサーオル。必死さを思わせる見開かれた瞳、浮き上がった血管の迫力に、志穂はもう、声を上げる気力も失っていた。

 全身に湧き上がるのは勝利の喜びだ。ただそれよりも道中の緊張感が一気に緩んでしまって、へなへなとスタンドに倒れ込む。


「ちょっとチビった……」

「馬券の使い道決まったね……」


 肩を抱く茜音に諭されながら、柵越しに本馬場を駆ける馬たちを見つめる。先頭で折り返してウイニングランを披露するクリュサーオルは、勝って勝って勝ちまくる、夢への第一歩を見事に踏み出した。

 だが、勝利への感慨に浸る暇はなかった。


「加賀屋さん藤峰先輩大変です! 先生が泡吹いて倒れました!」


 酸欠でくらくらする頭を動かして晴翔を探すと、いつも通り卒倒した古谷先生の姿が目に留まった。


「また外したの? ホント競馬ヘタだよね先生……」

「いえ、それが……!」


 古谷先生は棺桶にでも収まったように胸元へ両手を、そして馬券を握りしめたまま倒れていた。


「的中して倒れています!」

「当たっても気絶すんのかよ!?」


 死んでも離すかと握りしめられた的中馬券は単勝四千円、馬単一万円、ワイド六千円。三連単複一万円ずつ。

 二万円勝負と言ったのにその倍は買い足している古谷先生、一着から3番人気、8番人気、5番人気の総額は——


「586万4000円……」


 志穂でさえ卒倒しそうになる金額。泡を吹いて倒れる訳だ。


「先生! 死んだら全部国に没収されるよ!? 生きてー!」

「先輩、医務室に運びましょう! 加賀屋さんはモタの口取式を!」

「いやいやちょっとーッ!?」


 馬事研は全員的中した。したはいいが、しすぎだ。

 あの金額がかかっていれば、古谷先生は三途の川だろうと地獄の底だろうと這ってでも戻って息を吹き返すだろう。だから先生の容態について不安はない。ただ教師の仕事を辞めないか、それだけが志穂の心配事だった。

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