第45話 復帰と調教と練習と

「おおーッ! いい家が建ったじゃないか! 娘がとうとう自力で家を建てられるようになって父さんは嬉しいぞォー!」

「よく言うよ、結局ビタ一文出さなかったくせに」


 「馬産してます」なんて言ったとたん鼻で笑われるような犬小屋しかなかったすこやかファームに、ようやく立派な厩舎が完成した。


 簡易式馬房。洗い場付き。お値段九十万円税抜き。

 クリュサーオルのおかげで建ったふた部屋の厩舎は、それまでの大草原のちっぽけなあばら家とは床からして違った。むき出しの大地そのものだったところへコンクリートの基礎を打ち、蹄にやさしい床材は沈み込むような柔らかさ。一室の広さも八畳くらいあって天井も高く、窓を閉めきればすきま風ひとつ入ってこない。

 なにより志穂が嬉しいのが、ついでに母屋から引いてもらった水道だ。今まで水を汲むときもシャワーで馬体を洗ってあげるときもいちいち長いホースを使っていたのが、今やなんと厩舎そばの蛇口ひとつで水が出る。

 おまけに——


『ボクの頭になんか絡まってる! あと口と背中がムズムズするよ! なにこれなにこれ!?』


 ——あの業者はいい人だ。なんせオマケにハル用の馬具を一式プレゼントしてくれたのだ。


「それは頭絡とうらく馬銜ハミと鞍。試しにつけてみたけど、一気に競走馬っぽくなるもんだねー」

『ホント!? 速そう? カッコいい!?』

「うんうんカッコいいカッコいい」

『わあ〜い!!!』


 言って、ハルは喜びの猛ダッシュを決めて丘を駆け上がった。初夏の風を抜き去るどころか、取り付けの甘かった頭絡も馬銜も鞍も吹っ飛ばして、戻って鼻先スピアを食らわせてくる頃にはいつもの裸馬になっていたが。


『すごい! つけてないみたいに体になじむッ!』

「つけてないからねー」

『そうねえ〜』


 広々した馬房の中からクリスの声がした。ひと足お先に、馬房に敷いた寝藁の上でクリスは寝転んでいる。お腹の中に新しい命が宿っているかもしれないので、なるべく安静にして——いつも安静だが——休んでもらっていた。

 新築の香りがする馬房に入り込んで、クリスの耳あたりを撫でながらお褒めの言葉を期待して尋ねてみる。


「どうよ、新しい家は」

『あんまり変わらないわねえ〜』

「せっかく建てたのに感想がそれ……?」


 ぽやぽやしているわりに、思ったことを言い過ぎるのがクリスだった。馬に気を遣われるよりはいい気もするけれど、それなりにはがんばった張り合いがない。

 だが、クリスは続けて言う。


『シホとハルがいれば、どこだっていいものねえ〜』

「かっ、かわいいなんて思わないんだからねー」

『シホ変なのー。なにそれー?』

「照れ隠しだよ」


 母子ともどもめちゃくちゃに撫で回して、今の気持ちをお裾分けしてやった。

 大変な馬産がそれなりに勤まるのは、すこやかに過ごす家族ふたりがあってこそ。受け取ってばかりのハッピーを今度は他の馬にも渡せるようにしたい。


 その他の馬筆頭が、外厩の馬房で骨を休めている三歳牡馬だった。


『へえ……。親分にそんな過去があったんですね……』

「そうそう。あいつホントはビビりでさ。なのに吠えまくって虚勢張ってるんだよ? 笑っちゃうでしょ」


 香元厩舎であることないこと吹き込まれたのか、マニーレインはずいぶんクリュサーオルを尊敬していた。いちおう相手はひとつ上の先輩だし、歴戦の二勝馬。まだレースに出走していないマニーレインが尊敬するのはわからないでもなかったが、フェイクニュースはよくない。

 なので真実を教えてやった志穂だったが——


『ぼくみたいに臆病でも……親分みたいにカッコよくなれるかもしれないんですね……!』

「ダメだ、モタに心酔してる……」


 ——マニーレインには何を言っても無駄だった。

 全否定しようとも思ったけれど、クリュサーオルの虚勢が希望になっているならそっとしておこう。夢が壊れないようクリュサーオルにはがんばってもらうとして。

 志穂はマニーレインに馬具を取り付けて、厩舎から外へ連れ出した。


 梅雨に縁のない北海道の六月中旬。

 澄み切った空気を吸い込んで、いよいよリハビリが始まった。


「いちおう羽柴さんからメニューは貰ってるから、それに従ってやってこう」

『はいっ……!』


 ヒーローこと《トウカイテイオー》のおかげで、マニーレインはやる気に満ちていた。羽柴から送られてきたメニューはムチャクチャで、すでに心が折れそうだったが。


 リハビリの大部分は、馬に任せた放牧。ここはいい。

 その後に続くのが、一日二回の洞爺温泉牧場の芝千四百コースを歩いての調整。歩くといっても指示は常足なみあしだから、志穂からすればゆるめのジョギングくらいの速度だ。それを空馬、つまり鞍だけ背負わせて引綱を引けと書いてある。


「あのふわふわ女、私に三キロ走れって言ってるとしか思えない……」


 どう解釈しても、羽柴は女子中学生の体力を過信している。こんなことを続けたら故障するのは志穂のほうだ。

 だから志穂は考えた。馬と同じ速さで歩けるのは馬だけである。


「というワケで、リハビリパートナーを紹介します。うちの家族のハルです」

『ハルだよ! レインおにーちゃんこんにちわ!』

『こ、こんにちは……。ええと、家族? シホさんも馬なんですか……?』

『シホはウマ娘だよ!』

「ヒト娘です」


 言って、ハルに乗せた鞍の取り付けを確認し、鎧に足をかけて一気に踏み切った。カッコよくひと息では乗れなかったので、よじ登るようにしてハルの背になんとか腰を落ち着ける。


「ハル、どんな感じ?」

『ちょっと重い……でもボクがんばる!』

「うし、とりあえずがんばって。徐々に慣らしてくよ」


 志穂の思惑はこうだ。マニーレインのリハビリついでに、ハルの乗り調教と自身の乗馬練習を同時にやってしまおうというもの。まともな頭のホースマンなら誰もやらないが、あいにく志穂はイカれている。

 ハルの馬銜——馬の口奥にくわえさせた金属——につながる手綱を持ち、ついでにマニーレインの引綱も持つ。これで準備は完了だ。


「んじゃ、しゅっぱーつ!」

『はーい!』

『はい……ッ!』


 ハルの動きに従うように、マニーレインも歩き出した。

 普段より一メートルほど高い視覚がぐらぐら揺れる。初めて人を乗せたハルの背は、クリュサーオルとは違って安定しない。左右にヨレたり上下動も多くて、全身の筋肉を細かく使ってバランスを取る。

 日本で生まれる馬は年間約七千頭いるが、デビューに漕ぎ着けるのはその半分だ。夭逝してしまう馬もいるが、大半は競争心がなかったり、乗馬すら満足にこなせないなどの理由で振るい落とされている。

 人を乗せて歩けるだけでも、馬としてはエリートだ。


「レインはどう? 痛くない?」

『歩きにくいけど、痛くはないです……』

『シホ、慣れてきたよ! もっと速く走っていい?』

「走ったらニンジン抜き! ほら、馬銜に集中して曲がって」

『のんびりすぎてつまんないよーッ!』


 ハルは不満そうだったが、あくまで訓練だ。「ぱっぱか走る」なんて言葉の通りに、前後四本の脚で芝を踏みしめて歩く。

 左回りのコーナーに差しかかったので、左手綱をわずかに引いた。手綱は馬銜に繋がっていて、引いた方向にハルの鼻先が向く。馬はまっすぐ歩く習性があるので、ハルは引いた方向に曲がっていく。この手綱の微妙な操作でカーブやライン取りを行うらしい。


『ぐえ! 首痛いよー!』

「ごめんごめん、強く引きすぎた。塩梅が難しいな、これ……」


 手綱は繊細だ。ほんのわずかに引くだけでいい。頭ではわかっていても、必死に体幹に力を入れながら手綱を捌くのは並大抵の技術じゃない。プロ騎手はこの何倍もの速度、かつ不安定な背中の上で、落馬の恐怖と戦いながら手綱を繊細に操っている。片手に短鞭ステッキのオマケつきだ。

 そんな調子でちょうどコースを二周。マニーレインのリハビリノルマをこなし終えたところに、晴翔がすっ飛んできた。息を切らしながらも唖然としたような顔で志穂を見上げている。


「加賀屋さん、何をやってるんですか……」

「レインのリハビリと、ハルの調教と、私の乗馬練習」

「なぜ同時に……?」

「いや聞いてよそれがさ? 羽柴さんのメニューだと三キロも走んなきゃいけないんだよ? そんなん馬乗った方がラクじゃん?」

「どんな時短テクですか……」


 晴翔は大きなため息をついていた。やはりイカれた方法だったらしい。

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